今シーズンの冬は近年になくシベリア寒波の襲来が多く、本州の日本海側に大雪をもたらしている。武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた三方ヶ原の戦いは、家康が生涯でただ1回大敗を喫した戦いとして名高いが、合戦当日は今冬と同じような天気であった可能性が高い。安部龍太郎の『 家康 』(幻冬舎)には、元亀3年(1573年)12月22日の戦闘直前に西風が吹き、横殴りの雪が降ったとある。また、長年気象庁に勤めていた新田次郎の『 武田信玄 』(文春文庫)でも、家康出陣時から風が強くなり、雨が雪に変わったと書かれている。合戦当日の天気について、文献史料と近年の観測記録から読み解きたい。
古記録が示す合戦当日の大雪
『松平町史』編纂の過程で発見された「松平氏由緒書」に、「遠州未かたかはら(三方ヶ原)にてかっせん(合戦)」があり、「極月廿二日之事なればさむくハあり、ゆきハふかし、侍のならいほとあはれなる物ハなし」と書かれている。「寒く、雪は深い」が大雪の可能性を示している。もっとも、「松平氏由緒書」が書かれたのは大坂の陣の後とされ、三方ヶ原の戦いから40年以上もたっている。鵜呑(うの)みにしていいものか、疑問を抱く向きもあろう。
合戦当時の日記の記述がより信頼できる。元亀3年12月の天気が記載されたものとして、『御湯殿上の日記』と『兼見卿記』がある。前者は、京都御所の清涼殿御湯殿の控えの間で、女官たちが交替で綴(つづ)った日記で、文明9年(1477年)から文政9年(1826年)まで、脱漏はあるものの350年間続いたものだ。誰が書いたか不明だが、100人以上が関わったと考えられる。後者は京都吉田神社の神主・吉田兼見が綴った日記で、一部逸失もあるが元亀元年(1570年)から文禄元年(1592年)までがカバーされている。
いずれも京都のもので、『御湯殿上の日記』では三方ヶ原の戦いがあった12月22日に「雨雪ふる」、翌23日に「雪ふる」とある。『兼見卿記』では12月24日条に追加で記入があり、「去る二十二日、夜に入りて帰る。路地大雪降り了」と書かれている。つまり、戦い当日に京都は大雪が降っていた。
シベリアからの寒波と南岸低気圧
では、どのような気圧配置のときに、京都で大雪は降るのだろうか。近年の事例で確認したい。詳しい気象データが残る1960年以降から京都で1日(24時間)に10ミリ以上の降雪があったケースを拾うと、該当するケースは12回で、このうち9回がシベリアからの寒波、3回が南岸低気圧の東進によるものであった。
京都での大雪は2つのパターンがある。まず西高東低の冬型気圧配置のとき、乾いた極寒の空気(冬将軍)は蛇行するジェット気流によってシベリアから日本列島に運ばれる。極寒の空気は日本海を通過する際に水蒸気を含んで乾いた空気から湿った空気へと変質し、日本列島の陸地を通過するときに雪を降らせる。日本海側で雪が降るパターンで、厳しい寒波となると1日で終わらず、数日間雪が降り続くことがある。
もう1つは、南岸低気圧といって本州の太平洋側の沖合を東に進む低気圧がもたらす。低気圧は太平洋の湿った暖かい空気を運び、水蒸気を含む空気が上空の冷たい寒気に冷やされて雪として降る。南岸低気圧は偏西風により東進するため移動速度は速く、南岸低気圧による降雪は長くても半日程度だ。
『御湯殿上の日記』では、元亀3年12月22日に雨から雪に変わり、翌23日も雪が降り続いたとあり、降雪時間が長いことから、シベリアからの厳しい寒気の襲来のためだと考えられる。
三方ヶ原の戦いで雪は降ったか
それではシベリアからの大寒波が京都に大雪を降らせた日、浜松の天気はどうであったか。この厳しい寒気は京都に大雪をもたらすとともに、若狭湾から琵琶湖を通り、関ケ原を経て東海地方へと抜けていく。1960年以降の9回のケースでは、浜松の観測データはいずれも北西方向からの最大風速が毎秒8メートルから10メートルの強風が吹いていた。地球温暖化が進行するなかで東海地方での降雪は極めて少なくなっているが、それでも1994年と1997年の2度、雪が降っている。
こうしてみると、三方ヶ原の戦いで雪が降ってもおかしくない。北西からの冷たい強風による寒気移流があり、気温が急激に下がったのは確実だ。気をつけなければいけないのは、旧暦の12月22日というと寒さがまだ本格化しない年の瀬のように思いがちだが、今日の暦に直すと2月4日という厳冬期のまっさかりだということ。今日の浜松の平年値でみると、最低気温は2.0℃とシーズンで極めて低い時期にあたる。
シベリア寒波の襲来による気温の低下は、病態の武田信玄の身体にこたえたに違いない。一般的に風速毎秒1メートルにつき体感温度は1℃下がるとされている。しかも、戦いは申の刻(午後4時ごろ)に始まり、2時間ほど続いた。ちょうど気温が低下する時間帯であり、体感的にはマイナス10℃近い厳しい寒さを感じたであったろう。
信玄の不可解な行動
『当代記』によれば、信玄は甲府を出陣して元亀3年(1572年)10月10日に国境を越えて遠江に入り、同月21日に高天神城を押さえた後、天竜川を渡河すべく北上した。渡河地点の二俣城が11月晦日(30日)に陥落したことは、北条氏政の書状で確認できる。
ところが、信玄は二俣城に20日以上の長きにわたって滞在している。二俣城の普請(工事)があったとはいえ、全軍が行動を停止したのは不可解だ。ようやく12月21日に二俣城を出て翌22日に三方ヶ原の戦いで家康に完勝したものの、24日に戦場からわずか6キロメートル先の刑部城に到着しここで越年している。刑部城にも10日あまり滞在した。この地でのんびり過ごすものなのだろうか。時間を空費せず、家康を仕留めるのなら浜松城を囲むべきであり、織田信長に決戦を挑むなら西へと進軍するものだろう。
本多隆成の『 徳川家康と武田氏 信玄・勝頼との十四年戦争 』(吉川弘文館)によれば、信玄の体調がこの不可解な行動の要因なのではないかという。三方ヶ原の戦いでの自然環境の厳しさを考えると、説得力がある。すなわち、胃癌(がん)とも結核ともいわれる不治の病に侵された信玄は、二俣城で20日あまりの療養を必要とした。小康になってようやく出陣したものの、極寒の三方ヶ原での戦いにより体調を大きく壊した。このため、刑部城での10日あまりの休養が再び必要になったというものだ。

「幸運は勇者を好む」
家康が籠城戦ではなく浜松城を出て武田軍を追撃し、三方ヶ原で一戦を交えたことについて、『三河物語』でも重臣たちが諫(いさ)めた様子が描かれている。寡勢(かぜい)にもかかわらずなぜ野戦に打って出たのか、古今の歴史家から疑問視する声は多い。
本多氏は無謀な出撃を行った理由として、織田軍から佐久間信盛と平手久秀を将とする兵5000人の援軍を受けており籠城という消極策では信長の不興を買うと心配したこと、三河・遠江の土着勢力が武田方へと寝返った動きを見過ごせなかったこと、行軍中の武田軍を背後から衝(つ)けば勝機あるとみたこと、の3点を挙げている。
信玄を倒すという家康の野望は、夕刻からわずか2時間で完敗という結果に終わった。しかし、家康が厳しい気象条件の戦いに誘い出したことで、病身の信玄の命は削られたに違いない。その後の信玄の行動をみると、2カ月あまり緩慢な行動を取った後、甲斐への撤退を余儀なくされ、その途中に病死することとなる。ラテン語には「幸運は勇者を好む」ということわざがある。三方ヶ原の戦いでの家康は、まさに蛮勇が幸運を導いたと言えるかもしれない。