史上初の女性天皇・推古天皇の御代を描いた歴史小説が相次いで刊行された。幅広い時代を網羅する伊東潤氏の 『覇王の神殿 日本を造った男・蘇我馬子』 (潮出版社)と新人・天津佳之氏の 『和らぎの国 小説・推古天皇』 (日本経済新聞出版)。歴史教科書的には、日本の国家体制は豪族・蘇我氏が滅ぼされた大化の改新から始まったとされるが、ふたりの作家は女帝の甥の摂政・聖徳太子(厩戸皇子)と外戚でもあった大臣・蘇我馬子が政治を主導した推古朝こそ、日本の国の成り立ちと口をそろえる。なぜ今、1400年前の推古朝なのか。第2回となる今回は、日本と朝鮮半島の関係、豪族・蘇我氏が果たした役割、そして日本の「和」という価値観について考えていく。

(写真:吉成大輔)
(写真:吉成大輔)

伊東潤氏(以下、伊東氏):大和から飛鳥時代にかけて、仏教と共に国家を成り立たせるために不可欠な要素が鉄でした。鉄が日本に入ってこなくなると、武器が作れなくなる。つまり侵略されても武器が不十分だと、対抗手段がなくなるわけです。今のウクライナと同じですね。日本が鉄を確保するために必要な国が、朝鮮半島南端にありました。

天津佳之氏(以下、天津氏):加羅ですね。

伊東氏:加羅諸国と提携し、日本は「任那」という国家を打ち立てたというのが以前の定説でした。ここで疑問なのが、「任那」は果たして国家としての体裁を整えていたかどうかです。僕は日本軍の駐屯地だったと解釈しています。日本から派遣された部隊が屯田兵のように自給自足しながら、鉄を確保して日本に送っていた。西隣の百済とも提携し、一朝事あるときは百済と加羅諸国に助力する。これは非常にうまいやり方です。恐らく馬子の父の稲目あたりが確立したものだと思います。

天津氏:国力を高める意味でも鉄は欠かせません。

<b>伊東潤(いとう・じゅん)</b><br> 1960年神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『国を蹴った男』で吉川英治文学新人賞、『巨鯨の海』で山田風太郎賞と高校生直木賞、『峠越え』で中山義秀文学賞、『義烈千秋 天狗党西へ』で歴史時代作家クラブ賞(作品賞)、『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で本屋が選ぶ時代小説大賞2011を受賞。著作は多数。最新刊は関ヶ原の戦いを描いた『天下大乱』(朝日新聞出版)。(写真:吉成大輔)
伊東潤(いとう・じゅん)
1960年神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『国を蹴った男』で吉川英治文学新人賞、『巨鯨の海』で山田風太郎賞と高校生直木賞、『峠越え』で中山義秀文学賞、『義烈千秋 天狗党西へ』で歴史時代作家クラブ賞(作品賞)、『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で本屋が選ぶ時代小説大賞2011を受賞。著作は多数。最新刊は関ヶ原の戦いを描いた『天下大乱』(朝日新聞出版)。(写真:吉成大輔)
<b>天津佳之(あまつ・よしゆき)</b><br> 1979年静岡県伊東市出身。大正大学文学部卒業。書店員、編集プロダクションのライターを経て、業界新聞記者。2020年『利生の人 尊氏と正成』で日経小説大賞を受賞しデビュー。最新刊は菅原道真を描いた『あるじなしとて』。(写真:吉成大輔)
天津佳之(あまつ・よしゆき)
1979年静岡県伊東市出身。大正大学文学部卒業。書店員、編集プロダクションのライターを経て、業界新聞記者。2020年『利生の人 尊氏と正成』で日経小説大賞を受賞しデビュー。最新刊は菅原道真を描いた『あるじなしとて』。(写真:吉成大輔)

国際感覚を持っていた豪族、蘇我氏

伊東氏:農耕具にも鉄は使えるので、鉄がふんだんに入ってくると、農業生産性も格段に上がります。

天津氏:僕はこの時代、鉄は国産できていたと考えています。三韓の方が産鉄量は断然多いのですが、ある程度自給できる状態だったのではないか。だから、「任那」に関しては『和らぎの国』では屯倉(みやけ)という言葉を使いましたが、日本と朝鮮半島との物資が行き来する基地にすぎなかったと考えています。

伊東氏:鉄の国産化は分かりませんが、その可能性はありますね。

天津氏:朝鮮半島諸国の史料によると、加羅は日本に近いですし、倭(わ)人に近い倭種という民族がそもそも多かった。日本人に血として近いところがあるので、人の往来や物資のやり取りは古来頻繁にあったのでしょう。だからといって、独立国家という形で朝鮮半島に飛び地を置いていたというのは、現実的に考えにくいです。

伊東氏:百済や加羅諸国からすると、隣り合っている新羅や高句麗の圧力に対抗するために、日本に軍隊の派遣を要請してきたことは十分に考えられますね。その条件として、少し土地を分けるか一時的に貸して駐屯してもらうというのは、実に合理的な発想だと思います。日本としても、鉄の供給が途絶えてしまっては困るので渡りに船でした。

天津氏:結局、日本と朝鮮半島の関係は、推古朝から200年以上前の神功皇后まで遡ります。伝説ではありますが、神功皇后の三韓征伐で、日本が新羅・百済・高句麗の三韓の盟主となりました。その後も「倭」の豪族が加羅に派遣されて土地の管理はやっていたという記述が朝鮮半島諸国の史料には残っています。神功皇后の時代に得た権益だけは守らねばというのが、日本にとっては譲ることのできない命題だったのでしょうね。

伊東氏:我々が思っている以上に、日本と朝鮮半島南部との関係は、歴史的に深かったのかもしれません。

天津氏:ここで蘇我氏の存在が重要な意味を持ってきます。彼らは百済の人たちと太い関係を築き、豪族としては例外的に国際感覚を持っていた。日本の国家の成り立ちという意味では、蘇我氏が特に外交面で果たした役割は大きいですね。

伊東氏:蘇我氏は葛城氏の一族という説が有力ですが。

天津氏:日本書紀をベースにすると、まず武内宿禰という人がいて、そこから出てきた豪族が葛城氏であり、蘇我氏です。神功皇后の三韓征伐を助けた人だからか、武内宿禰を祖とする豪族はすべて外交畑です。葛城氏であれば軍事侵攻をやり、蘇我氏は経済・財政を担った。外交の相手国も役割を分担していたと考えられます。だから『覇王の神殿』の帯に「日本史上屈指の“悪役”の実像に迫る」という惹句(じゃっく)がつけられていますが、僕からしてみると、蘇我馬子はそんなに悪役か? と思ってしまいます。

野心や権力欲だけで人は動かせない

伊東氏:権力闘争を勝ち上がり、頂点に上り詰めた人間に対して、日本人は悪役のレッテルを貼りたがりますからね。理想や大義を持って行動していても、最後に勝者、すなわち権力者になってしまうと、悪人扱いするのが日本人のメンタリティーかもしれません。

天津氏:分かります、分かります。野心や権力欲だけで人を動かすことはできません。蘇我氏と同じく武内宿禰を祖とする豪族に平群氏がいます。雄略天皇の御代に台頭した大臣の平群真鳥が、武烈天皇の御代に国政の専横があったとして処刑されました。日本書紀に出てくる話ですが、蘇我氏は恐らく同族の平群氏の没落を横から見ていて、臣下の頂点である「大臣」とは何かを学んだのではないか。だから僕は、蘇我氏には天皇の権力に取って代わろうという考えはなかったと思っています。仏教興隆をはじめとして他の豪族とは対立軸が多く摩擦も起こしました。伊東先生が『覇王の神殿』で、ひとりの人間として懊悩(おうのう)する馬子を造形されていますが、この馬子がとても魅力的です。

伊東氏:乙巳の変で中大兄皇子に滅ぼされたこともあって、蘇我氏は権力欲の強い野心的な一族とされてきました。しかし実際には、馬子の父の稲目、馬子、蝦夷、乙巳の変で殺される入鹿まで、誰もが理想や大義を掲げて政治に関わっていたと思います。

天津氏:日本史上唯一の天皇暗殺事件である崇峻天皇(泊瀬部大王)暗殺を主導したのが蘇我馬子だったために悪役イメージがつきまといます。しかしこの時代、大王(天皇)は絶対不可侵の存在ではありませんよね。

伊東氏:当時の大王は豪族たちの盟主のような存在だったので、崇峻天皇の暗殺は政治闘争の一環として考えるべきでしょうね。馬子の背後に推古天皇がいたのは確実ですしね。

天津氏:大王の即位には群臣の合意が不可欠な時代でした。とすれば国政を安定させるという大義があれば、暗殺も周りの合意が取れればできたのではないか。馬子は大臣として臣下を取りまとめて合意を取れるほど大きな人物だったということは言えると思います。伊東先生は『覇王の神殿』で、崇峻天皇も義理堅く大局を見て動く人物として描かれていますね。

伊東氏:崇峻天皇は、父の欽明天皇の遺詔を守るという思いが強かったと思います。新羅に奪われた任那を取り戻し、鉄を安定的に輸入できる体制を整えていくべきだという考えで、朝鮮半島に軍勢を派遣したかったのだと思います。しかしそれが、蘇我馬子の内治優先という方針と異なったので殺されたのではないでしょうか。

天津氏:日本書紀では、崇峻天皇は性格に難があり酷薄な人というイメージですから。『覇王の神殿』では、厩戸皇子も聖人伝説からかけ離れています。怜悧(れいり)な切れ者で自信家。国のかじ取りに必要だと思えば、時に非情な一面も見せて、はかりごともいといません。

(写真:吉成大輔)
(写真:吉成大輔)

厩戸皇子に感じた「欲」を描いた

伊東氏:崇峻天皇もそうですが、厩戸皇子は私利私欲の人物ではありません。しかし推古天皇がなかなか譲位しないという不満はあったと思います。譲位しなかった理由は多々あると思いますが、僕は女性らしい嫉妬という解釈を取りました。『和らぎの国』で大活躍の竹田皇子が早世することで、推古は自分の息子以外の誰かを次期天皇に指名せねばならなくなった。しかし才気あふれる厩戸に嫉妬心を抱いてしまうという展開ですね。本来なら馬子、推古、厩戸の3人は、古代日本に仏教を定着させ、国家としての基盤を築いたわけですが、その三位一体のような体制も、互いの嫉妬心や疑心暗鬼から崩壊の兆しが表れてくるわけです。

天津氏:なるほど。非常に納得できます。

伊東氏:厩戸皇子に摂政として国政全般を任せていた推古天皇ですが、36年もの長きにわたり、天皇(大王)の位を手放さなかったのは、厩戸にだけは譲位したくなかったとしか考えられません。また馬子は馬子で、若くて才気煥発(さいきかんぱつ)な厩戸に嫉妬の気持ちがあったはずです。こうしたことから、古代日本を支えた三位一体の体制は崩れ始めます。日本書紀の記述に従えば厩戸は病死で、恐らく事実もそうでしょう。しかし飛鳥の推古・馬子組と斑鳩の厩戸が対立関係にあった蓋然性は高く、それが、馬子の孫の入鹿が厩戸の子孫の上宮王家を滅ぼすことにつながっていくのではないかと思います。

天津氏:推古天皇、蘇我馬子、厩戸皇子の三者三様の感情の動きを重ねていくと、『覇王の神殿』のクライマックスの悲劇となっていくのですね。日本書紀からは離れますが。

伊東氏:この時代のベースとなる史料は日本書紀しかありません。しかし史料がいかに多く残っていても、すべて編纂(さん)者の意図によって残されたものです。その意図を排除し、蓋然性の高い歴史解釈を物語として提示していくのが、自分の使命だと心得ています。厩戸皇子などはその最たるもので、蘇我氏を悪者として際立たせるために、必要以上に聖人化された気がします。

日本古来の価値観「和」が注目される理由

天津氏:あれだけ伝説化されてしまっていますからね。

伊東氏:そうですね。3人とも、史実よりも伝説部分の方が大きいかもしれません。それでも厩戸皇子は従来のような聖人ではなく、もっと生臭い欲のようなものを感じるんです。もちろん私利私欲ではなく、仏教によって衆生を救いたいといった欲なんですけどね。

天津氏:公に対しての欲ですから「公欲」と言ってもいいかもしれません。

伊東氏:なるほど、公欲ですか。つまるところ為政者は私利私欲ではなく、常に公欲を意識した行動が取れるかどうかですね。

天津氏:「和」も公欲と近いところにあるのではと思うのです。僕は業界新聞記者なので経営者のお話を聞く機会が多いのですが、最近は貢献という言葉をよく耳にするようになりました。自己と他者を見て、どうすれば双方が利益を得ていくかといった考え方が盛り上がっています。SDGsなどもその延長線上ですよね。経営者も2代目、3代目と若くなるにつれて、自社の経営を安定させたうえで横とつながって何かをしよう、社会にもうけを還元しよう、と利他的な経営マインドを少なからず持っているように思います。決して世代でくくりたくはないのですが。

伊東氏:高度経済成長時代を生きてきた人たちのメンタリティーは、コラボレーションよりも競い合いなんです。人口が多いので、競い合いの中で頭角を現さないと管理職になれなかったからですね。僕も外資系企業に22年間勤めていましたが、もっと他人と協力していたら、より大きな仕事ができたのではないかと悔やんでいます。もちろん今は日本が縮小均衡しているので、管理職のポストも減り、互いに協力し合わなければ全員討ち死にという時代背景ではありますが、1人でできることは限られています。もっと利他的精神で協力し合う社会を築いていきたいですね。

天津氏:それは「和」として、もともと日本にあった価値観ではないでしょうか。

伊東氏:日本人が本来持っていた「和」の精神こそ、今最も大切なものだと思います。

(写真:吉成大輔)
(写真:吉成大輔)

(次回に続く)

日経ビジネス電子版 2022年4月27日付の記事を転載]

 6世紀から7世紀の倭(日本)。炊屋姫(推古天皇)の生涯を、息子の竹田皇子、甥の厩戸皇子(聖徳太子)、母方の叔父の大臣・蘇我馬子との関係を中心に描く。内外の軋轢を融和させる彼女の祈りに人々は「和」を見た。

天津佳之著/日本経済新聞出版
 日本が国として意識されていなかった時代に台頭した豪族・蘇我氏。当主の馬子は仏教を基盤に据えた「国家」造りにまい進する。政敵との死闘を制し、推古天皇と厩戸皇子との愛憎を越えて、彼がたどり着いた境地とは。

伊東潤著/潮出版社