知っておきたい今井むつみさんの認知科学の広くて深い世界を、体系的に学べるように、えりすぐってお届けしていきます。今週は、2024年9月の新刊『 学力喪失 認知科学による回復への道筋 』(今井むつみ著、岩波新書)からの抜粋です。1回目は、書籍の中でも最も魅力が濃縮されている「はじめに」です。

はじめに

 2022年6月に『 算数文章題が解けない子どもたち ことば・思考の力と学力不振 』という書籍を岩波書店より出版した(楠見孝・杉村伸一郎・中石ゆうこ・永田良太・西川一二・渡部倫子、各氏との共著)。この本では、「ことばのたつじん」「かず・かんがえるたつじん」という二つのテスト(以後はあわせて「たつじんテスト」)の理念や学術的根拠を示しつつ、それぞれの問題を紹介した。「たつじんテスト」は子どもの学力不振の原因を根本から明らかにするために、筆者をリーダーとする開発チームと広島県教育委員会が共同開発したテストである。また、テスト公開のために、広島県内の自治体で行った調査から浮き彫りになった小学生の学力の躓(つまず)きの背後にある様々な原因について解説した。

 『算数文章題が解けない子どもたち』は「たつじんプロジェクト」(広島県教育委員会では「小学校低学年段階からの学ぶ喜びサポート校事業」と呼んでいる)の報告書としての色合いが強かった。タイトルからして、算数教育の本という印象をもたれた方も多かったかもしれない。しかし、「たつじんテスト」によって明らかになった子どもたちの学力低迷の原因は、決して算数という教科に限定されるものではなかった。かといって、世間一般でよく言われるような「読解力がない」という一言で片づけられるものでもなかった。学力不振の子どもたちは、そもそも「数」という概念を根本的に誤って理解していることがわかったのである。

 読解力にも問題があることもわかったが、さらにそれを詳しく見ていくと、問題文の中の大事なことばや概念を知らないから問題文を誤解してしまうことや、問題文に直接書かれている情報にとらわれすぎてしまい、書かれていない情報を補って状況を理解する、つまり行間を埋めることができないこともわかった。これらは結局、算数に限らず、どの教科の学びにも共通する基盤能力である。

 小学校で習得することになっている基本的な概念について誤った認識をもったまま中学生になってしまった子どもは、果たして中学校での学びについていけるのだろうか? 中学に入れば小学校で学習したはずの基本概念はリカバーでき、小学校で習った問題なら解けるようになるのだろうか? 残念ながら多くの子どもたちは、リカバーできていない。小学校で習得することになっていた基礎的な概念が理解できていない状態で、授業はどんどん進んでしまい、「学習性無力感」をいだくようになってしまっている。学習性無力感というのは、心理学の用語で、学習者が、いくら学習を続けても自分はわかるようにはならない、だから学習しても時間の無駄だ、と思ってしまうことである。

 筆者の一番の専門分野は子どもの母語の言語習得である。言語というのは、巨大で複雑な記号の体系である。詳しくは、本書(特に第7章)を読んでいただきたいのだが、「ウサギ」のような具体的なモノの名前、「アカ」のような色の名前、「アルク」のような動作や行為の名前など、そのような、大人にとってはまったく抽象性を感じないことばも、実は、かなりの抽象性をもつ。ましてや、「イチ(1)」や「ジュウニ(12)」のような数のことばが指し示す概念は、目で見ることすらできない。ことばを覚え、話したり、読んだり、書いたりできるようになるためには、気が遠くなるような知的プロセスが必要なのである。筆者は概念知識をほとんどもたない乳幼児が、いったいどのようにして言語を習得していくのかという謎にずっと挑み続けてきた(1)。結論をいえば、言語の習得という偉業を達成できるのは、人間の子どもの推論の力、知識を学習する力に所以(ゆえん)している。

 「学ぶ力」は漢字二字で表記すれば「学力」である。しかし、現代社会において「学力」とは何かと問えば、ほとんどの大人は「学校での成績」と答えるだろう。素晴らしい「学ぶ力」をもっているからこそ、言語という巨大で抽象的な記号の体系を習得することができた乳幼児が、小学校に入学して以降は、学習内容についていけなくなってしまい、「学力が足りない」とみなされてしまうのはなぜなのだろうか? その問いが筆者を突き動かし、本書を執筆させた。筆者は、多くの子どもたちが、学びは困難で自分には無理なのだと思ってしまう「学習性無力感」に陥っているのは、子どものせいではなく、大人のほうに何か根本的な誤解があるためではないか、そして、大人たちこそが、すべての子どもが本来的にもつ「学力―学ぶ力」を喪失させているのではないかと考えるようになった。

 しかし、人間の子どものもつ「学ぶ力」をもってすれば、喪失してしまった学ぶことへの意欲は、大人の工夫で回復することができるはずだ。乳幼児期の子どもたちが自らの「学ぶ力」で言語と概念を習得していく姿をずっと目(ま)の当たりにしてきた筆者にとって、それは揺(ゆ)るぎのない確信である。そのために必要なのは、大人が、自分たちが(あるいは社会全体が)有している、「学び」や「知識」についての誤認識に気づき、子どもたちの躓きの原因を理解したうえで、子どもたちによりそい、子どもたちが本来もっている「学ぶ力」を引き出せるように教育を変えることなのである。本書の書名『学力喪失 認知科学による回復への道筋』は、その意図と願いによってつけられたものである。

 「学力喪失」と聞くと、今の子どもたちの学力が昔と比べて下がっている話なのかと思われる向きもあるかもしれない。しかし、そういうことではない。子どもたちが本来的にもっている「学ぶ力」をなぜ十全に発揮することができないのか、その原因と回復への道筋を認知科学の視点から解き明かしたいのである。

 前著『算数文章題が解けない子どもたち』では小学生の算数学力不振について述べたが、その後、筆者の研究室では中学生用の「たつじんテスト」を開発し、調査を行った。本書では、小学生だけでなく中学生も含め、学校での学習に困難を覚える子どもたちが、基本的な数やことばの概念についてどのような誤認識をもっているか、読解力や考える力を得るためにどのようなことにつまずいているかを述べていくとともに、子どもたちが自ら誤認識に気づき、克服していくために、そして何より、喪失した学びへの意欲を回復させるために私たち大人ができることを、理論的な裏付けとともに提案したい。

 ただ、一言お断りしておきたい。本書は、日本全国に大勢いるにちがいない、学校での学びにつまずいてしまった子どもたちにどう対処したらよいかを事細かく述べるマニュアルではない。すべての子どもに同じように通用するマニュアルは存在しない。なぜか。知識、性格、年齢、信念など、様々な点で子どもには大きな個人差がある。また、小学1年生に効果的な対処法が、小学校中学年・高学年の子どもにも同じように効果的なわけがない。どの子どもにもうまく使えて、どの子どもも同じように学力を伸ばすことができる「普遍的な方法」は存在しないし、存在するべきでもないのである。教師は、あるいは子どもの成長にかかわっている社会の大人たち一人ひとりは、子どもたち一人ひとりの躓きや興味に気づき、子どもがもつ「学ぶ力」を開花させるように支援ができる「たつじん」にならなくてはいけない。本書は、そのためにまず知っておいてほしい情報を提供し、その道のりを歩んでいくための指針を述べた書物だと思っていただきたい。

(1)この謎への答えに興味がある方は拙著『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』(秋田喜美氏との共著、中公新書、2023年)をご一読いただきたい。
《「はじめに」の参考資料》
植松佳香・高嶋将之・高浜行人「日本の15歳、数学的リテラシーに課題教諭ら「授業する余裕ない」」(朝日新聞2023年12月5日、朝日新聞デジタルhttps://www.asahi.com/articles/ASRD54V05RCXUTIL02D.html[2024年4月28日閲覧])
文部科学省中央教育審議会『「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現~(答申)』(2021年、https://www.mext.go.jp/content/20210126-mxt_syoto02-000012321_2-4.pdf