ライフネット生命保険創業者で、立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授の出口治明氏は、大の本好き、歴史好きとして知られ、歴史に関する著作も多い。好評を博した『一気読み世界史』に続き、このたび『一気読み日本史』を刊行した。出口氏による日本史講義を、書籍から抜粋して、お届けする。今回は、できたばかりの明治政府の取り組みについて。キーマンである、大久保利通と西郷隆盛の本質的な違いとは?
明治政府で、大村益次郎が、農民を徴兵するというアイデアを出します。「列強はみんな、国民皆兵やで。うちもそうしよう」と。大村は、もともと長州藩の奇兵隊を率いていて、奇兵隊は、武士と庶民との混成部隊でした。だから、国民皆兵の力を、よく理解できたのでしょう。やはり長州で奇兵隊を率いていた山縣有朋が、「そうや、そうや」と賛同し、1873 年、徴兵令が公布されます。士族は反発しました。国民全員が兵士になったら、士族は威張れなくなってしまいます。武士のプライドが傷つきました。
岩倉使節団という壮挙
廃藩置県のクーデタは、1871年の夏でした。この年の冬、岩倉使節団が、日本を出発しました。近代日本のとてつもない壮挙です。新政府はできたばかり。その主要メンバーの約半数が2年近くも国を留守にして、海外を見て回ったのです。
全権大使は岩倉具視、副使が大久保利通、木戸孝允、伊藤博文など。西郷隆盛は、留守番でした。メンバーは合計107 人。津田梅子など5 人の女子学生を含む、留学生43 人もいました。最年長の岩倉が46歳、平均年齢は32歳くらいです。このとき、留学生として米国に渡った金子堅太郎は、ハーバード大学で、セオドア・ルーズベルトという無二の親友を得ます。
明治政府は、産業の遅れを取り戻そうと頑張ります。
富岡製糸場は超ホワイト職場だった
1872年、新橋と横浜の間に鉄道を開通させました。徒歩で1日かかっていたのが、鉄道なら小1 時間です。一方で、大量の物資を運ぶとなると、鉄道より船に軍配が上がります。明治政府から、定期航路の開設などを任されたのが、土佐藩出身の岩崎弥太郎です。政商・三菱財閥の始まりでした。
1872年には、富岡製糸場も創業します。政府がフランスから指導者を招いて建設した官営工場です。「製糸工場をつくるなら、こうするとええで」と、政府が民間にお手本を見せました。製糸工場というと女工の悲惨さがよく語られますが、モデル工場の富岡製糸場の労働条件は抜群でした。超ホワイト職場です。
西郷隆盛が「鬼の居ぬ間に洗濯」
岩倉使節団に入った政府首脳が2年近くも国を離れている間も、日本に残った留守政府のメンバーたちが、急ピッチで改革を進めました。鉄道開通のほか、教育制度の整備や新しい貨幣単位の導入、新暦の採用など。その多くは、使節団の出発前に決まっていた既定路線の実行でした。
しかし、「鬼の居ぬ間に洗濯」とばかり、厄介な政策を独断で通そうとする動きもありました。なかでも最大の「洗濯」となったのが、征韓論でした。朝鮮に出兵しようという計画です。

征韓論が持ち上がった背景には、朝鮮との関係悪化だけでなく、徴兵令の公布という、国内の問題も大きく作用していました。徴兵令による国民皆兵は、士族のプライドを傷つけましたね。海外に出兵するとなれば、士族にとっては大きな功績を上げる好機で、報酬も期待できます。
朝鮮派遣が内定した西郷隆盛は、こんなことを語っていたそうです。「俺が国書を持っていけば、朝鮮は憎いやつが来たでと殺すはずや。そうなれば、日本国民が一致団結して、朝鮮と戦うチャンスやで」と。西郷は、夢見がちな人でした。
1873年9月に帰国した岩倉使節団のメンバーは仰天しました。鬼の居ぬ間に、留守政府が、征韓論で盛り上がっているとは、思ってもいませんでした。しかし、ここで岩倉具視がフィクサーぶりを見せます。
岩倉は、若い明治天皇を巧みに味方につけ、征韓論をひっくり返してしまいました。征韓論がひっくり返されて、西郷隆盛や板垣退助、江藤新平などが辞職し、下野します。政府のメンバーの半分が消えてしまいました。大久保利通は落ち着いたもので、「補充したらええ」と、若手の伊藤博文などを代わりに引き上げていきます。肝の据わった人でした。
1873年11月、大久保は、太政官制度のなかに内務省をつくり、自ら内務卿に就任します。参議と兼任しました。のちにGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって解体される内務省は、今の総務省、国土交通省、厚生労働省に、警察庁を足したような省庁で、広範で強大な権限を持ちます。大久保は、トップダウンで、一気に近代化を進めようとしたのです。
半藤一利のたとえを借りれば、西郷は、いわば毛沢東で、革命の夢を追った詩人でした。それに対して、大久保は、現実的な改革開放路線をとった鄧小平と位置づけられます。明治維新では、毛沢東たる西郷が、早く政権を去ったので、改革がスムーズに進んだと、半藤は見ています。
武官としても優秀だった大久保利通
佐賀に帰った元参議の江藤新平は、1874年の佐賀の乱を率いました。徴兵令で不満を溜めこんだ士族たちが、いよいよ怒りを爆発させます。大久保利通は、自ら九州に向かい、半月で反乱軍を壊滅させました。大久保は武官としても優秀でした。
1876年、明治政府は廃刀令を出し、秩禄処分を行います。廃刀令は、太刀を持ち歩く武士の特権を廃止するもので、秩禄処分は、仕事のない華族や士族に支給していた家禄を打ち切るものです。家禄を打ち切った代わりに、公債証書が渡されましたが、士族の生活は苦しくなり、ますます不満が募ります。
1876年には、熊本の士族による神風連の乱、福岡の士族による秋月の乱、元長州藩の士族による萩の乱が、立て続けに起こります。いずれも、すぐ鎮圧され、首謀者は処刑されました。そして最後に西南戦争が起きます。
西郷王国を倒した指揮官たちの貴重な経験
征韓論で下野した西郷隆盛は、薩摩に帰って、学校をつくりました。この学校には、当時の鹿児島県の県令がお金を入れていて、公的な色彩を帯びていました。やがて学校関係者が、鹿児島県の行政機構を掌握していき、鹿児島は、西郷王国のような様相を呈します。
西郷王国と明治政府はぶつかり、1877年、西南戦争が起きます。西郷軍は、約3万人に膨れ上がりました。これに対して、明治政府は、近代化した船などをフル活用して、兵隊や弾薬を九州にどんどん送ります。西郷軍の戦費が70万円ほどだったのに対し、政府軍は4000 万円以上でした。これでは勝ち目はありません。西郷は最後、側近に自分の首を斬らせて、亡くなります。
そうはいっても、戦死者の数は、西郷軍も政府軍も7000人ほどと拮抗していました。武士が強かったのも、確かです。一方で、政府軍には農民も多くいました。国民皆兵の部隊を率いて実戦経験を積んだ指揮官たちが、のちに日清戦争や日露戦争の司令官へと育っていきます。
[日経ビジネス電子版 2025年12月24日付の記事を転載]

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