『 言語学バーリ・トゥード 』がロングセラーになっている気鋭の言語学者で、作家の川添愛さんがお薦めするコミュニケーションや言葉についての本。1冊目は『会話を哲学する』(三木那由他著/光文社新書)。本書は『めぞん一刻』『うる星やつら』『パタリロ!』などの漫画から、綿矢りさ、アガサ・クリスティといった小説や戯曲、クリント・イーストウッドやスパイク・リーなどの映画まで、作品中の会話のやりとりを素材に、コミュニケーションの本質に迫っています。
漫画や小説から日常会話の謎を解く
日ごろのコミュニケーションの中で、「どうしてかみ合わないんだろう」とか、「なんとなく相手のペースに巻き込まれている気がする」とか、「ふつうのおしゃべりなのに、なんだか疲れる」などと感じることがあるかと思います。
言語学は原則として、こうしたことに対して、ノウハウやテクニックを提供するものではありません。しかし、コミュニケーションの本質に迫ることはできます。何気ない会話から生まれる、字面だけでは解明できない妙な空気感や心の揺れ動きについて、一定の解釈をもたらしてくれるわけです。
言語学者で哲学者でもある三木那由他さんの著書『 会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション 』(光文社新書)もその1つ。三木さんはコミュニケーションがご専門で、学術書も書かれていますが、この本は日常会話のモヤモヤを突き詰めてみたい人向けです。
シェイクスピアから綿矢りさ、『うる星やつら』『ONE PIECE』『マトリックス』まで、古今東西のさまざまな戯曲や小説、漫画や映画の会話部分を素材にしながら、コミュニケーションの本質をかみ砕いて考察しています。
コミュニケーションは「約束事」の蓄積
一般的にコミュニケーションといえば、AさんがBさんに何かを伝えること、と考えることが多いと思います。三木さんはこれを「バケツリレー」と呼んでいます。つまり、Aさんがバケツに言いたいことを注いでBさんに渡し、Bさんはそのバケツの中からAさんの意図をくみ取る、というイメージでしょう。
しかし、それだけではない、というのが三木さんの考えです。もっと重要なのは、会話を通じてAさんとBさんの間で「約束事」を蓄積していくこと。言われてみれば、確かにその通りだなという気がします。
例えば私が「この本は面白いですよ」と伝えることは、私がこの本の面白さを保証するという約束をしているわけで、こう言った直後に「この本は面白くありません」とは言えません。こういう約束事をいくつも積み重ね、お互いに責任を引き受けながら行動を制約していくことがコミュニケーションの基本であるというわけです。
フィクションでも現実でも、恋人同士の間で「ちゃんと好きと言ってよ」「そんなの、言わなくても分かってるだろ」「言ってくれなきゃ分かんないじゃない」のような会話がよくありますよね。一見無意味で、まして傍らから見ればどうでもいいやりとりのように思えますが、これはまさに2人が「約束事」を蓄積しようとする瞬間であるわけです。そう考えると、すごく腑(ふ)に落ちるのではないでしょうか。
はっきり言葉にしておかないと、後ではしごを外される恐れがある。例えば「ずっと一緒にいたいね」などと言っていても、いざ結婚の話題になったら「その気はない」と逃げるかもしれません。そういう場合、「結婚したいなどとは一度も言っていない」と言い訳されれば終わりです。たった一言かもしれませんが、それを明言するとしないとでは、かなりの隔たりがあるように思います。
恐らくビジネスの世界では、もっとシビアでしょう。契約するように匂わせて情報だけ引き出したり、後になって「言った」「言わない」でもめたり。それもこれも「約束事」の問題だと捉えれば、会話に臨む姿勢が変わってくるのではないでしょうか。
また、言葉を発することによる「約束事」は、自分自身に対しても影響を及ぼすとのこと。例えば独り言で「自分は駄目だ」と言い続けると、本心では駄目だと思っていなくても、自分を駄目な方向に追い込んでしまうこともあると。確かに、私にも心当たりがあります。
だとすれば逆もしかりで、「自分はこうなりたい」みたいなことを素直に口に出すと、それも「自分との約束事」になるでしょう。それが常に良いことかどうかは分かりませんが、一種の自己啓発やポジティブワードのようなものを三木さん流のコミュニケーション論で解釈すると、こうなるのではないかと思います。
「マニピュレーション」に気を付けろ
この本にはもう一つ、重要なキーワードがあります。それがサブタイトルにも出てくる「マニピュレーション」です。「約束事」を積み重ねるコミュニケーションとはまた別の概念で、「会話によって相手をコントロールすること」と三木さんは定義しています。
その例として引用しているのが、シェイクスピアの四大悲劇の一つである『オセロー』の一場面。優秀な軍人オセローを嫌う旗手イヤゴーは、オセローを破滅させるため、その最愛の妻が不倫をしていると思わせようとします。ただその場合、「あなたの奥さんは浮気していますよ」とストレートに言っても相手にされないでしょう。そこでイヤゴーは、オセローが信じ切っていることについて風穴を開けるような質問を繰り返し、少しずつ疑念を持たせていく。詳しくはこの本か『オセロー』を読んでいただきたいのですが、こうやって相手を自分の意図通りに誘導するのがマニピュレーションというわけです。
決してはっきりとは言わないけれど、何らかの言葉によって相手の意識を変えようとすることは、日常会話の中でもよくあると思います。その微妙な駆け引きや腹の探り合いが悲喜劇を生むことは周知の通り。
ただ問題は、そこに悪意や偏見があり、まさにイヤゴーのように誰かを貶(おとし)めるための手段として使われる場合です。三木さんは、特にマイノリティーや社会的に弱い立場の人が被害を受けやすいと指摘します。しかもこういったものは「約束事」を前提とするコミュニケーションではないので、発言者は責任を問われにくい。
それを象徴するのが、差別的な発言をした人の謝罪会見などでよく聞く「不快な思いをした方がいたなら申し訳なく思います」などという言い方。これは、「私の発言は、別に“差別的な約束事” をしたわけではありませんよ。差別的に感じたとしたら、感じた側の問題ですよ」と、問題を「受け手の心理」にすり替えているわけです。 こういった発言についてはコミュニケーション論とは切り離し、倫理的な悪質性で考えるべきだという三木さんの主張には説得力があります。
この本にはコミュニケーションを突き詰めて考える面白さがあります。それを数多くの名作と一緒に学べるのも楽しい。それぞれの作品を読んでみたくなるし、知っている作品なら「こういう読み方ができるのか」と驚かされます。
その上で、私たち自身の日常会話について捉え直すきっかけにもなると思います。ここで安易に「イエス」と言っては駄目だとか、この質問にはどういう意図があるのかとか、もしかしたら知らず知らずのうちに人を傷つけているのではないかとか。そういう視点を持つか持たないかで、会話の質がずいぶん変わってくるはずです。
取材・文/島田栄昭 取材・構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集部) 写真/木村輝