2024年9月から、NHKでスペシャルドラマ「坂の上の雲」の再放送が始まった。NHKドラマでも司馬遼太郎の原作でも、物語の白眉は1905年5月27日~28日に行われた日本海海戦だ。中央気象台(現・気象庁)の予報課長であった岡田武松は「天気晴朗ナレドモ波高シ」と天気予報を連合艦隊に電文で送り、第一艦隊参謀の秋山真之は出撃時に「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス」と大本営に伝え、末尾に「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」と岡田の予報文を引用した。今回は岡田の天気予報の背景とその結果について解説する。

天気予報はいつ発せられたのか

 当時の気象観測は1日3回(6時、14時、22時)、日本列島では北海道の宗谷から南西諸島の石垣島まで、加えてアジア大陸では朝鮮半島から中国の黄海や東シナ海の沿岸にかけて100カ所以上の測候所で行われていた。中央気象台では電信で送られてきた観測データを地図に記入し、予報課長自身が等圧線を描き、最後に天気予報や暴風警報の文面を書く手順であった。

 岡田が連合艦隊に向けた予報文「天気晴朗ナレドモ波高シ」は、いつの時点の天気図がベースになっているのだろうか。司馬遼太郎著『 坂の上の雲 』(新装版。文春文庫)では、前日の1905年5月26日6時の天気図としている。岡田は天気図を凝視し、さらさらと名高い予報文を一気に書いたとの描写もある。

 しかし、東京赤坂葵町にあった大本営海軍軍令部と連合艦隊の停泊地である朝鮮半島南端の鎮海湾まで電信ケーブルでつながっており、伝達には半日もかからない。27日に予想された海戦にとって重要な天気予報であれば、ギリギリまで待って最新の観測データを使用するに違いない。

 一方で日本海海戦があった当日朝(27日6時)の予報図を使ったとする資料も見受けられるが、これでは時系列的に合わない。連合艦隊が早朝に鎮海湾を出撃する際に連合艦隊司令長官名で発せられた電文は27日午前5時台のものだからだ。岡田が27日午前6時の天気図で予報文を作成したとすると、秋山の電文の方が早くなってしまう。

 そして、中央気象台では天気予報とともに暴風警報を毎日発表していた。中央気象台『天気図』の裏面にある5月26日と27日の暴風警報の記載は次のとおりだ。

5月26日(第一区から第四区)「海上風雨の虞(おそれ)アリ、25日午後11時30分沿岸を警戒ス」
5月27日(第一区から第四区)「27日午前8時15分、沿岸の警戒を解ク」

 対馬周辺の海域は第四区にあたる。つまり、中央気象台では5月25日の深夜に暴風警報を発したが、27日朝にこれを解除している。もし、岡田の連合艦隊向けの予報が27日に作成されたものであれば、「浪高カルヘシ」と加えるのは暴風警報解除との整合性に欠ける。

 正解は、岡田は26日午後10時の天気図を基に27日の天気予報を連合艦隊に伝えたものと考えられる。海上自衛隊OBの伊藤和雄氏の著書『まさにNCWであった日本海海戦』(光人社)によれば、海上自衛隊佐世保史料館に「明治三十八年五月二十七日天気図」との資料が所蔵されており、岡田の予報文は次のようなものだという。

 「本部(本州)ノ気圧の増加ヲシ、七百四十五粍(993hPa)ノ低圧部ハ日本海北部ニアリテ漸次北東ニ進ム。アス朝鮮方面ノ日本海側沿岸ハ南西ノ強風又ハ烈風吹ク」そして、最後に「天気晴朗ナルモ浪高カルヘシ」と付け加えられた。

 低気圧の動きについて注目して日本海側で強風が吹くとしており、これが「波高シ」の根拠であろう。そして「七百四十五粍ノ低圧部」が描かれているのは、26日22時と27時6時の天気図だけだ。つまり、岡田の予報は26日22時の天気図をもとに26日から27日にかけての深夜に発出されたことになる。確かに26日22時の天気図であれば日本海海戦が想定される海域の等圧線は混んでおり、風が強いという予報もうなずける。

1905年5月26日~27日の「天気図」(左上:5月26日14時、左下:5月26日22時、右:5月27日6時)(出所:気象庁ホームページ)
1905年5月26日~27日の「天気図」(左上:5月26日14時、左下:5月26日22時、右:5月27日6時)(出所:気象庁ホームページ)
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「天気晴朗」だが波は高かったのか

 連合艦隊は27日午前5時5分、ロシア艦隊出現の報告を受けると錨(いかり)をあげて出撃した。「戦艦三笠日誌」には5月27日午前5時に「晴、西南西風力5。海上濛気アリ、展望約六浬、波浪、艦ノ動揺稍(やや)大ナリ」とあり、秋山の電文と整合してはいる。さらに「戦鬥(戦闘)詳報」では、冒頭に「天候」として1日通しての天気概況をまとめている。

 「天候晴ナルモ濛気海面ニ停滞シテ展望約五浬、風向ハ終始西南西ニシテ風力四乃至五、波浪ノ方向亦西南西ニシテ其高サ四乃至五、艦体ノ動揺稍甚シクシテ是レニ反航スルトキハ激浪ノ飛沫常ニ前甲板ヲ洗ヒタリ、夕刻前濛気漸ク減シタリシガ波長ハ却テ増大セリ」

 風は西南西で風力は4から5、そして波高はたしかに4メートルから5メートルと高かった。波浪の間隔は夕刻になって長くなったようだ。

 もっとも、戦艦三笠の記録の風力が4から5となると、風速に置き換えると毎秒8.0メートルないし10.8メートル未満だ。岡田は前夜の予報「朝鮮方面ノ日本海側沿岸ハ南西ノ強風又ハ烈風吹ク」としたが、現在の風力階級では「強風」は風速が毎秒13.9メートル以上、「烈風」は同じく毎秒28.5メートル以上とされている。風の強さの定義は現在と異なるかもしれないが、岡田が想定したほどに風力(風速)が上がらなかったことは間違いない。

 そして波の高さの問題が浮かび上がる。風力4から5では、波高は4メートルまで上がらないのだ。風によって起きる波は風浪と呼ばれ、「風力」「吹送距離」「吹続時間」の3つの要素で波高は決まる。風力(風速)が大きければ波高は高くなり、風が吹く時間が長くても同じく波は高くなる。また、風が吹く距離が長ければ波が発達して高さも上がる。

 日本海海戦が行われた海域周辺での1905年5月27日14時の測候所の観測データ(風向・風速・天気)を見ると、いずれも風力は4から5しかない。波高の高さを換算する簡易表によれば、4メートル以上になるには吹送距離を最大の上海から対馬までの800キロメートルと取り、吹続時間を50時間としたとしても、風速は毎秒15メートル以上が必要となる。

現在も神奈川県横須賀市に展示されている戦艦三笠(写真:mtaira/stock.adobe.com)
現在も神奈川県横須賀市に展示されている戦艦三笠(写真:mtaira/stock.adobe.com)
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 それでも、実際の海戦では波は高かった。となると、海戦の周辺海域において測候所の観測データでは見つけることができない気象現象の乱れ(擾乱)が起こり、この要因で発生した「うねり」がどこからか戦闘海域に到来したのではないだろうか。

 まず考えられるのは、26日22時から27日6時にかけて日本海に示された低気圧の存在だ。日本海の真ん中にあるため観測データはないが、中心気圧はもっと低かった可能性がある。この低気圧の発達によるうねりが、対馬海域の波の高さの原因かもしれない。

 もう一つは、朝鮮半島南西沿岸と対馬・五島では異なる方向から風が吹いていることだ。遼東半島では北西風、木浦(韓国南西端)では西風に対し、大瀬埼(五島列島)では南風、厳原(対馬)で南西風と風向が異なっている。異なった方向から吹いた風が合流(収束)すると上昇気流が発生し、海面にうねりをもたらす。これが日本海海戦の海域で波高を大きくしたのではないか。「戦艦三笠日誌」で波の方向が南南西とあることから、日本海の低気圧の発達よりも風の収束の可能性が高い。

岡田の予報は的中したのだろうか

 岡田は日本海海戦での連合艦隊に向けた予報について、公式に言及することはなかった。甥(おい)に対しては、「予報文の細かい字句までは覚えていないが、あの時の予報は自分がやり、ピシャリと当たった」(須田瀧雄著『岡田武松伝』)と語っていたという。

 ピシャリと当たったというのは、確かに「天気晴朗」はそうであろう。27日14時に対馬海域周辺の厳原(対馬)、壱岐埼(壱岐)、下関(山口)の測候所で「快晴」としている。しかし、「波高シ」はどうであったか。風の収束という概念は1904年に欧州の一部の学者がようやく提唱し始めたもので、日本にいた岡田としては風の収束・発散や上昇流・下降流といった新しい概念を知る由もなかった。「波高シ」は26日22時の天気図での予報文だからこそ残った記述であろう。

 もし8時間後の27日6時の測候所の観測データによる天気図であれば、暴風警報を解除していることから「波高シ」は削られた可能性が高い。「天気晴朗」はまさに的中だが、岡田が予報したほどに風は強くなかった。波の高さは描かれた天気図では想定にない、未知の気象現象によるものであった。「波高シ」とは、観測データと予報文作成の経緯から生まれたまぐれ当たりだったのかもしれない。