史上初の女性天皇・推古天皇の御代を描いた歴史小説が相次いで刊行された。幅広い時代を網羅する伊東潤氏の 『覇王の神殿 日本を造った男・蘇我馬子』 (潮出版社)と新人・天津佳之氏の 『和らぎの国 小説・推古天皇』 (日本経済新聞出版)。歴史教科書的には、日本の国家体制は豪族・蘇我氏が滅ぼされた大化の改新から始まったとされるが、ふたりの作家は女帝の甥の摂政・聖徳太子(厩戸皇子)と外戚でもあった大臣・蘇我馬子が政治を主導した推古朝こそ、日本の国の成り立ちと口をそろえる。なぜ今、1400年前の推古朝なのか。最終回となる今回は、女性天皇が相次いだ時代背景や「和」を重んじる日本の精神文化や社会のあり方を論じ合う。

天津佳之氏(以下、天津氏):古代のこの時代、蘇我氏と並ぶ朝廷の一大勢力であった物部氏の存在はどう見られていますか。仏教導入を巡っても2代にわたって蘇我氏と「崇仏論争」を繰り広げました。丁未の乱で蘇我馬子が物部守屋を打ち破ったことで、歴史の表舞台から姿を消すわけですが。
伊東潤氏(以下、伊東氏):物部氏は蘇我氏以上に記録が残されていません。『和らぎの国』では、危機一髪で蘇我氏が丁未の乱を勝ち抜いたという設定ですが、日本書紀によると、大王(天皇)家の皇子がすべて蘇我氏についていますね。これは馬子の政治的駆け引きがうまかった証拠でしょうね。戦う前に勝敗を決している。

1960年神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『国を蹴った男』で吉川英治文学新人賞、『巨鯨の海』で山田風太郎賞と高校生直木賞、『峠越え』で中山義秀文学賞、『義烈千秋 天狗党西へ』で歴史時代作家クラブ賞(作品賞)、『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で本屋が選ぶ時代小説大賞2011を受賞。著作は多数。最新刊は関ヶ原の戦いを描いた『天下大乱』(朝日新聞出版)。(写真:吉成大輔)

1979年静岡県伊東市出身。大正大学文学部卒業。書店員、編集プロダクションのライターを経て、業界新聞記者。2020年『利生の人 尊氏と正成』で日経小説大賞を受賞しデビュー。最新刊は菅原道真を描いた『あるじなしとて』。(写真:吉成大輔)
圧倒的な武力を持つ物部氏に蘇我氏が勝てた理由
天津氏:物部打倒の勢力を結集させるために、蘇我氏の演出はたしかにうまかったですね。
伊東氏:戦う前の政治力で、蘇我馬子が物部守屋を上回っていたということでしょうね。しかし、物部氏は蘇我氏と違って圧倒的な武力を持っていた軍事氏族です。このあっけない滅亡は歴史の謎ですね。
天津氏:全国のいわば警察組織を束ねていた氏族ですからね。
伊東氏:こうは考えられませんか。物部氏の軍事力は抜きんでていた。ところが、経済制裁という形をとられると弱かった。この時代、屯倉を含め国の金蔵を押さえていたのは蘇我氏です。経済制裁で物部氏を締め上げていったのではないでしょうか。例えば鉄製武具や農工具を入手できなくするとか。こうしたこともあって物部氏を見限った皇子たちが、そろって馬子についたのではないかと。
天津氏:厩戸皇子と蘇我馬子が主導した遣隋使でも、力に訴えることができないので、文明国としてどう認めさせるかを理詰めで考えて、結局、中国を説得してしまったという感じですからね。百済・新羅・高句麗の三韓は、隋の冊封国(中国に朝貢する従属国)になりましたが、この時代の日本はまぬがれていました。
伊東氏:その点、蘇我馬子と厩戸皇子は実に有能ですね。三韓の上に立つには、日本が仏教を信奉する文明国だと、隋や唐に認めさせなければならない。そのためには目に見える堂塔伽藍(がらん)を造り上げ、隋や唐の使者が来たときに見せる必要があったわけです。隋や唐も日本が仏教国だと知れば、親近感を抱いて友好的になるわけで、それが敵対している新羅への牽制(けんせい)につながるわけです。こうした微妙なかじ取りや駆け引きは、現在でも学ぶべきだと思います。
天津氏:それに加えて厩戸皇子と蘇我馬子は、国民に目に物見せることの効果を分かって国政を運営していたという気がします。古来日本の神様が証しを見せる動きが多いということも関係しているのかもしれません。イザナギとイザナミの神産み・国産み、アマテラスとスサノオの誓約、天岩戸の伝説……。
伊東氏:そうですね。正統な様式にのっとった堂塔伽藍(がらん)は、隋や唐の使者だけでなく豪族や民にも効果がありました。やはり説法よりもビジュアルの方に説得力があるわけで、「これが仏教の言う天寿国か」と民衆に思わせることで、信者を増やしていったわけです。仏典などの知識階級向けのソフトと堂塔伽藍というハードが両輪となって、仏教は国内に浸透していったわけです。
女性天皇が相次いだ時代の背景とは
日経ビジネス編集部:おふたりが小説で描かれたのは日本初の女性天皇の御(み)代です。その後200年足らずの間に8代6人の女性天皇が即位しました。ほかには江戸時代に2人だけです。皇位継承を巡って焦点ともなっていますが、なぜ古代のこの時期に女性天皇が相次いだのだと思われますか。
天津氏:長い歴史の中で形づくられた「天皇」ではなく、この時代はより原初的な「すめらみこと」として大王がいました。そのうえで女性がなぜ多かったのかと考えてみました。単純で身もフタもないのですが、結局のところ、推古朝が安定していて、同時代人があやかりたい気持ちが強かったのではないかと。在位年数が長くて、遣隋使など外交でもうまくやり、結果的に国内が急速に発展していった時代でしたから。
伊東氏:この時代の女性天皇は、執政的立場の男性と二人三脚で政治を執っていました。推古天皇と蘇我馬子にならって、皇極天皇と蘇我入鹿も二人三脚です。奈良時代に入っても、女性天皇は藤原不比等はじめ藤原氏との二人三脚で国政を切り回していました。そういう意味で、頂点に立つのは巫女(みこ)のような神秘性を有する女性、現実世界の政(まつりごと)は男性というすみわけができていたのかもしれません。
天津氏:蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子は、自らを厩戸皇子に擬したところがありますね。
伊東氏:その通り。中大兄皇子のロールモデルは厩戸皇子です。いつの時代も成功事例にあやかるのは当然です。
天津氏:僕はこの時代、国内政治的には、天皇が女性でも男性でもあまり関係なかったのではないかと考えています。では、天皇の権威の源は何か。これは僕が小説を書いていくうえで考えたこととあくまでもおことわりしておきますが、とても単純に、人格の力、人間力ではないかと。誰もが「この人のためだったら仕事したい」と思わせる人柄とでも言えばいいのでしょうか。国民に思いを傾けてもらえる人間力が深く関わっていたと思うのです。
伊東氏:国家の頂点に立つ人物には、人望や人格、さらに言えば徳の高さは大切ですね。まず古代は、神と会話ができることが重視されるので、卑弥呼を例に出すまでもなく、どことなく神秘的な女性の方が「大王」には向いています。ところが中国にならって律令制度が整い、国家の統治機構の中で調整役としての「天皇」の役割がはっきりしてくると、人望人徳によって衆の上に立てる男性天皇の方が、支持を集めやすくなってきたはずです。天武天皇などその典型でしょう。
天津氏:そうなんです。中国に学んで律令制国家となっていく奈良時代の天皇は、どこか皇帝っぽいんです。先ほど、この時代の女性天皇が二人三脚で政治を執っていたという話がありましたが、僕は「和らぎ」という感覚はまさにそういうことだと思っています。トップダウンですべて一人でやってしまうのではなく、「大王」という一つの旗印があって、そこに向かって国を盛り上げていこうという意思を持った人たちが、それぞれの役割で力を注ぎ合う。それは日本に古来あった感覚ではないでしょうか。「和」については、飛鳥時代に成文化され、時を経た現代でも歌手の三波春夫さんが研究されていて、聖徳太子の本を書いています。歴史を通して、さまざまな人を引きつけて残ってきた価値観というのは、それだけニーズがあったということですし、今の時代だからこそ、きちんと再定義しておきたいですね。

「和」の概念や、その精神を形にした日本文化の発信を
伊東氏:『和らぎの国』を読み、「和」という概念をもっと広めていかねばならないと感じました。軍事力を持つと行使したくなるのが人間です。その抑止力となるのが「和」の精神です。ロシアのプーチン大統領が「和」の大切さ、もっと言えばメリットを理解していれば、ウクライナ紛争の悲劇は起こらなかったはずですし、世界で日々起こる争いやいがみ合いも、随分と抑制できると思います。その「和」の精神を形にしたもの、例えば和歌会や茶の湯といった日本固有の文化を、世界に発信していくことが大切ではないかと感じました。
天津氏:一方で、ネット空間の言論など見ていると、物事を単純化して理解しようとする傾向が強いですね。何事もそれほど単純ではないんだということを、物語を通して訴えられればと思っているのですが。
伊東氏:その通りですね。ネットの世界は瞬時に理解できないコンテンツは流されていくので、黒か白かという単純さが要求されます。またレッドゾーンを振り切るくらい過激でないと「いいね!」さえもらえません。それゆえ世界で分断が進んでいくのです。物語という一見迂遠(うえん)なコンテンツに目を向けてもらうには、物語の有用性をもっと訴えていかねばなりません。実用書や啓蒙書では「なるほどね」で通り過ぎてしまうことも、小説だと「腹に落ちる」、つまり自分の中に定着します。例えば歴史の教科書では、「645年に大化の改新がありました」で終わりです。その時、何のために中大兄皇子らが乙巳の変を起こし、それが大化の改新につながっていったのかといったことを、もっと教育の場で議論してほしいですね。そうしたプロセスを経ずして「思考」の習慣は生まれません。
天津氏:大化の改新であれば、中大兄皇子が権力を専横していた蘇我氏を打倒して、唐の律令制にならって天皇中心の中央集権国家を目指した一連の政治改革といった解説が歴史教科書ではなされます。僕は、蘇我氏が政治改革のためにすでに準備していたことを、中大兄皇子が一旦完成形にしたぐらいに捉えています。国の方向性を大きく変えるためには助走期間が必要です。その助走期間に噴出した問題は、蘇我馬子の父の稲目から馬子、蝦夷、入鹿が片付けて、中大兄皇子が入鹿を殺すことによって、いいところだけさらっていったという言い方はあまりしたくないのですが。結果的には……。
伊東氏:大化の改新は権力闘争の一つにすぎません。その点では、江戸幕府が用意していた改革を、薩長両藩が乗っ取った形の明治維新に酷似しています。
天津氏:時代背景に加え、政治改革の在り方も幕末に重なると。
伊東氏:だから、中大兄皇子と大久保利通がやったことは近いんです。となると蘇我入鹿は小栗上野介あたりかな。勝海舟は維新政府でも自分の居場所をちゃっかり確保しますから、さしずめ蘇我倉山田石川麻呂ですね。(笑)
戦後タブー視してきた議論を令和の今こそ
天津氏:その見立ては面白いですね。(笑)話をもどしますと、もう令和なので、いわゆる戦後的な考え方でタブー視してきたことを、歴史教育の場で堂々と議論してもいいのではないでしょうか。皇室を巡る問題で意見がいろいろ分かれている今だからこそ、積極的に議論しなければならないと思います。ただ、そのときに踏まえなければならない歴史というものはどうしてもあります。一つの視点だけでは理解しきれませんし、タブー視されてきた歴史的経緯は知っておかねばならない。
伊東氏:その通りですね。昭和の頃は、天皇に対する批判はできませんでしたからね。そろそろ歴史研究の一つとして、天皇の戦争責任についても論じ合ってほしいですね。
天津氏:先ほど、天皇(大王)を天皇たらしめているのが人間力ではないかと話しました。例えば、今の上皇さまが天皇だった平成の時代に、雲仙普賢岳が噴火した時すぐに現場に行かれて、被災者にひざをついて話を聞くお姿に僕は感動したんです。その感動があるから、イデオロギーの話ではなくて、やっぱり天皇陛下ってすごいんだと素直に思いましたし、これほど国民に心を寄せる人がいわゆる象徴として日本にいるということを誇りに思えたんです。『和らぎの国』を書いている時、実は古代から天皇というものは上皇さまのような存在だったのではないかと思っていました。
伊東氏:いい話ですよね。天皇陛下こそ「和」の象徴ですからね。
天津氏:そうですね。
伊東氏:われわれは小説家です。歴史研究家ではないので自由なように思われますが、物語展開上の都合で歴史を捻(ね)じ曲げてはいけないと思っています。ただし一次史料は尊重しますが、過去の定説には異を唱え、蓋然性の高い新解釈を物語の上で展開していく必要があります。それが先ほどの「思考」につながります。定説をうのみにしていては、新たな物語は書けません。すなわち歴史小説家は一次史料と物語性の狭間で呻吟(しんぎん)し、斬新な解釈と素晴らしい物語を紡いでいかねばならないのです。
天津氏:歴史小説を書く意味を突き詰めると、たとえ小さな説でも新しい説を伝えることに意味があると思います。元からある説に合わせて小説にするのであれば、わざわざ書く意味はないですからね。
伊東氏:その通りです。『和らぎの国』を読むと分かりますが、「和」という角度から歴史を照射することで、歴史は全く新しい像を結びます。天津さんにはそういうテーマ性を掲げ、これからも創作活動に励んでいただきたいと思っています。天津さんのようなスケールの大きい小説家が出現したことで、歴史小説はこれから新たなステージに進めると思います。

[日経ビジネス電子版 2022年4月28日付の記事を転載]

天津佳之著/日本経済新聞出版

伊東潤著/潮出版社