韓国で「こんな先輩がほしかった」と大反響のビジネス書『会社のためではなく、自分のために働く、ということ』(チェ・イナ著、中川里沙訳)。著者が後輩たちに伝える「働く意味」とは。連載第2回。
私はいま、何をしているのか?
一つ、古い話をしよう。ジョン・F・ケネディ大統領がアメリカ航空宇宙局(NASA)を訪問した際、清掃員に次のように尋ねた。「あなたはここでどんな仕事をしているのですか?」。すると、その清掃員はこう答えたそうだ。「宇宙飛行士を月に送り込む仕事をしています!」。ケネディ大統領がどう返したのかはわからないが、この会話のポイントは清掃員の回答にあるので、余計な説明はいらないだろう。
さらにこんな逸話がある。教会の建設現場で働く石工の三人に向かって、誰かがこう尋ねた。
「いま、何をしてるのですか?」。一人目の石工はこう答えた。「見てのとおり、石を切ってるのさ。同じ作業の繰り返しだから、退屈で参るよ」。二人目の石工はこう答えた。「一生懸命、石を切ってるのさ。おかげで家族を養えてる」。三人目の石工はこう言った。「ぼくは神の殿堂を建ててるんだ」。
このエピソードは、仕事の意味について語るときにときどき引用される。少し補足すると、私は「同じ会社、同じオフィスで、同じ業務をしていても、仕事に対する定義は人の数だけある」と考えている。もしかしたら人の数よりたくさんあるかもしれない。私がそうだったように、自分の仕事をどんな視点から見つめるべきかと悩むたびに、定義が変わるからだ。
30年以上前、20代の私は、いまよりはるかに悲観的な人間だった。なんとかコピーライターになったものの、時間がたつにつれてどんどんつらくなっていった。仕事の意味がさっぱりわからなかったからだ。私にとって仕事とは、生計の手段だけでなく、意味のある何者かになることだったのに、コピーライターの仕事に意味を見いだせないでいた。
初めてチームに配属され、いくつか広告をつくったときのこと。決して少なくない金額をかけてつくった撮影セットを一度使っただけで壊し、新しくつくり直すのを見て、「なんて無駄なんだ」ともやもやしていた。
広告だけでなく、映画、ドラマ、ゲームなど、イメージを視覚的に具現化するコンテンツ業界では、人々の目に新鮮に映るかどうかを重視する。そのため、撮影で使うセット、衣装、美術はコンテンツづくりに欠かせない要素だ。しかし、たった数秒しか映らないセットにあれだけのお金をかけていいものなのか、そこにいったいなんの意味があるのか、新しさというのは価値中立的なものなのに、なぜ新しいものをここまで持ち上げるのかと、私は複雑な気持ちになった。
アイデアを出し、意見をすり合わせてそれらしい広告ができていく過程は楽しかったが、心の奥底では「この仕事にやりがいはあるんだろうか?」という悩みが日に日に大きくなっていった。
現実と理想は多少違っても、弁護士が正義を守り、教師が人材を育て、医師が命を救うように、それぞれの職業にはそもそも追求すべき意味があり、その分野で働く人はその意味に合った役割を果たすから尊敬される。そんなふうに考えたこともあった。「それなら、広告にはどんな意味があって、私はそのなかでどんな役割を果たしているんだろう?」。時間がたつにつれて悩みは深まった。
そこで、どんなときに評価されるのかを考えてみた。私たちがつくった広告のおかげで売り上げがアップすると、広告主から感謝される。もちろん、クリエイターたちは斬新で独創的な発想を生み出すために努力をするが、そもそもクリエイターはクライアントの問題を解決するために存在しているのだ。その結果は、売り上げの増大や、ブランドの認知度や好感度のアップというかたちで現れる。そのためこれらを達成すると称賛された。
でも、どうも腑に落ちなかった。まるで、小説家にやりがいを尋ねて「作品がベストセラーになったときです」という答えが返ってきたときのような気まずさを感じた。私はさまよいつづけた。給料は安定しているし、広告をつくる仕事も少しずつ楽しくなっていたけれど、自分の仕事の意味を見いだせない苦しみにさいなまれていた。
片手には楽しさを、もう片方の手にはクエスチョンマークを
仕事が山のようにたまっているときを除いて、私は心のなかで仕事の意味を追い求めた。時間ができたり、成果が出ずにスランプに陥ったりすると、仕事への不満や気に入らないところが目について苦しくなった。
それでも、私は悩みつづけた自分を褒めてあげたい。忙しいときは後回しになったこともあったけれど、私は仕事の意味を問いつづけ、追求した。
悩みつづけていると、ぼんやりと何かが見えてくるものなのだろうか? 暗闇に入ると、見えなかったものが少しずつ見えてくるように、私もやがて大事なことに気づいた。私には広告業で必要とされる素養と適性があるとわかったのだ!
「広告」と聞くと、多くの人はテレビCMを思い浮かべる。有名モデルを使い、パッと目を引くビジュアルとキャッチコピーでつくられるもの。ここですべてを説明するのは難しいが、じつはCMを撮るまでには長く複雑な過程がある。
大きなプロジェクトの場合、広告費が数百億ウォンにものぼるため、広告を通じて到達しようという目標がはっきりしている。さらに、大規模なプロジェクトはチャンスをつかもうとする広告代理店同士の競争も熾烈で、競合相手の戦略を考慮してコンセプトを練らなければならない。
入社してから数年間、私はこのような過程をたどりながら、自分がこの仕事に愛情をもっていることが少しずつわかってきた。プロジェクトを引き受けて思案を重ねるうちに、初めは見えなかったものが見えてきて、確信が生まれ、まさにこれだという解決策が思いついたときの喜び! 説得力のあるアイデアで周囲を黙らせたときの爽快感! 何より、最初はとても導き出せそうになかった答えを、考える力によってひねり出す過程はエキサイティングで楽しかった。こうして思いついたアイデアで広告キャンペーンを展開し、望みどおりの結果を出したときの満足感も大きかった。
ところが、欲深い私は片方の手にこういった楽しさをもちながら、もう片方の手が寂しくて仕事の意味を追いつづけた。
仕事の意味を自ら定義する
諦めずに仕事の意味を追い求めていると、何度か「これかな?」と思うものを見つけることもあった。ただ、そのときはなぜか、それが正解ではないような気がして否定してしまった。
そのうちの一つが、「広告とはブランドを扱う仕事」というものだった。長期にわたって、クライアントのブランドが認知度を得て、支持されつづけるようにする仕事という意味だ。こうして広告の本質を自ら定義してみると、「私の仕事はたんに広告主の売り上げをアップさせること」と考えていたときより、ずっと心が軽くなった。
それだけではない。制作本部長や国内部門の責任者として経験を積むにつれて、仕事に対する定義も変わった。「広告業こそ、知識産業を代表する業種」だと考えるようになったのだ。当時、社報に載せた私の文章の一部を引用してみよう。
世間は私たちの仕事をサービス業に分類するようだが、私はそれにあまり同意できない。サービス業というと、いやおうなしに顧客の要求に応えなければならないが、私たちの仕事はどうだろう? たとえクライアントが同意しなくても、私たちが必死に悩んで到達した解決策があるなら、どうにかして説得し、実現させる方法を模索するのが私たちの仕事ではないだろうか。
私たちと似たような仕事をする業種がある。ビジネスコンサルタントだ。彼らもクライアントの課題に対して答えを提示する。しかし、実際に行動に移すのはコンサルタントではなく企業の責任だ。私たちのようにアクションまで起こすかどうかは、よくわからない。
アイデアを示してクライアントの同意を得たら、広告を制作し、そのアイデアが正しいことを証明しなければならない。どれほどプレゼンがすばらしくても、世に出たあとで期待した結果を出せない広告には意味がない。
企画やアイデアで結果を生み出したり、変えたりすること。私たちがしているのは、そういう仕事だ。
この文章は、広告業界の先輩として、後輩たちにプライドをもってほしくて書いたものだ。当時、広告業界はメディアの変化に苦戦していて、別の業界に転職する人が増えていた。自分の仕事の意味をしっかりと見つめて肯定するときに、誇りが生まれる。後輩たちがプライドをもってくれることを私は心から願っていた。
(写真はすべてチェ・イナ氏提供)
チェ・イナ著、中川里沙訳、日経BP、1980円(税込み)


