知っておきたい今井むつみさんの認知科学の広くて深い世界を、体系的に学べるように、えりすぐってお届けしていきます。今週は、2024年9月の新刊『 学力喪失 認知科学による回復への道筋 』(今井むつみ著、岩波新書)からの抜粋です。3回目は、人間にとっての記号接地と生成AI時代の子どもの学びについてです。

フレーム問題と乳幼児の言語習得

 言語の習得も究極のオープンエンドな課題である。一つの単語の意味を推論するには、乳幼児は、少ないながらも自分のもつ、分野をまたがるありとあらゆる知識と推論能力を統合して、その状況でもっともよい推論をする。まさにアブダクション推論である。その推論を素早く、精度よくできるようになるために、語彙全体を見渡し、パターンを分析して、洞察を得る。これは、よりメタなレベルのアブダクション推論だ。洞察によって、自分の知識を自分で引き上げ、ブートストラップすることで、知識の量と質を向上させる。間違えば、それを修正する。

 では、AIは修正をするだろうか。目標達成への確率の数値はつねにアップデートされる。それを「修正」と言うならイエスだ。しかし、「人間と同じような知識の修正」、特にスキーマの修正はしないと言ってもよいだろう。AIはそもそも「知識」をもつのだろうか? これを考え出すと、深淵な哲学の領域に突入してしまうので、ここではやめておく。しかし、これだけは言える。AIがもっとも不得意とするのは、「知識を使うこと」である。人間が知識を与えても、AIはそれをいつ、どこで、どのように使うのかがわからない。複数の分野の知識を自在に組み合わせて新しい知識を創造することも、自分からはしない。人工知能の分野では、このことを「フレーム(枠)問題」と呼んでいる。

 AIは過去に学習によって蓄えた知識(あるいは確率の数値)を、別の問題を解くときに自ら使うことができない。人間が知識を外から与えても、その使い方がわからないのである。この問題は、現在の生成AIにおいても解決されているわけではない。それにもかかわらず、膨大な言語データに潜む記号どうしの関係性の計算だけで自然な言語を紡(つむ)ぎ出すことを可能にした生成AIの開発者たちには、ほんとうに感嘆するしかないのだが、生成AIが、人間に与えられた情報から学習した知識を別の問題の解決に自在に使えるようになったわけではないのである。

 ひるがえって、言語習得をする乳幼児には、フレーム問題は存在しない。人間は、赤ちゃんのときから、推論によって創成した知識を、別の単語の推論に使うことができる。しかも、驚くほど離れた分野の知識を組み合わせて、知らないことばの意味を推論したり、新しいことばを創り出したりすることができる。このことは、本書でも拙著『 言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか 』(秋田喜美氏との共著、中公新書、2023年)でも、繰り返し述べてきた。

 今直面している問題の解決のために必要な知識が何であるかが(教えられずに自分で)わかる。これは当たり前のことではない。AIにはできない。人間は赤ちゃんのときからこれを自然にしているのだ。「この問題を解決するのに、前に学んだこの知識とあの知識が必要だ(あるいは役に立つ)」。それが直観的にわかるから問題が解けるし、自分がもつ知識を自分の力で拡張することができる。そういう本能をもっている、と言ってもよい。

人間にとっての記号接地

 国際認知科学会の2024年のルーメルハート賞(認知科学のノーベル賞といわれる賞)を受賞したアリソン・ゴプニック(Alison Gopnik)博士の受賞記念講演は、人間の乳幼児がそのような「本能」をもつことを、説得力をもって示すものだった。人間が乳幼児期にすることを一言で表せば、「世界を自分の身体で探索すること」だとゴプニック博士は語っていた。そう、まさに記号接地なのだ。「探索し、探究し、自分を世界に接地しようとする存在」としての人間。その萌芽(ほうが)は、ことばを話すようになる以前から、すでにみられるのである。

 まだ座ることができず、ハイハイもできない赤ちゃんを紐でモビールに結びつける。脚を動かすとモビールは動く。赤ちゃんは、飽きもせずにそれを続ける。すると、モビールのコントロールのしかたがわかってきて、思い通りに動かせるようになる。でも、赤ちゃんはそこで探索をやめない。今度は、わざわざ、自分が会得した「コツ」に反する動きをしてみる。モビールはうまく動かない。

 このように、わざわざ自分から、うまくいった方法を壊し、違うやり方を試みるのは、どうしてなのか。乳児がしたいのは、「結果がうまく出る方法を見つけること」ではなく、「なぜこうするとうまくいき、なぜこうするとうまくいかないか」、つまりものごとの仕組みを発見することなのである。要するに、人間とは、問題解決に成功することだけを目的として探究する生き物“ではない”のだ。モノに身体で触れて、つかみ、動かし、そのモノを理解しようとする。同時に世界の仕組みを理解しようとする。言語は、まさにその延長線上にある。そして、抽象を極めた数学や科学の世界、実世界を象徴的に表現する芸術の世界は、さらにその延長線上にある。これが本書で述べた「人間の記号接地」である。

 人間は、AIのように膨大な記憶も、大量の情報をブルドーザのように一気に高速で処理する能力も、もつことはできない。しかし、世界を身体に接地させ、アブダクション推論をしながら自分で知識を拡張していくことができる。外から与えられるのではなく、自分で世界を探索し、自分の身体を通じて経験し、自分でその経験を抽象化して知識を創造することができるから──言い換えれば「記号接地」しているから──人工知能の最大の問題である「フレーム問題」(知識が使えない問題)が人間には存在しないのである。少なくとも乳幼児期には。

フレーム問題と就学後の子ども

 しかし、本書で紹介した就学後の子どもの姿は、乳幼児期のそれとはずいぶん異なっている。学校に行くようになると、子どもたちは乳幼児期のように探索をすることが少なくなる。知識は自分でつくるものではなく、教えてもらうもの、と思うようになる。効率よく知識を暗記しようとする。テストで高い得点を取ることが「成功」と思うようになり、失敗することを怖がるようになる。すると、子どもたちもコンピュータと同じように、フレーム問題に直面してしまうのである。先生に教えられた「外にある知識」を覚えても、それをいつ、どう使ったらよいのかわからなくなるのだ。それが、本書第1章で紹介した、算数文章題が解けない子どもたちの姿である。もちろん、この問題は、算数だけの話ではなく、学校で学ぶことになっているすべての教科単元に言えることである。算数では、それが特に顕著なだけなのだ。

 学校で学ぶ目的は何か。多くの人が、知識をもっと増やすためと言う。しかし、その知識が使える知識とはならず、使うことができない知識の断片を覚えただけの「死んだ知識」で終わってしまっていたら? 先ほど述べたように、フレーム問題が存在しなかった乳幼児が、学校で学ぶようになると覚えた知識を使えなくなる。では、学校で学ぶことがいけないのか?

 もちろん、そんなことはない。筆者は決して学校不要論者ではない。学校は先人たちが創り上げてきた文化的遺産としての知識をすべての人々に開放し、共有するための素晴らしい場所だ。言語も文化も生きた年代もまったく異なる時空間において発見され、創造された知識を、後世に生まれた者が受け継ぐことができる。そんなことができる存在は、地球上には人間しかいない。

 しかし、呼吸をするのと同じくらい当たり前に日々世界を探索し、学び続けている子どもたちが、なぜ学校では自ら知の世界を探索することをしなくなるのだろうか。教えてもらった知識の断片を「覚えること」が学校ですることだと思ってしまい、その結果、学ぶ力を喪失してしまっているのだろうか。このことは、教育にかかわる仕事をしている人たちだけではなく、社会のすべての大人が真剣に問い、考えなければならないことだと思う。

 「生きた知識」はどうつくられていくのか。筆者は発達心理学者として、乳幼児が言語を学び、習得する過程にそのヒントを見出(みいだ)してきた。子どもは言語という巨大な記号の体系を自ら探索し、推論し、使い、身体の一部にすることができる。そのとき、子どもの先達である大人は、単語の意味を、あるいは文法を、説明して教えたりしない。教えることができないからだ。しかし大人ができることが何もないわけではない。大人は、子どもの発達段階、知識のレベルを察知し、子どもに合わせたサポートをする。その子どもがまったくわからないことばや複雑な文法は、そのときには使わない。少し成長したら、ちょっと抽象的なことばを使い、ちょっと複雑な文法構造をもつ文を言う。子どもが今いる段階から自力でブートストラップできる絶妙なレベルを直観的に見極めて、足場をかけてやり、子どもの記号接地をサポートする。しかしこれも、人間にアブダクションの能力があるからこそ可能なことなのである。