『言語の本質』(中公新書)、『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』(日経BP)、『英語独習法』『学力喪失』(ともに岩波新書)など、数多くのベストセラーを世に送り出している今井むつみさん。「○○を読んで面白かったけれど、次は何を読むのがオススメですか?」と聞かれることも少なくないといいます。そこで本連載では、「次に読む今井むつみさん」の参考として、今井さん自身が著書について、テーマごとに語ります。第4回のテーマは、「言葉」です。言葉はどう生まれるのか、本質を知るための3冊を紹介します。
人間は「言葉」をどのように身につけるのか?
今回お話しするのは、子どもはどのように言語(母語)を習得するのか、そして言葉がいかに人間の認知に影響を与えているのかについて扱った3冊です。「今井むつみの本MAP」上の矢印とは逆の方向になりますが、「最初の3冊」から始まる大きな時計回りの一周として、MAPを見ていただけたらと思います。
言葉の本質1冊目『ことばの学習のパラドックス』
『 ことばの学習のパラドックス 』(1997年、共立出版。2024年、ちくま学芸文庫に収録)は、もともと私の博士論文を一般書にしたもので、私のデビュー作といえる1冊です。

アメリカの大学院で研究していた頃、いくつかの英語表現について、ピンとこない、納得できないと感じるものがしばしばありました。これは英語を学ぶ皆さんが感じていることと重なるものだと思います。
例えばジーンズを買ったとしましょう。それを英語で表現すると、
I bought a pair of jeans.
とか、
I bought some jeans.
などになります。「a pair of」や「some」が必要だと頭では分かっていましたが、どうしてもしっくりこない。また、私が、
I have computer.
と言ってしまったときには、アメリカ人の友人から「コンピューターは、世界で1つしかないわけじゃないよ」とからかわれました。この場合は「a computer」と言わなければ、固有名詞として聞こえてしまうようです。
言葉のカテゴリーのつくり方が、日本語と英語では違う。こうした、「言葉のカテゴリーのつくり方の違い」に基づく違和感が、私自身のその後の研究へとつながっていきました。
人はいつ、「モノ」と「物質」の区別ができるようになるのか?
ここでは、その研究の一例として「モノ(物体)」と「物質」の本質的な違いを理解し、モノの名前と物質名を適切に推論することができるかを示した実験(「幼児の語意獲得における制約に関する言語間比較研究:言語的影響か存在論的区分か」(※1))を紹介しましょう。
言葉を自分で拡張していく上で、モノと物質の判別はとても大事です。
例えば、コップは「モノ」ですが、かなづちで砕いたら、もうコップではなくなります。ガラス製であればガラスという「物質」の塊にすぎません。コップも元コップ(ガラスの塊)も構成している成分は同じですが、もう「同じ」ではありません。
一方、粘土(物質)はちぎっても粘土ですし、それがコップの形をしていても粘土は粘土。「同じ」です。
このように「同じ」という概念も、モノと物質とでは違うわけです。
こうして、モノと物質を区別することによって、言葉を拡張していくことができます。同じガラス製であっても、コップであったり、窓であったり、ペーパーウエイトであったり。

では、私たちのモノと物質を区別する能力は、いつからあるものなのでしょうか? これについては当時、活発な議論が続いていました。
「生まれたときから備わっている」とする哲学者で言語学者のノーム・チョムスキーらの主張と、「学習によって獲得される」とする言語学者のウィラード・ヴァン・オーマン・クワインらの主張です。クワインの経験主義的な考えでは、特に言語の習得という学びこそが獲得のタイミングであると考えられてきました。これは要するに、可算名詞と不可算名詞の学習こそがモノと物質の区別である、といえるでしょう。
しかし、もし可算・不可算の学習によってモノと物質が区別できるようになるのだとしたら、日本の子どもはいつまでたってもその能力を身につけられないことになってしまいます。
これは例えば、バターが、クマの形にくりぬかれていたり、星の形にくりぬかれていたりしたときに、日本人の多くは「どちらもバター(物質)だ」と識別できない、ということです。そんなことはあるはずがありません。でも、そのような考えを本気で信じている学者たちがアメリカにはいました。
そこで私が行ったのは、英語のようにモノと物質を可算名詞・不可算名詞としてはっきり区別しない言語(ここでは日本語)を母語とする子どもを対象とした実験でした。
そして結果として、その子どもたちは、2歳になった頃には「モノなのか」「物質なのか」の区別がつけられることが分かりました。モノと物質の識別能力は、その人の話す言語によってのみ決まるのではない。
一方で、さらに詳細に見れば、英語が母語の子どもたちは、日本語が母語の子どもたちよりもモノか物質かということに敏感に反応していました。このことから、言語の持つ可算・不可算といったルールが知覚情報の重みづけに影響を与えていることも示唆されました。
結果的に私の実験を通じての結論は、チョムスキーの生得主義とクワインの経験主義の間をとるものとなったのです。
この論文はその後多くの論文に引用され、私自身にとっても大きな成果となりました。それをまとめた本書もまた、その後の研究へとつながる、私にとってはとても大切で思い出深い1冊です。
この連載でご紹介している他の本より専門性は高く、いきなり読むにはハードルが高いかもしれませんが、他の本から私の研究、そして認知科学に興味を持ってくださった方には挑戦していただきたいと思います。
言葉の本質2冊目『言葉をおぼえるしくみ』
続いて紹介するのが、言葉を覚える仕組みを実験ベースで紹介した『
言葉をおぼえるしくみ 母語から外国語まで
』(2014年、ちくま学芸文庫)です。この本は、現在東京大学教授の針生悦子さんとの共著です。
仮説を実験によって検証することで、ただ子どもを観察するだけでは知り得ないことを明らかにしていく。このような、私たちが普段行っている研究のプロセスの一端を、本書で見ていただくことができるでしょう。

本連載の読者の皆さんに知っていただきたいのは、私が認知科学の中でも、基礎研究を基盤としているということです。
研究には、基礎的なメカニズムの解明を主目的にした基礎研究と、すでに分かっている成果やデバイスの活用方法を考えたり、その効果を検討したりする応用研究があります。
基礎研究と応用研究はあるところでスパッと分かれるわけではなく連続的なもので、主軸がどちらに傾いているかという程度の問題と考えたほうがよいと思います。
私自身の研究を例にすれば、「乳幼児がどのようなメカニズムで言語を学習するか」という問題に対して、「子どもがどのような仮説を形成するか。そこにおいて、どのような思考バイアスが関わっているのか。あるいは、生物種としての人間という種固有の知覚の仕方が基盤になっているのか」などの問題に取り組んできました。これはかなり基礎的なほうに軸足を置いた研究です。
他方、最近では、認知発達の基礎研究の成果に基づいて子どもが陥りやすい概念の誤解をどう解きほぐし、概念を修正し、それを身体化するための学習方法を考え、その効果を質的および統計的に検証しています。これは応用にかなり重きを置いた研究といえます。
ただ、基礎研究を長年続け、常に「そもそも」を考え続けて、人の知覚や思考、学習という問題に実験的に取り組んできたこと、つまり基礎研究に自分自身を接地させてきたことが、「こっちの学習方法のほうがあっちの方法より理屈に合っている」「こういう学習方法ならうまくいきそう」などの直観の基盤になっており、また、著書の幅にもつながっていると考えています。
母語は「世界の見方」にどのような影響を及ぼすか
『言葉をおぼえるしくみ』は、母語だけでなく外国語学習を含めて、「子どもはどのようにして言葉を覚えていくのか」「動詞や形容詞、助数詞は、名詞とは覚え方が違うのか」などの問いを扱ったものです。
先にご紹介した「モノと物質を区別する能力」についても詳細な解説を加えた上で、それに続く研究も紹介しています。先の研究では、「英語の母語話者は日本語の母語話者よりも『モノか物質か』ということに敏感に反応していた」としましたが、それが「バイアス」になっている可能性を、続く実験で示すことができたのです(※2)。
「そら豆の形をしたロウ」に対して、日本語を母語とする3歳児は、「モノ(そら豆の形をした何か)」だと考える子と「物質(ロウ)」だと考える子ではほぼ半々に分かれました。一方で、英語の母語話者の子どもは形に強く反応し、それを「モノ」だと考えました。
この実験により、英語の母語話者は、「モノとして見る」というバイアスが強いことが分かったのです。
言語の構造によって世界の見方が制約を受けていたのは、この場合、英語の母語話者ということになります。英語の母語話者の子は、何か固まっている形があると、それに機能的な意味がなくても「モノとして見やすい」というバイアスを持っていたのです。
それに対して、日本語を母語として学ぶ子どもは、形に意味が見いだせず、モノなのか物質なのかが曖昧な場合には、モノなのか物質なのかの判断が中立になる、つまり判断に偏りがないということが分かりました。

日本語が母語の子は、可算・不可算の文法がないために、曖昧なままにしておけるのかもしれません。英語のように「これは可算名詞か、不可算名詞か」を無意識の上で即座に決める必要がないからでしょう。
先ほど、日本語が母語の子は「モノ」として考えた子と「物質」と考えた子が半々だったとお伝えしました。ただ、いくつかのロウの塊を見せた場合、「モノ」と考えた子はすべてを「モノ」として捉え、「物質」と考えた子はすべてを「物質」として捉えており、「モノ」と「物質」を混ぜて捉えることはありませんでした。このことから分かるのは、日本語は可算名詞と不可算名詞を文法的に区別しませんが、それでも子どもたちの間には「モノ」と「物質」という区別があるということでしょう。
言葉の本質3冊目『言語の本質』(共著)
『
言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか
』(2023年、中公新書)は、言語学者の秋田喜美さんとの共著です。
言語の発達には、「オノマトペ」と「アブダクション推論」が鍵となっているのではないか、という仮説のもと、言葉の進化に言語学と認知科学の両方の側面からアプローチしました。
それほどやさしい内容ではないのですが、2024年には新書大賞を受賞するなど、多くの人に読んでいただき、私自身、びっくりしています。

「『言語の本質』とは何か」と問われると、「コミュニケーションによって気持ちを伝えること」をメインに考える人が多いようです。ただ、私の感覚では、言語の本質は「解釈すること」です。多くの認知科学者も同様の感覚を持っているのではないかと思います。話し手と聞き手がアブダクション推論をして、「相手が何を言いたいか」ということを推論によって考える、つまり解釈する。これが言語の本質ではないでしょうか。
「アブタクション」という言葉を初めて聞いた方もいるかもしれませんね。これは日本語では「仮説形成推論」といわれます。持っている知識を組み合わせて、目に見えない現象を推論することです。
このように説明すると難しいもののように思われるかもしれませんが、そうではありません。私たち人間は常にアブダクション推論をしています。
例えば、待ち合わせに相手が遅れたときに「電車が遅れたのかな?」と考えることも、ラーメン屋の前の長い列を見て「おいしいんだろうな」と考えることもアブダクションです。ちなみにアブダクションはあくまで「仮説」ですから、間違えることもあります。
「アブダクション推論」と「バイアス」は表裏一体
私たちは、赤くて丸い果物を渡されて「これはリンゴだよ」と言われたら、次に「リンゴを取って」と言われたときには赤くて丸い果物を選び取ることができます。この思考は、私たちが言葉を覚える上で非常に重要です。
しかし、実はこの思考は論理的に正しいとはいえません。「AはXである」と言われたときに「XはAである」とは限らないからです。「ペンギンならば鳥」は正しくても、「鳥ならばペンギン」は正しくないことは、すぐにお分かりになると思います。
でも、私たちは「赤くて丸い果物はリンゴだ」と教われば、「リンゴという音は、この丸くて赤い果物だ」と“思い込む”ことができる。この思い込み、つまりバイアスがあるからこそ、私たちは「特定の音は、ある対象の名前である」と理解することができるのです。
この「AはXである → XはAである」という過剰一般化は、言語を習得するための重要なアブダクション推論であり、バイアスでもあるのです。
もう一つ、私が行った「ネケ実験」もご紹介しましょう(※3)。
この実験では、2歳児の子どもが知らない「あるモノ」に、新奇な「ネケ」という名前をつけ、
①名づけられたモノとそっくりのモノ
②形は似ているけれど他の特徴が異なるモノ
③形もその他の特徴もまったく異なるモノ
を見せます。その上で、「ネケはどれ?」と尋ねるのです。

すると多くの2歳児は、①だけでなく②も選ぶ。つまり「形は似ているけれど、他の特徴が異なるモノ」も、「ネケ」として選んだわけです。
これは「言葉というものは、形が似ている他のモノにも使える」と子どもが考えていることを示します。子どもは形に注目して、言葉の使える範囲を探りながら広げていくのです。これもアブダクション推論に他なりません。
人間はアブタクション推論をする生き物です。そしてそのアブダクション推論も、ある種の思考バイアスの上に成り立っています。言葉とその概念の拡張には、アブダクション推論という人間特有の学ぶ力が必要であることを示したのが、この『言語の本質』なのです。
(構成=黒坂真由子、写真=稲垣純也)

