日本企業は二酸化炭素(CO2)の排出削減に関しては熱心に取り組んでいるが、SDGs(持続可能な開発目標)に掲げられた格差や人権、生態系などの課題に対してのアクションは、欧米企業に比べて見劣りする。そこで、前環境事務次官の中井徳太郎氏に、欧州のSDGsをけん引してきた英蘭ユニリーバの前最高経営責任者(CEO)、ポール・ポルマン氏の最新刊 『Net Positive ネットポジティブ 「与える>奪う」で地球に貢献する会社』 (アンドリュー・ウィンストン氏との共著)を読んでもらい、日本企業のSDGsの課題について語ってもらった。
マイナスの影響をゼロにするだけではもはや不十分
『Net Positive(ネットポジティブ)』では、消費財のグローバル企業である英蘭ユニリーバの前CEO、ポール・ポルマン氏が、経営不振だった同社を、国連のSDGs(持続可能な開発目標)を先取りする形でサステナビリティー(持続可能性)を軸に立て直した様子が描かれています。まずこの本を読まれての率直な感想を聞かせてください。
中井徳太郎氏(以下、中井):「ネットポジティブ」という言葉はすごく刺激的です。これまで企業は、良かれと思って便利さ、効率、豊かさを追求してきたわけですが、その一方で、有限である地球資源を大量消費したり、地球温暖化の原因となるCO2を大量に排出したり、廃棄物のことを考慮せずに大量生産をしたりしてきました。ところが近年になって、これまでの人間の経済活動により地球が危機的な状況に陥っていることが、科学的に確認できるようになった。
それが分かったからには、目指す方向を変えなければなりません。何のために経営するかというパーパス(会社の存在意義や事業の目的)を根本から問い直すべきときが来ています。つまり、パラダイムシフトが求められているわけです。ポルマン氏は本書で、その方向姓を明確に示してくれています。
CO2削減で言えば、現在、排出を実質的になくす「ネットゼロ」を宣言する企業が増えていますが、ポルマン氏は自社の分をゼロにするだけでなく、それ以上減らす「ネットポジティブ」を主張しています。
中井:今、私たちが目指すべきことは、人類の基盤である地球の生態系を取り戻すことです。これまでは、経済活動によってCO2の排出だけでなく化石燃料・地下資源の乱用、森林破壊などによって地球の生態系を痛めつけてきましたが、状況は危機的でありマイナスの影響をゼロにするだけではもはや十分ではありません。プラスの影響を与えるようになること、つまり「人間が活動すればするほど自然が戻る、自然の機能が豊かになる」ことを、企業は究極の目標にしていくべきだと思います。
ポルマン氏はユニリーバで地球や社会にポジティブな影響を与えることを実践するため、「サステナブルな暮らしを“あたりまえ”にする」というパーパスを打ち出し、それに基づく10年の長期計画を策定して全社員や取引先にも徹底的に浸透させました。
こういう変革の時期には、組織のリーダーがあるべき方向性を明確に打ち出し、本人が言うだけではなく、組織の末端に至るまでパーパスを浸透させ、一人ひとりの社員が本気でその実現に取り組むことが重要です。ポルマン氏はそれを実践して組織と社員の潜在力を存分に引き出しました。本書の中で「魂を解き放つ」と形容しているように、パーパスに導かれるように組織の全員が一丸となって持続可能な取り組みを全世界で展開し、「環境負荷を2分の1」「10億人以上のすこやかな暮らしに貢献」などの非常に高い目標をクリアした。地球環境や社会に貢献しただけでなく、利益もしっかり出しているところが素晴らしいと思います。
「オーナー経営者だから」は言い訳にすぎない
米パタゴニアはサステナビリティー経営で非常に有名ですが、「あの会社はオーナー経営者だからそれができた。うちの会社は違う」と見る向きもあります。けれども、ポルマン氏はオーナー経営者ではなくいわばサラリーマン社長です。
中井:それを考えると、日本の大企業でも本気で取り組めばここまでできるということを、ポルマン氏はこの本で示していると思います。
日本ではバブル崩壊後、経済が停滞し、現在に至るまで「失われた30年」と呼ばれてあまり元気がない。本の中に、企業経営の短期志向の弊害について書かれていますが、日本経済が停滞した原因の1つに、パーパスのない短期志向の企業経営があったのではないでしょうか。
実は、パーパス経営、ネットポジティブというのは、本来的には日本人にはすごくなじみがある話だと私は思っています。
西洋文明は自然を克服の対象として開発していきましたが、日本人は縄文時代から自然との一体感を持ち続けてきました。神道や禅といった宗教に基づいた自然を尊重する姿勢や、生活環境に身近な自然の恵みを享受しつつ、自然を維持していく文化・伝統やシステムを育んできました。そのため、自然と人間が調和し、ともに健康で豊かになるという感覚を日本人はつかみやすいと思うんです。
地球の自然生態系を人間が克服して、開発して、人新世をつくるという欧米の発想とは違う思想が、日本人のベースにある気がするんですね。また、近江商人の教えである「三方よし」のように、SDGsのベースの発想を日本人は備えています。
欧米を見習うのも重要ですが、日本の歴史にも学ぶべき点が大いにあるということですね。
中井:パーパス経営にしても、日本の大企業の歴史を遡れば、明治維新や戦後の復興期には、当時の世界情勢の中で、国際的にも先進国としっかり対峙して、強い豊かな国にしようという非常に明確なパーパスがあり、その実現に向けて一心不乱に取り組んだはずです。実業家たちはお金もうけが最優先事項ではなく、国民みんなが豊かになって国が強くなることを目指したと思うんですよ。
ただし、これまでは、地球に資源が無尽蔵にあり、化石燃料を燃やしてCO2を出しても問題がないと思われていたため、そうした外部不経済はずっと放置されてきた。今は、その前提条件が大きく狂い、気候変動や経済格差、貧困などの環境・社会課題が噴出してきたため、新しい時代のパーパス構築が必要ということで、少し戸惑っているのだと言えます。
日本の脱炭素の流れを加速させた菅前首相の英断
中井:経済が停滞して30年ほどたったけれど、今こそ日本の経営者がそのポテンシャルを発揮すべきときです。日本人が非常に慎重なのは国民性でもあるので、動き出しは遅く見えるかもしれないけれど、一方で、いったんコミットしたら必ずやり切るという国民性もある。その意味では、2020年10月26日に菅義偉前首相が「2050年カーボンニュートラル(CO2排出量実質ゼロ)」を宣言したことは、日本のSDGsの進展において非常に大きな出来事だったと思います。
当時、中井さんは環境事務次官として、菅前首相の宣言のお膳立てをしたのですか?
中井:私は事務方でしたからカーボンニュートラルの旗はもちろん振っていましたが、あの宣言は菅前首相ご自身の決断でした。しかも、政治的に絶妙のタイミングで出された。政治家としての鋭い感性が発揮された英断でした。
その1カ月前、中国の習近平(シー・ジンピン)総書記が「2060年までにカーボンニュートラルを目指す」と表明し、一方米国では、11月3日に大統領選挙を控えていました。大方の予想は、「バイデンが勝利し、米国が気候変動対策に戻ってくる」でした。バイデンが勝利してから日本が宣言を出しても、「米国に追従して出した」と受け取られてしまいます。菅前首相が10月26日の所信表明演説で宣言を出したことで、世界から称賛され、日本の国民にも企業経営者にも大きなインパクトを与えることができたわけです。
慎重な国民性なので、国のトップに宣言してもらえると、それに背中を押されて動き出すきっかけになりましたね。
中井:いずれ宣言することだったのかもしれませんが、インパクトの出せるタイミングでしっかり言い切れるかどうかが重要です。言われた瞬間、産業界はぎょっとしたと思うのですが、ぎょっとさせるくらいのインパクトがあったことで「行くぞ」となったのが、日本のカーボンニュートラルの流れだと思います。
菅前首相の政治決断がカーボンニュートラルの流れを加速させたのですね。
中井:企業のリーダーなり、政府のリーダーなりが目指す目標というのは、やはり大きくて高いものである必要があります。放っておいてもできるようなことだと、目標にならない。エベレストに登るつもりでトレーニングしていれば富士山に楽に登れるけれど、最初から富士山をターゲットにしていたら、やっとのことで山頂にたどりつくことになります。今掲げるべき高い目標は、病んで苦しんでいる地球生態系を健康体に変えることです。
SDGsやサステナビリティーを経営の中心に据えたほうが、企業の競争力も長期的な稼ぐ力も高まることが、この本に書かれていますね。
中井:経済の担い手としての企業は、事業を継続していかなければならないわけで、そのためには、結果として収益が上がるということがとても重要です。
企業が成長することに関しては、経済全体の規模をもっと小さくすべきだという「脱成長」の議論も出てきていますが。
中井:成長の捉え方は、以前から定義の問題だと思っています。今までのように資源浪費型で格差を助長するような経済活動によって成長することが望ましくないのはもう明確になっています。
この本では、人が関われば関わるほど地球生態系の健全性が取り戻され、社会の融和度が高まり、課題が解決され、その結果として、企業が利益を上げるだけでなく関わった人が豊かになることが描かれています。利益は企業にとって酸素のようなものですから、それが増えること自体は悪いことではない。ただ、本の中で経営学者ピーター・ドラッカーの言葉として紹介されていますが、酸素を吸うためだけに生きているとしたら、味気ない人生ですよね。利他を実践することで、活力やモチベーションが高まります。
無数の生物が一体となり調和している世界
もう1つ、仏教的な観点で言うと、激烈な競争をして100人のうち生き残るのは1人という世界が、果たして目指すべき世界なのでしょうか。みんなが高め合うというか、それぞれの個性の豊かさを引き出して、精神的なことも含めて、各自が自分の一番いい状況を思い描き、それに向かっていくことには限界がないと思うんですよ。
いわば「限界のない右肩上がり」です。どんな人でも存在していること自体、素晴らしい。それぞれが高い潜在力を持っているが、まだ開花できていない状況が今であって、素晴らしい状況を頭に描いて、みんなで高め合いながらそこに向かっていくというのは、定義として成長と言っていいかもしれない。
私はよく体に例えるのですが、人間には37兆個の細胞があり、その一つひとつがDNAを持っている。いわば37兆個の生き物を抱えています。それだけではなく腸の中にも、皮膚上にも無数の微生物がいて、私たちと共生しています。これらを引っくるめて1人の人間だという発想が重要です。
無数の生物が1つのエコシステム(生態系)を形成しているわけですね。
中井:生き物一つひとつが生きている主体で、それぞれ勝手に動いているように見えるけれども実は調和していて、そういうものが集まって1個の全体もある。地球も同じです。世界に住む一人ひとりに意思があって、それぞれ動いている。これらが調和してバランスして、トータルな生命体として、地球と呼ばれるものがある。
そう捉えていくと、激烈な競争や格差、資源の浪費が何を招くのか、そして全体の健康を回復させるにはどのように行動すべきかが理解しやすくなると思います。
そういうものの見方をできるかどうかが、ネットポジティブを浸透させていく上で大きなポイントになると思っています。生身の人間が集まって動く企業が経済活動することによって、地球の生態系がどんどん健康になっていくというのがネットポジティブの世界です。この本でその世界観や原理を感じ取り、自分たちは何をやったらいいのかをぜひ考えてほしいと思います。
取材・文/沖本健二(日経BOOKSユニット第1編集部)
企業は、環境・社会に与える「負の影響」をゼロにするだけでなく、そこを起点に「プラスの影響」を大きくし、利益をしっかり出すべきだ──この「ネットポジティブ」の経営哲学に基づき、ユニリーバの前CEOで著者のポール・ポルマンは、短期投資家と袂(たもと)を分かち、長期視点で経営に臨み「サステナビリティー(持続可能性)と利益伸長」が両立できることを証明しました。「パーパス経営」のお手本とも言えるポルマン流経営の神髄が、この一冊に凝縮されています。
ポール・ポルマン、アンドリュー・ウィンストン著、三木俊哉訳、日経BP、2530円(税込み)