史上初の女性天皇・推古天皇の御代を描いた歴史小説が相次いで刊行された。幅広い時代を網羅する伊東潤氏の 『覇王の神殿 日本を造った男・蘇我馬子』 (潮出版社)と新人・天津佳之氏の 『和らぎの国 小説・推古天皇』 (日本経済新聞出版)。歴史教科書的には、日本の国家体制は豪族・蘇我氏が滅ぼされた大化の改新から始まったとされるが、二人の作家は女帝の甥(おい)の摂政・聖徳太子(厩戸皇子)と外戚でもあった大臣・蘇我馬子が政治を主導した推古朝こそ、日本の国の成り立ちの時期と口をそろえる。なぜ今、1400年前の推古朝なのか。現代の映し鏡として中国、朝鮮半島との向き合い方で学ぶところは大きいという二人に、焦点となっている女性天皇という存在も含めて語り合ってもらった。その第1回。
伊東潤氏(以下、伊東氏):日経小説大賞受賞おめでとうございます。デビューは昨年でしたね。
天津佳之氏(以下、天津氏):ありがとうございます。受賞作の 『利生の人 尊氏と正成』 でデビューしました。
伊東氏:まだ作家専業ではないとお聞きしましたが、お歳は。
天津氏:今年で43歳になります。

1960年神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『国を蹴った男』で吉川英治文学新人賞、『巨鯨の海』で山田風太郎賞と高校生直木賞、『峠越え』で中山義秀文学賞、『義烈千秋 天狗党西へ』で歴史時代作家クラブ賞(作品賞)、『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で本屋が選ぶ時代小説大賞2011を受賞。著作は多数。最新刊は関ヶ原の戦いを描いた『天下大乱』(朝日新聞出版)。(写真:吉成大輔)

1979年静岡県伊東市出身。大正大学文学部卒業。書店員、編集プロダクションのライターを経て、業界新聞記者。2020年『利生の人 尊氏と正成』で日経小説大賞を受賞しデビュー。最新刊は菅原道真を描いた『あるじなしとて』。(写真:吉成大輔)
日本文化の根源を小説にしたかった
伊東氏:デビューするには、ちょうどよい年の頃ですね。好きな作家は誰だったんですか。
天津氏:僕は隆慶一郎先生が好きでした。もともとはマンガなんです。「少年ジャンプ」連載の『花の慶次』の原作が隆先生の『一夢庵風流記』で、歴史に興味を持った最初です。あとは夢枕貘先生の『陰陽師』とか。
伊東氏:お二人とも、天津さんの作風には、さほど影響を与えていないかな(笑)。
天津氏:何と言えばいいのか、好きな作家の作風をリスペクトしても猿まねになってしまう気がするんです。似てはならないと意識しました。
伊東氏:それは大切なことです。デビュー作で南北朝時代を書かれて、次はなぜ古代を。
天津氏:日本の文化性の根源と言いますか、そもそも抽象的なことを小説にしたいのです。『利生の人』は、禅が全国に広まっていったきっかけにフォーカスしました。『和らぎの国』はタイトルそのままの「和」です。日本は「和」を重んじる国といわれますが、その「和」がどのように現れたのかを物語で描きたかった。
伊東氏:テーマの選び方がいいですね。そうしたテーマから題材を探していくと、作品に一本の筋が通ってきます。
天津氏:伊東先生は、戦国から安土桃山の作家というイメージが強いので、昨年『覇王の神殿』を書店で見た時は驚きました。なぜ古代に遡ったのでしょう。

この国の形の源流にさかのぼりたかった
伊東氏:僕の場合、さまざまな時代において、この国のカタチをつくってきた者たちを描いてきたので、その源流に遡りたいという思いがありました。この国が国家として形成されたのはいつなのか、そのきっかけは何だったのか。それで飛鳥時代に行き着いたのです。この時代は、隋や唐といった大陸国家や三韓諸国の外圧を意識せねばならない時代でした。しかし国家意識は乏しく、豪族たちは勢力争いに明け暮れていました。そんな時に仏教を基盤に据えた国家像を思い描いていたのが、蘇我馬子と推古天皇でした。
天津氏:僕は、日本が国際社会を初めて意識したのが推古朝だと考えています。西晋以来約300年ぶりに、中国では隋が統一王朝となり中華帝国が復活していました。朝鮮半島の国々をはさんで大国・中国とわたりあっていくには、日本も「国家」になることを迫られた。そのために欠けているピースをひとつひとつ埋めていった時代ではないかと。仏教の興隆、初の成文法である十七条の憲法、朝廷内の官僚の序列を示した冠位十二階……とても面白い時代です。
伊東氏:飛鳥時代は、外圧によって日本が国家というものを初めて意識した時代と言えますね。日本は外圧に弱いとよくいわれますが、強烈な外圧にさらされた時代は意外と少なく、大和・飛鳥時代、その次が鎌倉時代の蒙古襲来、そして幕末から明治初期くらいですね。
天津氏:なるほど、幕末と対比するとわかりやすいですね。
伊東氏:昨今の国際情勢は、19世紀さながら力がものを言うようになってきました。これは古代と何ら変わらないですね。隋や唐という中華帝国の圧力に抗するには、朝鮮半島の三韓と呼ばれる高句麗、新羅、百済との間に良好な外交関係を築き、あわよくば彼らの上に立つというのが、飛鳥王朝の戦略でした。そのため馬子たちは仏教文化を取り入れ、日本が文明国であることを隋や唐にアピールしました。そうした外交的駆け引きに、当初仏教は使われていたんです。天津さんは、仏教を取り入れた理由を外圧という文脈で意識されましたか。
天津氏:そうですね。古代のこの時代には仏教が、幕末には西欧文化が入ってきました。新しい文化を受け入れるかどうかを巡って国内では軋轢(あつれき)が生じますが、対外的に国家として生き残っていくには受け入れるしかありません。では、当時の為政者はこの異質な文化をいかにして国の舵(かじ)取りに生かしていったのか。これは、今の日本の状況にも通じるところがありますね。

歴史小説は現代の映し鏡
伊東氏:歴史小説はエンターテインメントであると同時に、いかに現代の映し鏡として描けているかが問われます。現代の東アジアにおいて中国の膨張は強まるばかりです。それに対して韓国、北朝鮮、日本が、それぞれ国家としての方向性を模索しながら独立国として成り立っている。まさに古代と相似形を成しています。そうした意味でも、いま古代を書く意義があります。
天津氏:1400年前であっても外交の手練手管は現在と同じく複雑です。一時的に利益相反になることものまなければならない。外圧によって国内の権力構造も変質していきます。
伊東氏:この時代、豪族たちには、まだ国家という意識は芽生えていなかったので、為政者が豪族や民を束ねていくには、皆の認識を一致させる必要がある。つまり共同体意識を育んでいける何かが必要になってくる。蘇我氏は渡来人から話を聞くことが多かったからか、仏教を中心にした国家像を描けたんだと思います。
天津氏:仏教は、心の安寧を求めるのにわかりやすくすがれる宗教です。仏典があり、目に見える仏様があり、修行しているお坊さんがいます。支配層の豪族はもとより国民誰もが受け入れやすかったのではないでしょうか。
伊東氏:日本古来の神道に比べ、仏教は教義が緻密です。後に入ってくるキリスト教もそうですが、権力層や知識階級に定着してから下々まで敷衍(ふえん)していくという方法を取りやすかったはずです。つまり権力層や知識階級は高度な教義で取り込み、下々には現世利益や目に見えるものを提示していくという方法です。
天津氏:古代のこの時代の仏教というと、推古天皇の四代前の欽明天皇の御代に百済から日本に仏教がもたらされた「仏教公伝」、仏教導入派の蘇我氏と反対派の物部氏との「崇仏論争」、そして、丁未の乱でついに物部氏を滅ぼした蘇我氏が豪族の頂点に立ち、推古天皇と摂政の厩戸皇子と組んで権力を握るという政争とのかかわりで論じられがちです。しかし、そもそも日本には固有の文化があったはずですし、そのうえで仏教はどのように受け入れられていったのか。それについてはあまり書かれていない。『和らぎの国』ではそこをデザインしたかったのです。「和」は儒教由来だ、仏教由来だといわれますが、実は古来の日本的な哲学由来でもあると考えています。
伊東氏:「和」と仏教を混交させていくところから、国家像を造形していったわけですね。
天津氏:宮中祭祀(さいし)などを見ても、すべて仏教化されているわけではなく、日本的な哲学が混交しています。のちの時代の鎌倉仏教もそうです。日本に新しい文化が入ると次第に日本化されていくといわれますが、何がきっかけで日本化されるのかということも小説で描いてみたかった。一方で、仏教が知識階級に定着するということは、彼らが国の形をつくっていく権力者ですから、外交政策的に活用していくのは当然のなりゆきですね。

歴史に学べばウクライナ戦争は起きなかったはず
伊東氏:当時の隋や唐といった中華帝国は、仏教をしっかり理解した国でなければ文明国と認定しませんでした。日本は僧侶たちを養成し、建立する寺院の伽藍(がらん)配置や様式などを学び、正統な仏教国であること、仏教を文化として根付かせようとしていることを外に向かってうまくアピールし続けました。
天津氏:隋の文帝が仏教治国策という政策をとっていましたから、隋と近づきたければ、まずは迎合しなければ「国家」として立ちゆかなくなる。文明国とは? 国家として認められる条件とは? というところまで、厩戸皇子や蘇我馬子は突き詰めて考えたのでしょうね。
伊東氏:そう考えると、大国といわれる国が真に地域の盟主になりたければ、パートナーとなり得る国の資格を文化面に求めるべきです。それは自国の文化を押し付けるのではなく、他国の文化を尊重するという姿勢です。軍事力によって自国の主張を無理に通そうとか、他国の領土を奪おうとか、民族固有の文化を破壊しようといった一部の国家のやっていることは、古代国家よりも退化しています。
天津氏:王道を求めるべきで、力任せのいわゆる覇道になってはならないということですね。
伊東氏:その通り。歴史から学んでいれば、現在のウクライナ戦争のようなことは起きなかったはずです。飛鳥時代の為政者たちは仏教国家という看板を掲げることで、隋や唐に認めてもらい、そのうち本気で仏教を信じるようになり、厩戸皇子のような天才と呼んでもいい宗教家兼為政者が生まれることで仏教が定着し、ようやく国家としてのカタチができてくるわけです。
天津氏:伊東先生は『覇王の神殿』で、独特な厩戸皇子を造形されました。蘇我馬子や推古天皇とぶつかっても信じるところを突き進む豪胆な厩戸は、従来のイメージを塗り替えてインパクトがありました。
伊東氏:聖徳太子(厩戸皇子)は実在しなかったという説もあるくらいで、歴史上さまざまに神格化や聖人化がされてきました。僕は、これまでの厩戸像は実像と差があるのではないかと思ってきました。自らの財力で斑鳩宮をつくり、推古天皇のいる飛鳥と権力を二元化させた理由がはっきりしないこともあります。「日本書紀」に斑鳩を築いた厩戸の意図は書かれていませんが、おそらく蘇我氏などの旧勢力がいる飛鳥では、自らが理想とする都が造れないと考えたのでしょうね。それに厩戸はとても艶福家です。そういった点から、厩戸は聖人ではなく、英雄の気質を持った野心家だったのではないかという仮説を立てました。むろん私利私欲からではなく、国家第一の視点を持つ不世出の偉人という評価は変わりません。
天津氏:僕も、厩戸皇子は大きな意味で欲がある人だろうと思います。その部分と聖徳太子伝説を両立させようと思い、『和らぎの国』では思慮深く聖人的な厩戸皇子と、豪胆で気概のあるパートナーの竹田皇子、というバディを造形しました。
伊東氏:ここ最近、若い起業家たちと交流する機会が増えたのですが、誰もが上場して金持ちになりたいとは考えません。少しでも世のため人のために役立ちたいという思いから起業しているんです。彼らを見ていると、理想に燃えて新しい国家像を描いていた厩戸を連想します。日本は成長しない、日本は駄目だといわれ続けていますが、株価や経済成長だけを見ればそうだとしても、起業家の若者たちと直接話し、その理想の高さや大義を理解すると、日本こそ国際社会をけん引すべき国だという確信を持ちます。僕は厩戸皇子を、こうした若い起業家になぞらえたのです。
[日経ビジネス電子版 2022年4月22日付の記事を転載]
天津佳之著/日本経済新聞出版
伊東潤著/潮出版社