軍事学者カール・フォン・クラウゼヴィッツの著書『戦争論』(邦訳は『 全訳 戦争論(上)(下) 』[加藤秀治郎訳/日本経済新聞出版]など)は、戦略・戦術の理論書として名高いが、具体例として随所に1812年のナポレオン・ボナパルトのロシア遠征について解説している。クラウゼヴィッツによると、ナポレオン軍はモスクワに入城した時点で膨大な兵力を失っており、すでに勝機はなかったという。
ナポレオン軍兵力の激しい消耗
ネマン川を渡河してロシアの領土に侵攻した1812年6月24日、ナポレオン率いるフランス軍は全軍で60万人の兵力、うち中央軍は30万を超える巨大な規模であった。しかし、中央軍が同年8月15日にスモレンスクに1万3500人を残して東に進軍したとき、ナポレオンの配下には18万2000人の兵力しかなかった。スモレンスクまで大きな戦闘がないにもかかわらず、約1/3を失っていたのだ。9月7日のボロジノの戦いを終えた段階では、ナポレオンの兵力はさらに12万人まで減少していた。
クラウゼヴィッツは、ナポレオンがモスクワを陥落させても、この兵力ではロシアとの講和条約を締結するという目的を達するには不十分であったとする。彼が首をかしげているのは、モスクワに至るまでのフランス軍の膨大な損失だ。14週間の行軍では、「特に悪い季節でもなく、進んだ街道も特にひどくなかった。季節は夏であり、路はおおむね砂地」だとし、軍の障害となった要因として、「巨大な部隊が同じ路を進み給養が不足したこと、敵が後退したものの潰走ではなかったこと」を挙げている。
従軍記録に描かれた猛暑
実際の天気はどうであったのか。両角良彦著『 1812年の雪 モスクワからの敗走 』(講談社文庫)では、フランス将兵の回顧録から侵攻当初の行軍状況を次のように伝えている。巨大な兵力といっても新兵が多く、猛暑の中で30キログラムの装備を背負っての60キロメートル行軍で侵攻開始2日目から多数の脱落者があった。さらにロシア領を東へと進撃すると、ステップ草原の埃(ほこり)・渇き・暑さ・雨という「夏将軍」で兵力が消耗していった。
語られている夏の暑さとは、ヨーロッパ東部で毎年起こるものなのだろうか、それとも1812年にとりわけ顕著なものだったのだろうか。観測データで確認できないものか。
温度計が最初に発明されたのは17世紀前半で、17世紀半ばになるとフィレンツェ、ピサ、ミラノなど7地点において気圧・湿度・風などとともに気温のデータも集められた。けれども、この観測網は1667年に解散した。今日まで続く気温データで最も時代を遡れるものは、イングランド中央部で1659年以降の月平均気温を時系列で見ることができる。ただし、イングランドとロシアでは距離が離れすぎている。ヨーロッパ大陸の主要都市で毎日の観測データがあるのは、ウィーンで1855年、ベルリンで1876年、パリで1900年と19世紀後半以降であった。
ところが、英国イースト・アングリア大学のフィル・ジョーンズ教授は19世紀にロシアのサンクトペテルブルクで発行された気象研究誌から、歴史の中で埋もれていた1743年以降の観測データを発見した。今回、ジョーンズ教授の厚意により、論文で使用したデータを送っていただいた。
観測データが示す1812年の夏の異常高温
サンクトペテルブルクでの毎日の平均気温について、1812年のデータと当時の平年値を比較してみた。平年値の計算に当たっては、現在気象庁で行っている30年平均の計算式を用いた。1812年7月と8月の気温が平年値を超えたのは39日だが、いったん超えると突出して気温が上昇していた。極端な高温であった目安として、標準偏差の2倍を超えた日を数えてみた。7月は6・8・31日の3日、8月は3~8・21~23日の9日、合計で12日もあった。標準偏差の2倍を超えて上振れするのは、確率的に約2.3%しかなく、50年に一度あるかないかだ。気温の変化が大きい中での、まさに異常気象(異常高温)と呼べる状況であった。
ちなみに2023年と2024年もサンクトペテルブルクの夏は暑かった。7月と8月で、2023年は1日、2024年は6日を除いて、すべて平年値を上回った。とはいえ、平年値よりも標準偏差の2倍以上高かった日はそれぞれ1日と3日しかない。過去24年間でこの日数が最も多かったのは2013年の5日だ。12日という記録から、1812年の夏は気温がいったん上昇すると、暑さが尋常のものでなかったことが分かる。『1812年の雪』の描写を裏付ける結果が出た。
勝機を失っていたナポレオン
1812年9月14日にモスクワに入城したナポレオンは、ロシア皇帝アレクサンドル1世の和平提案受け入れをひたすら待った。10月13日にモスクワで初雪が降ると、ナポレオンはようやく冬営のために撤退すると決断した。スモレンスクまで10日あまり、そこから備蓄地のヴィルナまで2週間程度という算段だった。
10月19日に撤退するときのナポレオンの兵力は、ナポレオンの側近の記録では8万7500人と、モスクワ滞在中に1万人以上減少していた。これに対して、ロシア軍は9万人の兵力と大砲500門以上を有しており、さらに義勇兵で膨れる一方であった。
撤退開始直後の10月24日、モスクワ近郊のマロヤロスラヴェツでロシア軍との間で小競り合いが起きた。ナポレオン軍は敵軍を退けたものの損害は多かった。援軍もなく物資も不足しており、参謀らは「こんな戦いを続けたなら兵員がいなくなる」との戦場の声を聞き、このままでは一度の敗戦が致命傷になると憂慮した。クラウゼヴィッツが語る通り、モスクワに到着した時点でロシアに勝てる兵力ではなくなっていたのだ。
「冬将軍」の到来は悪夢だったのか
ナポレオン軍の敗因として、例年より早く到来した「冬将軍」が挙げられることが少なくない。この年の冬の訪れはどうだったのか。これもサンクトペテルブルクで観測された毎日の平均気温で確認できる。
上述のように1812年は10月までは平年値を超える日が多く暖かかった。急転したのは11月に入ってからで、スモレンスクに行軍中の8日に平均気温がマイナス5℃以下となり、スモレンスク滞在時の13日から16日にかけては平均気温がマイナス10℃を下回った。悪夢の帰路と語られるゆえんだ。
しかし、秋から冬に入る時期を概観すると、いずれの年でも寒暖差が激しく、その周期はおおむね1週間程度だ。前後5年での毎日の平均気温を見ても、前年の1811年では10月下旬にマイナス5℃を下回り、1809年の11月中旬は1812年よりも低温の日が続いた。ナポレオンにとってみれば、ロシア軍に追尾されながら西方への帰還という苦しい時期に寒波が到来したということだろう。
ナポレオンに限らず、気象の変化による幸不幸は誰にも過不足なく訪れるものかもしれない。けれども往々にして、人は天気が不利に働いたときだけ、空を見上げて恨んでしまうものだ。ナポレオン軍がロシアの冬将軍に敗れたとのストーリーは分かりやすい。
しかし、クラウゼヴィッツの絵解きは異なる。1812年であればナポレオンはモスクワまで行かざるを得なかったとしたうえで、行軍での消耗を少なくするよう補給と撤退路の確保にもっと注力すべきであったし、モスクワからの撤退をもう少し早くできなかったかと語っている。
