ライフネット生命保険創業者で、立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授の出口治明氏は、大の本好き、歴史好きとして知られ、歴史に関する著作も多い。好評を博した『一気読み世界史』に続き、このたび『一気読み日本史』を刊行する。出口氏による日本史講義を、書籍から抜粋して、お届けする。今回は、「リタイアした天皇」である上皇が、政治の実権を握った院政時代。当時の複雑な男女関係と荘園の成立について。
白河天皇が退位してからが、一般に、院政の時代とされています。
白河天皇は、自分の子を堀河天皇として即位させ、白河上皇となりました。このときは、異母弟でなく、実子に後を継がせたいという親心でした。自分の腹心だった藤原師実を、堀河天皇の摂政につけ、堀河天皇も優秀でしたから、退位した白河院が、政治の実権を握ることはありませんでした。
しかし、堀河天皇が若くして亡くなり、その子どもが5 歳で鳥羽天皇として即位すると、本格的な白河院政の幕が開きます。
なお、上皇や、出家した上皇である法皇には「院」という尊称を使い、「白河院」などと呼びます。
摂関政治から院政に移行すると、政治は安定します。摂関政治を担った藤原氏の権力は、天皇の妻となった娘に息子が生まれるかどうかという偶然にかかっていて不安定でした。それに対し、上皇や法皇は天皇の実の親ですから、偶然に左右されません。また、天皇でも、律令には拘束されますが、上皇や法皇は律令を超えた、超法規的な存在でした。
白河院が1129年に亡くなると、院政の2代目として、早逝した堀河天皇の子の鳥羽院が出てきます。
鳥羽院には、天皇になった子が3人います。即位の順に、崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇です。
崇徳天皇のお母さんは、待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)です。璋子は白河の養女で、鳥羽と結婚して、崇徳を産んだのですが、驚くべき噂がありました。

白河と璋子は男女の仲で、崇徳は、鳥羽と璋子の子ではなく、白河と璋子の子だというのです。真偽のほどは不明ですが、醜聞にはなっていました。
鳥羽にしてみれば、自分の妻が祖父と通じて、子を産んだという話です。怖い白河が生きている間は、鳥羽も璋子を大事にするしかありませんでしたが、白河が亡くなれば、事情は変わります。鳥羽は、美福門院得子(びふくもんいんとくし)を寵愛します。自分で見つけた得子のほうがかわいいわけです。
鳥羽は、璋子の子どもの崇徳天皇を下ろして、得子の子どもを近衛天皇として立てます。ところが、近衛天皇は早くに亡くなってしまいました。

ワンポイント・リリーフが、長生きしてしまう
近衛天皇の次に即位したのは、崇徳天皇の弟の後白河天皇(雅仁親王)でした。なんと、璋子の子どもです。どうして、得子が許したのでしょう。当初、3人の候補がいました。
- 崇徳天皇(璋子の子)の子どもの重仁親王
- 崇徳天皇の弟の雅仁親王(璋子の子)の子どもの守仁親王
- 近衛天皇の姉の暲子(得子の子)
最後に選ばれた雅仁親王(後白河天皇)は、当初、蚊帳の外でした。変わり者だったからです。
けれど、得子は、守仁親王を天皇にしたかったのです。自分が養育していて、かわいがっていたからです。それに、もしも重仁親王が天皇になってしまったら、その父の崇徳が権力を握りかねません。とはいえ、守仁親王を天皇にするには、お父さんが天皇になっていないと具合が悪い。そこで、変わり者の後白河天皇を、ワンポイント・リリーフで立てたのです。
だから、後白河天皇の在位はすごく短くて、1155年に即位して、1158年には退位します。得子は念願かなって、かわいがっていた守仁親王を二条天皇にします。ところが、後白河院は長生きし、院政を長く敷くのです。
白河、鳥羽、後白河の3代の院政には、璋子と得子という2人の女性と、白河、鳥羽という祖父と孫との、複雑な人間関係がありました。これが、保元の乱、平治の乱につながるのですが、それはまた別の機会に。
この時代の経済を、見てみましょう。
中世とは、一言でいえば、権門体制の時代です。
権門とは力があり、特権がある家門のことです。次の3つの権門が、当時の日本を取り仕切っていたと考えられています。
- 公家権門:藤原氏のような有力貴族が、政治を担います。
- 寺家権門:延暦寺のような大きな寺院が、お祈りをします。
- 武家権門:新興勢力の武士たちが、治安を担います。
これら権門の経済基盤であり、鍵となるのが、荘園です。
荘園とは、国家権力の過酷な取り立てに対抗するため、地方の富豪層が、皇族や有力貴族に土地を寄進する、というものでした。確かに、「この土地は、藤原道長さんのもんやで」と言われれば、徴税する側も、そうそう手を出せなかったでしょう。道長にはたくさんの土地が寄進されたという記録もあります。
ただ、実際のところ、荘園は、下からの寄進というより、上からの働きかけで成立することが多かったようです。また、摂関政治の時代には、さほど荘園は生まれず、本格的に荘園が生まれるのは院政期だったことが、最近では明らかになってきています。
寵愛する女性にねだられて荘園ができる
例えば、白河院が、「ここは、わしの荘園やで」と、院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)を出し、一定の地域を囲ってしまう。これを立荘(りっしょう)といいます。
囲った土地には、持ち主が定かでない荘園や、山林、野原のほか、公有の土地である名田(みょうでん)も含まれていますが、全部、一緒くたにして、白河院の土地にしてしまうのです。
それだけではありません。白河院ならば、璋子にねだられたり、鳥羽院ならば、やはり寵愛する得子を喜ばせたかったりして、荘園をつくり、与えました。こうして、女院領もできます。
白河院や鳥羽院だけではありません。誰のものかわからないとか、誰の所有なのかで争っている土地があれば、力を持つ藤原氏や大寺院などがやってきて、「わしのもんや」と、宣言してしまう。そうやって荘園がつくられていきました。
[日経ビジネス電子版 2025年12月17日付の記事を転載]
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