『言語の本質』(中公新書)、『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』(日経BP)、『英語独習法』『学力喪失』(ともに岩波新書)など、数多くのベストセラーを世に送り出している今井むつみさん。「○○を読んで面白かったけれど、次は何を読むのがオススメですか?」と聞かれることも少なくないといいます。そこで本連載では、「次に読む今井むつみさん」の参考として、今井さん自身が著書について、テーマごとに語ります。第3回のテーマは、「生きた知識」です。記号接地した学びを実践し、「生きた知識」を身につけていくための3冊を紹介します。
学びをより深め「生きた知識」を身につけていくために
今回は、 前回 に続き、「学び」や「学習」の分野、特にその中でも「生きた知識」を扱った3冊についてお話しします。
生きた知識1冊目『算数文章題が解けない子どもたち』(共著)
今回紹介する3冊は、「表面的な学び」への警鐘を鳴らす本です。
表面的な学びというのは、「死んだ知識」しか身につかない学び。丸暗記などで得られる断片的な知識で、それだけでは現実世界で使うことができず、テストで解答を書くという以外には役に立ちません。
皆さんの中には、ゴルフを上達したいと考えている方がいるかもしれません。その際、教則本などを買って読むだけならば、それは「死んだ知識」です。コースに立ちクラブを振って、実際にボールを打ってみなければ、上達することはありません。
自分でやってみて、本を読むなり動画を見るなりして得た知識(この時点では「死んだ知識」)を自分の中で「再編成」し、自分の体に蓄えていく。この再編成可能な知識が「生きた知識」であり、このプロセスこそが「熟達」に向けた営みです。
子どもたちの学びが「死んだ知識」の集積になっていないか? それを測るテスト(たつじんテスト)を開発し、明らかにしたのが、『 算数文章題が解けない子どもたち ことば・思考の力と学力不振 』(楠見孝らとの共著、2022年、岩波書店)です。

このプロジェクトはそもそも、広島県の教育委員会からの「学びでつまずいている子どもたちがたくさんいる。その躓(つまず)きがどのように起こっているのかを理解し、指導に生かしたい」という要請で始まりました。
これまで学校などで行われてきた普通のテストが明らかにするのは、「子どもはどういう問題が解けないのか」ということです。例えば「この子たちは分数が苦手」「割合の問題が解けない」ということは知ることができます。
しかし、普通の学力テストでは、その先の、教育現場の指導に有効な「躓きの原因」については、何も示してはくれません。「この子は“なぜ”、この割り算の問題が解けないのか」「この子は“なぜ”、この図形問題をいつも間違えるのか」。これまで実施されていた学力テストをいくら受けても、子どもがなぜ間違えるのかは分かりません。
こうした問題を踏まえ、認知科学の知見に基づいた「躓きの原因を指導者が見て取れるテスト」として開発したのが「たつじんテスト」であり、『算数文章題が解けない子どもたち』はそのテストを実施したことで見えてきた課題を報告書に近い形でまとめたものなのです。
間違いの背後には、誤った概念のスキーマがある
学校で学ぶことは、大人にとっては何でもない、「簡単なこと」に思えても、子どもにとっては実はものすごく抽象的な内容です。しかし、認知科学や言語の仕組みについて知識を持たない人は、先生でさえ、その抽象性に気づいていません。
例えば多くの子どもがつまずく「算数」でいえば、そもそも「数のことば(概念)」からして極度に抽象的です。
数は実は抽象的なのだということは、「数字を使って具体的に説明しろ」と日々、求められているビジネスパーソンにとっては意外かもしれませんね。
でも、例えば「1」という数字ひとつとっても、その抽象度の高さは群を抜いています。
そもそも「1」という数字は、言葉が指し示す概念そのものを見ることができません。「1個のイチゴ」「1羽のウサギ」と言った場合も、見えているのはイチゴでありウサギです。イチゴやウサギには触ることができますが、「1」自体には触ることはできません。
触ったり、匂いを嗅いだり、食べたりと、五感で理解でき、身体性を持つ言葉に比べて、「1」はそれ自体を見ることも触ることもできないものなのです。
そこで多くの子どもは、成長の過程で「1」を「数えるときの最初の言葉」、もしくは「1個の◯◯」というように単体のモノと結びつけて捉えています。これは「1」に対する非常に強い「スキーマ(知識の枠組み。詳細は 前回 を参照)」です。
しかし算数は、このようなスキーマのままでは学ばなければならない概念を捉えることができません。2リットルのジュースを何人かで分けるときには2リットルを「1」とみなさなければなりませんし、30人を「1クラス」として捉えなければ解けない問題も出てくるでしょう。「1」の概念を、それまでのスキーマから根本的に変えていくことを求められるのです。

これが多くの子どもにとっては非常に難しい概念(スキーマ)の書き換えです。実際、何年か前の「全国学力テスト」には6年生の問題に「2リットルのジュースを4人で分ける」という、単元でいえば3年生向けの問題が出題されたのですが、正答率は50%ほどでした。
この正答率を見て大人たちは、「割り算ができないんじゃないか」「リットルを理解していないのではないか」と考えるかもしれません。しかし、その考察だけでは不十分です。そもそも「2リットル(つまり全体)を1として考える」ことができないから、割り算や分数や割合の問題を解くことができないのです。
「たつじんテスト」が明らかにしたのはそうした子どもたちの認知科学上の課題であり、子どもの誤答の背景にある本当の原因を実際の回答を使って解説し報告したのが本書なのです。
生きた知識2冊目『学力喪失』
『算数文章題が解けない子どもたち』が明らかにした現状からどう回復していくべきなのかを示したのが、『 学力喪失 認知科学による回復への道筋 』(2024年、岩波新書)です。

結論からいえば、子どもの学力を取り戻すために必要なのは「記号接地した学び」です。
記号接地については、 前回 もお話ししましたが、簡単にいえば「知識が身体と結びつくこと」です。
例えば方位は、記号接地している人とそうでない人と、割ときっぱり分かれます。ある建築家の方は、初めて行った建物内を歩いているときでも、「どちらが北なのか」が感覚的に分かっていると言っていました。なぜかというと、常に「窓のあるほうは南」などと考えているからだそうです。私は残念ながら、そういう感覚(スキーマ)をまったく持ち合わせていません。
特定の事柄に常に注意を向けて弁別を繰り返していると、それ自体が訓練になり知識が身体化されていきます。そうすることで知識が記号接地し、「生きた知識」になるのです。
ある基盤の概念が腹に落ちて身体がすぐ反応するレベルで理解できていれば、そこから知識を拡張することができます。単に「東西南北」という言葉を覚えていることと、ある場所に立つだけで「東西南北」が分かるということの間には大きな差があること。そして、そこから創造できる知識にも大きな開きがあるであろうことはお分かりいただけると思います。
記号接地のある学びは人間の強みでもある
学びにおける記号接地の有無は、今後ますます大きな差となっていくでしょう。それは、この記号接地こそが、AIにはない人間ならではの学びの特徴でもあるからです。
例えば「イチゴ」であれば、子どもは言葉として覚えるだけでなく、知識を得て、触って、食べて、匂いを嗅いでといった五感を経て理解することができます。
一方、AIもイチゴの絵や写真をたくさん学習すれば、「これはイチゴである。これはイチゴではない」と判断できるようになります。これがAIの学習です。しかし、このイチゴについての学びは、先ほどの子どもの学びとは質が違います。
子どもがしているのがさまざまな感覚を経て統合された、記号接地した学びであるのに対し、AIの学びは今のところ、画像情報などごく一部の情報に偏っています。

もしかしたら今後は、AIの学習も、人間の基本モダリティ(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚などの感覚)の数値化がさらに進み、その精度が上がっていくかもしれません。しかし、AIにとってすごく難しいのは、モダリティの数値を統合することです。
人間がごく自然に行っている、画像や味や手触りといったそれぞれの感覚の統合を、AIは今のところできません。
言い換えれば、AIの学びには記号接地がない、生きた知識になっていないということです。
人間の強みである「生きた知識」を身につけたい。学校での学びをどのように変えていけば子どもたちは「生きた知識」を身につけることができるのか。これからの教育はどうあるべきか。その道筋を考察し、記号接地を伴う学びを提案しているのが、本書『学力喪失』なのです。
生きた知識3冊目『英語独習法』
ここまで子どもの学びの話をしてきましたが、記号接地を伴う学びは、子どもだけのものではありません。多くの方にとって、残念ながら「死んだ知識」の代表になっているのが英語です。
英語に限らず外国語は、「生きた知識」をつくることがなかなか難しい。その原因は「スキーマ」にあります。このスキーマの再編成を目指したのが、『
英語独習法
』(2020年、岩波新書)です。

スキーマというのは、「ある事柄についての枠組みとなる知識」のことです。「知識のシステム」であり、私たちは普段「母語の知識のスキーマ」を使って過ごしています。
今、この文章を読んでいる方の多くは日本語が母語でしょう。ならば日本語のスキーマを使っていることになりますが、このスキーマは無意識に作動しているため、意識に上ることはほとんどありません。
こうした日本語が母語の方であれば、英語を習う際も、「日本語のスキーマを用いて、英語を習う」ということになります。それ自体は悪いことではありませんが、そのことを全く意識しないために、なかなか英語が使えるようにならないのです。
studyとlearn、そもそも使い分けられていますか?
例えば
前回
、認知科学が対象とする学びはstudyというよりlearnだという話をしました。しかし、どちらも日本語で「学ぶ」と言い表すことができるために、このlearnとstudyの本質的な違いに気づかないまま使っている人が大勢います。
皆さんは次の文を、違いが出るように訳し分けられますか?
I am studying English.
I am learning English.

studyには「研究する」「探究する」という意味があります。学校での勉強に使われることもありますが、本質的には学術的な研究に使われる言葉です。一方learnは、語学など誰かに教わりつつも自ら外界に働きかけて習うものについて使います。ですから、違いが出るように訳し分けるとこうなります。
I am studying English. 私は英語を研究しています。 → 英語研究者
I am learning English. 私は英語を習っています。 → 英語学習者
日本語のスキーマを通して見た英語の「学ぶ(study、learn)」は、同じような単語でしたが、英語のスキーマを通せば、2つの単語がずいぶんと違うものであることが分かります。
外国語の学習というのは、「母語と外国語のスキーマには違いがある」ということを知り、母語のスキーマを再編成することなのです。このことを伝えているのが、『英語独習法』です。知識が再編成できるようになると、自分の考えを述べることができるようになります。そうなって初めて、英語が「生きた知識」となるのです。
余談ですが、バイリンガルの環境で育った子どもというのは、日本語のスキーマで外国語を学ぶ場合とは発達の仕方が少し異なると私は考えています。
というのも、バイリンガル環境で育つというのは、幼い頃から2つの言語のスキーマを並行してそれぞれつくるようなものです。ですからバイリンガルの子は、モノリンガルの子に比べて、子どもの頃は認知の発達がゆっくりになりがちです。それはスキーマを2つ同時につくる負荷が大きいからです。
ちなみに将来的には、実行機能や注意のスイッチ、集中力などに強みが出てくることになるので、心配には及びません。バイリンガルの子は情報処理をするときに、その場や環境に合わせてスキーマを「スイッチ」しているのです。
(構成=黒坂真由子、写真=稲垣純也)

