1877年(明治10年)1月29日、旧薩摩藩若手急進派が政府の鹿児島属廠の火薬庫を襲撃したことで、西南戦争が勃発した。薩摩軍は熊本鎮台(熊本城)を落とすことができず、鎮台の囲いを残したまま北上した。これに対し政府軍は、熊本鎮台を支援するために東京鎮台、大阪鎮台および近衛兵からなる追討軍を組織し、博多に上陸して熊本に向かった。最大の激戦は熊本城の北に位置する田原坂(たばるざか)で行われ、司馬遼太郎の『 翔ぶが如く(第9巻) 』(文春文庫)などの歴史小説で詳しく描かれている。熊本民謡「田原坂」では、「雨は降る降る 人馬(陣羽)は濡れる 越すに越されぬ 田原坂」とうたわれ、犬養毅は『郵便報知新聞』で、薩摩軍について「一雨、二赤帽、三大砲、の三つに困す」と報じた。この順番は、薩摩軍が苦しめられた度合いとして、雨が一番厳しく、次いで赤帽、大砲との解釈で語られることが多い。実際、田原坂の戦いで雨はどのように降ったのだろうか。

田原坂での両軍の激戦

 政府軍は熊本鎮台を救援すべく急ぎ南下した。薩摩軍が熊本鎮台を落としたとなれば、全国でくすぶっている士族反乱に火がつくおそれがあったからだった。薩摩軍は政府軍の進軍を阻止するため、田原坂に防衛ラインを引いた。本格的な戦闘は1877年(明治10年)3月4日に始まり、以後20日まで17日間の攻防となった。

 田原坂は全長1.2キロメートルながら、一の坂、二の坂、三の坂と名づけられたように曲がりくねっており、政府軍は攻めあぐねた。『征西戦記稿』巻六の3月4日の戦闘の記述には、「田原坂ノ地タルヤ外昻(タカ)ク内低ク、恰(アタカ)モ凹字形ヲ成シ、(中略)、鬱蒼トシテ晝昏(クラ)ク、詢(マコト)ニ天険ト爲ス」とある。

田原坂の戦いで雨は何日降ったのか

 「一雨、二赤帽、三大砲」について、まずは雨から検証してみたい。薩摩軍が田原坂の戦いの間にずっと雨に苦しめられた姿は、小説でもドラマでもよく描かれる。政府軍が最新鋭のスナイドル銃をほぼ全軍に配備しており、これは元込式で雨中にあっても射撃が可能だった。対して薩摩軍はスナイドル銃も用意していたものの多くは旧式のエンピール銃で、銃口から黒色火薬と弾丸を挿入する先込式のため、雨中では火薬が湿って不発になったとされる。

 いったい雨が何日降ったのか。政府軍に参加した東京本郷の巡査・喜多平四郎の『征西従軍日誌 一巡査の西南戦争』(佐々木克監修/講談社学術文庫)から拾い上げると、戦いの間に雨が降った日は3月4日と5日、8日から10日、そして19日と20日の7日であった。開戦直後に5日間降ったのだが、その後は11日から18日まで1週間以上降らなかった。

 従軍日誌での天気の記述は果たして正しいのか、観測データで確認してみたい。ただし、1877年3月当時は東京、札幌、函館の3つの測候所で気温と降水量の観測が行われていただけで、従軍日記を検証するにはいささか距離が遠い。

長崎オランダ商館の観測データによる検証

 古い観測記録を探し、それを生かして過去の気候を探る研究は欧州を中心に世界各地で行われており、データ・レスキューと呼ばれている。東京都立大学の三上岳彦名誉教授、成蹊大学の財城真寿美教授らの研究グループによって、長崎のオランダ商館による1826年から1878年にかけての観測記録が発見された。1877年3月では、観測項目は気温、気圧、湿度、雲量、風向風速、そして降水量と現在の地方気象台のものとほぼ変わらず、アメダスよりもはるかに充実している。今回、同グループの厚意により毎日のデータを閲覧することができた。

 長崎の観測データと照合すると、従軍日記の天気の記述は正確であった。最初に雨となった4日と5日は、気温と気圧がともに急低下する中での激しいもので、典型的な寒冷前線の通過での降雨だ。次に8日から10日の雨では北風が続いており、4日の寒冷前線が西に延び、これが活発化したものだろう。ただし、10日の雨はさほど強いものではなかったようだ。

 両者が異なるのは13日だけだ。従軍日記は曇りとあるのに対して、長崎データではこの日の降水量を10.6ミリと記録している。長崎での局地的な雨で、熊本では降らなかった可能性もある。こうしてみると、田原坂の戦いでは開戦から数日間は雨が降ったものの、戦況が大きく変わる政府軍による14日の抜刀隊の投入と15日の田原坂西側の横平山攻略といった期間では、雨はまったく降っていない。

 そもそも、田原坂の戦いのあった1877年3月を通した降水日数をみると、従軍日記では12日、長崎の観測データは13日であった。1890年以降から熊本地方気象台で降水量を観測している。一般に1日の降水量が0.5ミリを超えると人は傘をさすと言われているが、毎月の降水量0.5ミリ以上の日数の平均をみると、1月と2月が7日から8日、3月に11日となり、9月まで10日以上の日数、10月以降が7日から8日で、田原坂の戦いの3月の雨の日数は平年並みでしかない。

田原坂合戦の図(永嶌孟斎/1877年) (出所)国立国会図書館デジタルコレクション
田原坂合戦の図(永嶌孟斎/1877年) (出所)国立国会図書館デジタルコレクション
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二番目の赤帽と三番目の大砲

 「一雨、二赤帽、三大砲」で雨の次に来る二番目の赤帽とは、徴兵された兵士ではなく廃藩置県前から組織されていた練度の高い近衛歩兵のことで、第二旅団に配属されていた。政府軍の田原坂攻略の主力部隊は第二旅団であり、薩摩軍はこの難敵に対峙した。

 三番目の大砲とは政府軍が用意した四斤野砲と四斤山砲で、射程は各4000メートルと2500メートルであった。田原坂の攻略に手間取った政府軍は3月8日以降、田原坂の西側の二俣と瓜生田に大砲を置き、小銃弾と合わせて1日平均約32万発の弾薬を放って圧倒する戦術を採用した。両軍の激しい砲声は、熊本城南2キロメートルの二本木神社内に置かれた本営にいた西郷にも聞こえたという。

 こうしてみると、「雨、赤帽、大砲」の順番は田原坂の戦いの経過と一致する。薩摩軍は会戦当初に一番手として雨にたたられ、政府軍を「百姓兵」と侮っていたところ練度の高い近衛兵が二番手で現れ、8日以降に三番手の大砲が放つ大量の砲弾を浴び、消耗していった。

1週間ぶりの雨天での決着

 政府軍は3月18日、今後の作戦を議論した。集まったのは第一・第二旅団長の野津鎮雄と三好重臣、第二旅団参謀の野津道貫、そして本営にいた大山巌といったメンバーだ。19日を休養日としており、余裕がうかがえる。そして、20日に総攻撃すると決めた。

 20日は1週間ぶりに早朝から雨となった。長崎データのコメント欄にオランダ語で「日中は暖かく、湿度は最大で、霧が発生」とあり、19日午後2時から20日の夜にかけて風向きは南西から南東で、暖気の流入がうかがえる。気温は高くなり、気圧が上昇している。つまり、20日の雨は寒冷前線ではなく、低気圧前面の温暖前線によるものと考えられる。短時間で激しく降るのではなく、20日未明から20日の昼頃にかけてじめじめと降り続くものだ。

 午前5時、雨天の中で政府軍は部隊を動かし、6時から戦闘が開始された。これまで頑強に抵抗していた薩摩軍はもろかった。あっけなく午前10時には拠点を明け渡し、植木方面へと潰走した。これまでの戦いで薩摩軍の兵士の損耗は大きく、銃弾も枯渇し戦場から拾って再利用するほどであった。加えて嫌っていた雨が1週間ぶりに降ったとあっては、高かった士気もここまでであったのだろう。

 田原坂の戦いにおける政府軍の損失は公式記録に残されており、戦死者・死傷者・逃亡者を合わせて2624人であった。これに対して薩摩軍の損失は定かではない。西南戦争全体での両軍合わせた戦死者は約1万4000人とされ、このうち4分の1が田原坂の戦いで失われたという。

 1877年の春に田原坂に降った雨は、統計的に見れば平年並みの降り方に過ぎなかった。しかし、薩摩軍は開戦当初の雨で苦戦を強いられ、その後は政府軍の精鋭部隊と物量攻撃で消耗した。そもそも薩摩軍は2月5日の鹿児島での会議から精神論に色濃く染まり、戦略も兵站も無きに等しかった。薩摩軍の劣勢は明らかとなり、1週間ぶりの温暖前線による絶え間ない雨の中で力尽きた。