ライフネット生命保険創業者で、立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授の出口治明氏は、大の本好き、歴史好きとして知られ、歴史に関する著作も多い。好評を博した『一気読み世界史』に続き、このたび『一気読み日本史』を刊行した。出口氏による日本史講義を、書籍から抜粋して、お届けする。今回は、豊臣秀吉と織田信長、徳川家康の比較。
よく比較される、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人のうち、最近の巷での人気は「信長→家康→秀吉」の順ではないでしょうか。
一番、不人気な秀吉ですが、優秀であったことは間違いなく、特に太閤検地は画期的でした。家康はというと、信長と秀吉がつくったものをほとんどそのまま受け継いでいて、一番、平凡な人だと思います。
そうはいっても、秀吉には、やはり信長の後継者という側面が強く、ローマ帝国でカエサルが描いたグランドデザインを、アウグストゥスが実行に移したような関係だと思います。ただ、秀吉にはアウグストゥスほどの時間はなく、秀吉の死後、豊臣政権は瓦解しました。
織田信長や豊臣秀吉の逸話には、茶会や茶器の話が多く出てきます。お茶が日本に伝わったのは平安初期とされますが、当初は薬として飲まれていました。室町時代には、お茶を飲んで産地や銘柄を当てる闘茶がバサラ大名の間で流行っていました。お茶を楽しむ社交の席は、次第に洗練されていき、茶の湯・茶道に進化しました。「侘び寂び」といった概念が、和歌の世界から持ちこまれ、茶器に「名物」と呼ばれる名品が生まれます。
信長は、茶会を、部下たちの統制に利用しました。茶会で、茶室に集まる人たちは皆、平等というのが、茶の湯・茶道の建前です。しかし、そんな場に、目下の部下が招かれること自体が、特別扱いです。信長は、無許可で茶会というティーパーティーを開催することを禁じました。そして、目をかけている部下や、功績のあった部下に、茶会を主催することを許したり、高価な茶器を与えたりすることで、ほかの部下と差別化しました。信長のこのやり方は、秀吉に引き継がれます。
信長は、意外に部下を殺していない
この時代の茶器は、権力や権威を示す威信財でした。とはいえ、古代に漢からもらった銅鏡などと違って、一目で「すごい」とは、わかりにくい。なにしろ、侘び寂びですから。そこで、違いがわかるキュレーターが登場します。例えば、千利休です。
しかし、利休の役割は、茶器の目利きにとどまりませんでした。何しろ要人が集まる茶室で、茶をたてるのはいつも利休なのです。織田信長や豊臣秀吉など、当時のビッグネームがこっそりとする話を、すべて横で聞いているわけです。利休とは、今ならば大企業の役員秘書のような存在だと考えたら、わかりやすいと思います。
そんな利休が1591年、秀吉から切腹を命じられます。自らの立場を利用して不正を働いたなどとやり玉に挙げられましたが、秀吉はどこでどう怒り出すのかが、よくわからない人です。本当の理由ははっきりしません。
残酷なイメージのある織田信長ですが、部下を処刑したことは、実は少なく、秀吉が、千利休を切腹させたり、甥の豊臣秀次の一族を根絶やしにしたりしたのとは、対照的です。

朝鮮出兵はあながち無謀ではなかった
豊臣政権が瓦解した大きな理由の一つが、朝鮮出兵です。
豊臣秀吉の朝鮮出兵は、無謀だったとよくいわれます。確かに秀吉は、日本の外の世界をあまり知らない人でした。
しかし、シンプルに国力だけで考えたらどうでしょうか。当時の日本の米の生産力は2000 万石で、1万石で兵士250人くらいを動員できたと考えられています。この数字で計算すると、日本は50万人くらいの兵士を動員できたことになります。
当時の世界で50万人規模の軍隊を動員できるのは、中国と日本ぐらいでした。1644 年に明を倒した、清の軍隊は30万人くらいでした。また、頭数の問題だけでなく、当時の日本は戦国時代で、兵士たちは戦闘に慣れていましたし、なんといっても銀の生産量が世界の1/3を占めるほどの富裕国でした。相対的に見て、日本の軍事力が歴史上のピークに達したのはこの時代で、あながち秀吉が無謀だったとはいえないと思います。
そうはいっても、秀吉は世界が見えていない人で、朝鮮出兵はうまくいきませんでした。1598年8月、秀吉が死去すると、残された部下たちは、全軍を朝鮮から撤退させます。豊臣政権は、自らに忠実な大名たちを朝鮮出兵に総動員しましたが、領土は一片も得られませんでした。部下に恩賞を与えるどころか、疲弊させてしまったのです。これは致命傷でした。
[日経ビジネス電子版 2025年12月19日付の記事を転載]
出口治明著/日経BP/2200円(税込み)
