江戸文化研究家の田中優子さんが選ぶ「江戸と江戸時代を深く知るための本」1冊目は、『大江戸知らないことばかり 水と商と大火の都』。高度な土木工事によって水を味方につけて生まれた江戸の町は、水に育てられた町でもありました。とりわけ多摩川から水を引き込んだ「玉川上水」の効果は絶大で、飲料水不足を解決するだけでなく、市中や武蔵野の農業を大いに潤しました。

『NHKスペシャル』を書籍化

 2018年に『NHKスペシャル シリーズ 大江戸』という番組が放送されました。江戸時代の人々の暮らしぶりや大都市・江戸の機能を、「水の都」「商都」「大火の都」という3つの切り口で紹介するものです。その掘り下げ方は極めて具体的で、江戸文化を研究している私が見てもいろいろ勉強になりました。

 その内容を1冊にまとめたのが、『 大江戸知らないことばかり 水と商と大火の都 』(NHKスペシャル「大江戸」制作班編/NHK出版)です。執筆陣は当代一級の研究者の方々ですが、極めて平易な書き方をされています。各章の冒頭には漫画による導入部があり、史料の写真も豊富。江戸時代について知る入門書として最適だと思います。

『大江戸知らないことばかり』(NHKスペシャル「大江戸」制作班編/NHK出版)
『大江戸知らないことばかり』(NHKスペシャル「大江戸」制作班編/NHK出版)
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江戸百景の8割に水が描かれる

 まず「第1章 水を『味方につけた』町づくり」から面白い。番組に出演され、この章の執筆者でもある陣内秀信さんは長く私の同僚であり、現在も法政大学江戸東京研究センターの研究仲間でもあります。だからというわけではありませんが、「水」がテーマなら最適な方でしょう。

 もともと陣内さんは「水の都」として知られるベネチアの専門家です。しかし、1980年代にベネチアから見た江戸・東京という観点でも研究を始められて、以降は両方の都市を研究対象にするようになりました。いずれにも共通するのが「水」であることは、言うまでもありません。

 江戸も水の都でした。それは、例えば歌川広重の「名所江戸百景」を見ても分かります。全119枚の図絵のおよそ8割には、河川や海や掘割の形で水が描かれている。江戸の人々にとって、水が非常に身近な存在だったことは間違いないでしょう。

「『江戸入門』として最適の1冊です」と話す田中さん
「『江戸入門』として最適の1冊です」と話す田中さん
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 ただし、図絵だけでは、江戸がいつ、どういう都市計画を立て、掘割がどのように開設されていたかは分かりません。本書によれば、水路の拡充は幕府開闢(かいびゃく)前後に大きく3期に分けて行われたらしい。極めて高度で壮大な土木工事が行われたのですが、それによって資材などの物流が効率的になり、江戸城や城下町の建設に役立ったとか。江戸という都市は、まさに水から生まれたわけです。

 また、壮大な工事といえば、「玉川上水」にも触れています。江戸時代初期、都市人口の急速な増加によって、特に飲料水不足に直面します。そこで、西方を流れる多摩川から江戸城下まで水を引き込もうと建設されました。その効果は絶大で、各大名屋敷の庭園に池が敷設されたり、長屋で井戸端会議が繰り広げられたり、市中のみならず西部の武蔵野一帯の農業を盛んにしたり。さらに、給水を滞らせないという共通の利益のため、地域住民の共同体意識や連帯意識も高めたそうです。水から生まれた江戸は、水で育てられたとも言えるでしょう。

「現金掛け値なし」の商法が生まれた理由

 それから「第3章 発展の『原動力となった』商人の魂」も、当時の町のにぎわいが伝わってくるようです。

 江戸の人口の約半分は武士でした。したがって、江戸について語る場合、経済に焦点を当てることは多くありません。しかしこの章では、あまり知られることのなかった商人の実像を克明に記しています。それは同時に、当時の経済の仕組みを知る手掛かりにもなります。

 主人公は鰹節(かつおぶし)問屋の伊勢屋。江戸時代中期の1700年代初頭、伊勢の四日市から単身江戸に来た少年(伊兵衛)が、奉公を経て独立したのが始まりです。伊勢屋は紆余曲折(うよきょくせつ)を経ながらも繁盛し、代々受け継がれて明治以降も存続します。今日の株式会社にんべんの前身と言えば分かりやすいでしょうか。

 その成功の理由の一つは、株仲間(同業者組織)から嫌われても「現金掛け値なし」の商法に徹したこと。要するにカルテルに加わらず、相対取引や後払いのシステムも排除し、独自ルートで仕入れた商品を割安な同一料金で、その代わり現金による即時払いで販売したわけです。

 この商法は、伊勢屋のオリジナルではありません。最初に始めたのは、呉服店の三井越後屋(後の三越)。江戸の呉服店としては後発でしたが、同じく伊勢の松阪から進出し、やはり「現金掛け値なし」で台頭しました。

豊富な写真資料も掲載
豊富な写真資料も掲載
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 これには、江戸ならではの事情があります。参勤交代に象徴されるように、武士は激しく往来します。上方をはじめ全国から集まってきた商人たちも、いつ郷里に戻るともしれません。あるいは長屋暮らしの庶民も、頻繁に引っ越ししていたようです。つまり、人がなかなか定住しない都市でした。その状況で顧客に後払いを認めたら、踏み倒されるリスクは極めて大きくなるでしょう。

 三井越後屋にしろ、伊勢屋にしろ、そういう江戸の異質性を感じ取っていた。だから、それに対応して、上方とは違う商法を編み出したわけです。この柔軟性こそ、商才というものかもしれません。

江戸の暮らしは案外豊かだった

 一般に江戸の庶民の暮らしというと、非常に貧しいイメージがあるかもしれません。しかし、実はそうでもなかった。生活に欠かせない水が行き届き、全国から集まる商人やモノによって経済が回り、持続的に成長していました。本書を通じて、そんな江戸の様子をリアルに、また身近に感じられるのではないでしょうか。

取材・文/島田栄昭 構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集部) 写真/木村輝