ライフネット生命保険創業者で、立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授の出口治明氏は、大の本好き、歴史好きとして知られ、歴史に関する著作も多い。好評を博した『一気読み世界史』に続き、このたび『一気読み日本史』を刊行する。出口氏による日本史講義を、書籍から抜粋して、お届けする。今回は、終戦直後の日本を、キーパーソンの吉田茂を軸に見ていこう。
無条件降伏した日本に、1945年8月30日、連合国軍最高司令官のマッカーサーが着任しました。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領統治が、1952年まで続きます。
1945年9月11日、東條英機など39 人の戦犯の逮捕が命じられます。アメリカ軍の突然の訪問を受けた東條は、拳銃で自分の心臓を撃ちました。しかし、生き残り、極東国際軍事裁判(東京裁判)を受けて、絞首刑となります。近衛文麿は、逮捕直前に服毒自殺しました。
GHQ統治下の日本を理解するキーパーソンは、吉田茂です。
ポツダム宣言の受諾直後に成立した東久邇宮稔彦内閣で、吉田は外相に起用されました。前任の重光葵が、占領の現実を直視していないとGHQに見限られ、代わりに吉田が選ばれたともいわれています。吉田は、もともと駐英大使や外務次官を務めた外交官で、戦時中は和平工作を進め、憲兵に逮捕されたこともあります。そんな経歴が、アメリカとの交渉役に適任と見られたのでしょう。しかも、宮内大臣などを歴任した牧野伸顕の娘婿で、昭和天皇とのパイプを持っていました。
当時の日本の大問題は、昭和天皇が戦犯になるかどうかでした。

吉田茂がマッカーサーの信頼を得た理由
9月27日、昭和天皇が、東京・虎ノ門のアメリカ大使館にマッカーサーを訪ねます。この会談でマッカーサーは天皇に好感を抱き、天皇の戦争責任を問わないという方針が決定的になりました。この会談のお膳立てをしたのは吉田で、吉田はマッカーサーからも信頼を得ます。東久邇宮内閣に続く、幣原喜重郎内閣でも外相を務めた吉田は、1946年5月、首相に就任します。このときは1 年で退陣しましたが、1948年10月にまた首相となります。
マッカーサーの最大の目標は、当初、「日本を二度と戦争できないようにする」ことでした。そのためには、武装解除や戦犯の逮捕などで、軍事力を奪うのはもちろん、日本を民主的な国家にする必要があると考えました。
1945年10月、女性参政権や財閥の解体などを求める五大改革指令が出ます。この改革路線の集大成が、1946年11月に公布された日本国憲法です。天皇は、日本国の象徴になり、戦争の放棄と戦力の不保持が定められました。憲法に続いて、新しい民法、刑法や労働基準法なども公布され、1947年には、日本の民主化は、ほぼ完成します。
「5人のポリス」が仲たがいして日本の命運が変わる
アメリカが第二次世界大戦に参戦したとき、大統領のフランクリン・ルーズベルトが、戦後世界のビジョンを描いていました。ルーズベルトのビジョンの核になるのが、国際連合です。国際連合には5つの常任理事国があり、アメリカと連合王国、フランス、中国、ソ連です。いわば「5人のポリス(警察)」で、この5カ国で、世界を仕切ります。
ところが、ルーズベルトが戦時下の1945年4月に死去した後、アメリカとソ連という2 人のポリスの仲が悪くなります。1946年3月、連合王国のチャーチルが「鉄のカーテン」の演説をして、1948 年6 月には、ベルリン封鎖で、ドイツのベルリンが東西に分断されました。冷戦の激化で、敗戦国である日本の命運が変わっていきます。
冷戦のなか、中国では、蔣介石の国民政府と毛沢東の共産党が、また喧嘩を始めました。アメリカの支援を受けて、物資豊富な蔣介石が勝つかと思いきや、毛沢東が規律正しくしつけた共産党が優勢に立ちます。そして、蔣介石を台湾に追い払い、1949年10月、中華人民共和国が成立します。
アメリカは目算が狂ってしまいました。本当は「蔣介石の中国」と組んで、ソ連を封じこめるつもりだったのです。それなのに、「毛沢東の中国」になってしまって、しかも、毛沢東は、ソ連のスターリンと組みます。
ここから、日本の幸運が始まりました。
GHQの最初の大目標は、「日本を二度と戦争できないようにする」ことでしたね。だから、日本の産業を発展させるつもりはありませんでした。
しかし、中国を、東側の共産主義陣営に奪われたら、仮想敵国のソ連の近くで、味方につけられる近代的な国は、日本しかありません。アメリカは、日本経済を育てる方向に舵を切ります。
そんなところに、朝鮮戦争が始まります。1950年6月のことです。アメリカが復興支援に転じたタイミングで、近くの国で戦争が起こり、特需が発生しました。経済復興に弾みがつきます。
なぜ、日米安全保障条約に一人だけサインしたのか?
朝鮮戦争の方針をめぐる対立などから、マッカーサーは1951年4月、アメリカ大統領のトルーマンによって解任されます。そして、この年の9月、日本はサンフランシスコ講和会議で、アメリカや連合王国、フランスなど48カ国と平和条約を結びました。日本はGHQの統治から脱し、主権を回復します。
このサンフランシスコ講和条約は、「単独講和」でした。共産圏のソ連や中国などとは、平和条約を結んでいません。平和条約を結べなかった国々とは、その後、個別に講和していきます。
日本国内には、すべての国と平和条約を結ぶ「全面講和」を主張する声もあって、世論は二分されていました。
しかし、ときの首相の吉田茂は、単独講和に踏み切りました。
吉田は、日本の経済発展を重視していました。それには、とにかく早く独立することが大事で、全部の国と一度に講和しようとしたら、時間がかかりすぎると考えたのです。
このとき、同時に、日米安全保障条約が締結されました。日本はアメリカと軍事的な同盟関係を結びます。サンフランシスコ講和条約で結ばれた平和条約には、日本全権団のメンバー全員がサインしましたが、日米安全保障条約にサインしたのは吉田一人です。これには、さまざまな見方があって、吉田がワンマンで、一人だけで安保条約を発効させた、という見方もあれば、一人で責任を負う覚悟だったという見方もあります。両方の気持ちがあったと、僕は思いますが、後者のほうが強かった気がします。
明治維新のとき、阿部正弘が描いたグランドデザインは、「開国・富国・強兵」の3本柱でした。吉田は平和条約を結ぶにあたって、この3枚のカードを机の上に置いて考えたのでしょう。そして、1 日も早い「開国」によって、「富国」に向かうことを優先した。残る「強兵」は、日米安保条約で代替することにして、その責任は自分が負った。そんな決断だったと思います。
神武景気が始まり、吉田茂の人気は落ちる
サンフランシスコ講和会議から帰国した吉田茂は、国民から喝采を浴び、内閣支持率は6 割に迫りました。しかし、その後はワンマンぶりが嫌われて、人気を落としていき、1954年12月に退陣します。吉田内閣の下で独立を果たした日本は、このころ、神武景気と呼ばれる、好景気の時代に入りつつありました。
その翌年の1955年11月、保守勢力が合同し、国会の議席の約2/3 を持つ自由民主党(自民党)が成立しました。初代総裁は、吉田に代わって首相になった、鳩山一郎です。日本の政治は、この後、自民党の一党優位の体制、いわゆる「55年体制」が、1993年まで40年近く続くことになります。
[日経ビジネス電子版 2025年12月18日付の記事を転載]
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