2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)」の主人公は、山東京伝、曲亭(滝沢)馬琴、喜多川歌麿や葛飾北斎、東洲斎写楽などを世に送り出した蔦屋重三郎(蔦重)。今もその名にちなんだ書店があるように、一代で「江戸のメディア王」の地位を築き上げました。蔦重が活躍した背景には、田沼意次(おきつぐ)の存在がありました。蔦屋重三郎と田沼意次について、『田沼意次 汚名を着せられた改革者』(日経ビジネス人文庫)、『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(PHP新書)著者で歴史家の安藤優一郎さんに聞きました。

蔦屋重三郎や田沼意次について研究を続けてきた安藤優一郎氏
蔦屋重三郎や田沼意次について研究を続けてきた安藤優一郎氏
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世襲が当たり前の江戸時代に蔦屋重三郎が一代で「江戸のメディア王」的な存在になったのはなぜでしょう?

 蔦屋重三郎(蔦重)は7歳の頃に両親が離別、吉原で茶屋を営んでいた蔦屋の養子となります。23歳の時に吉原の入り口近くに書店・書肆耕書堂(しょしこうしょどう)を開業。翌年『吉原細見』(よしわらさいけん)の販売を開始します。『吉原細見』は遊女屋、源氏名、太夫(たゆう)、格子(こうし)、散茶(さんちゃ)などの位付けや揚げ代、オリジナルのイベント日や名物などが満載のガイドブックでした。現在の風俗情報誌のようなものですね。

 当時は本が高く、購買層が限られていたことから多くの書店は貸本業も展開していました。蔦重にとって吉原は地元ではありましたが、貸本屋として遊郭や茶屋に出入りすることで、さらに吉原の情報通となり、ネットワークを広げました。翌年から書店に加え、出版業も開始します。

 最初に出版したのは遊女評判記『一目千本』でした。これは吉原の有名な遊女たちを挿し花にたとえて紹介したもので、遊女屋、高級遊女などから上級の顧客への贈答用に注文を受けて制作されました。制作費はクライアント持ちの現在でいうカスタム出版で、蔦屋は売れ残りのリスクを回避できます。
 『一目千本』を置いている店は上級の店に限られていましたから、置いていることは店にとっても一流の証しであり、持っていることは、一流店の特別な客であることを示していました。『一目千本』そのものがブランド品となり、それを手掛ける蔦屋の声望も高めました。

 さらに『吉原細見』の出版を開始します。当時は大衆向けの本を数多く出版していた地本問屋の鱗形屋(うろこがたや)版『吉原細見』が人気で、蔦重は鱗形屋版の販売と最新情報を追加する「改め役」を任されました。吉原事情に詳しかったことが評価されたのでしょう。しかし、鱗形屋は他の版元と同じ内容のものを出版する「重板事件」を起こし、幕府から処分を受け、『吉原細見』が刊行できなくなりました。

 そこで蔦重は1775(安永4)年蔦屋重三郎版の『吉原細見』を出版します。やや大型にして内部を上下に分けた分かりやすいレイアウトと、紙の枚数を減らしたことによって紙代を節約、低価格化を実現したことで市場を席巻。数年後に蔦屋重三郎版の独占状態となりました。出版ビジネスに参入当初の蔦重は、自分の強みを生かし、リスクが少ない吉原関連本で着実に利益を上げ、経営の土台を築いたのです。

蔦屋重三郎版『吉原細見五葉松』(江戸東京博物館所蔵)。上下に分けた地図感覚で使えるレイアウトが好評だったという。出典:国書データベース,https://doi.org/10.20730/100450863
蔦屋重三郎版『吉原細見五葉松』(江戸東京博物館所蔵)。上下に分けた地図感覚で使えるレイアウトが好評だったという。出典:国書データベース,https://doi.org/10.20730/100450863
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現在も「出版は水モノ」といわれていますが手堅い経営ですね

 吉原関係以外にも経営の柱を作っています。1つが当時流行していた人形浄瑠璃の富本節(とみもとぶし)の正本(音曲の詞章を記した本)や稽古本(練習用に節付けがされた本)の出版権を取得しています。また、寺子屋などで庶民の教育に使われた教科書である往来物(おうらいもの)も数多く出版しています。

 仮名、漢字から地名、農業や商業の入門まで、往来物は数多くの需要があり、薄利多売ですが、長期間刷りを重ねることができる安定した商品でした。吉原関係、富本節、往来物を3本柱にビジネスを拡大したのでした。

吉原から日本橋へ進出

 当時の版元には、仏教や儒学、歴史や医書、古典書など内容の硬い本を扱う書物問屋(しょもつどいや、どんや)と娯楽用の絵入り本を数多く出版する地本問屋(じほんどいや、どんや)がありました。蔦重は1783(天明3)年、34歳で日本橋通油町(とおりあぶらちょう)の地本問屋・丸屋小兵衛の店舗と蔵、丸屋が持っていた地本問屋株を買い取り、新たな拠点としました。当時の日本橋は江戸の経済を動かす豪商たちが数多く住むだけではなく、文化や情報の中心地でもありました。

事業の幅も広がりますね

 吉原関係本、富本節、往来物で手堅く事業を拡大してきた蔦重は、日本橋進出と前後して「攻めの経営」に転じます。この時期、蔦重が出版を開始したのが「黄表紙(きびょうし)本」です。黄表紙は草双紙(くさぞうし)と呼ばれる庶民向けの絵入り読み物の一種で、流行や世相をしゃれや風刺、ナンセンスな笑いを取り込んだ文章と絵を織り交ぜた大人向けの娯楽小説です。

 当時、黄表紙界をリードしたのは、『金々先生栄花夢』(きんきんせんせいえいがのゆめ)が大ヒットした戯作者の恋川春町(こいかわはるまち)と朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)でした。春町は筆名で、本名は倉橋格(いたる)という松平一門の駿河小島藩の年寄本役(家老に相当)。喜三二もその素顔は秋田久保田藩の江戸留守居役の平沢常富(つねとみ)。いずれもれっきとした上級武士でした。

 喜三二が務めていた江戸留守居役は藩の外交官として、幕府や他藩との折衝や情報収集を担当するのが役目。喜三二は自ら仕事柄吉原に出入りすることが多かったため、蔦重とのつながりも吉原時代からあり、蔦屋版『吉原細見』の序文も書いていました。蔦重は喜三二に続き、春町も専属作家的な存在として抱え、黄表紙市場をリードする存在となりました。

山東京伝の人生に大きな影響を与えたのも蔦重でした。

 黄表紙本を代表する人気作家を抱えた蔦重が目を付けたのが、新進気鋭の山東京伝(さんとうきょうでん)です。当初は画才を評価し、絵師・北尾政演として、挿絵を依頼していましたが、その文才を伸ばそうと、黄表紙を書かせるようになります。それが功を奏し、蔦重が出版した『江戸生艶気樺焼』(えどうまれうわきのかばやき)は黄表紙本史上有数のヒットといわれています。

蔦屋重三郎が出版した山東京伝『江戸生艶氣樺燒』。絵も京伝本人が北尾政演として描いた(東京都立中央図書館)
蔦屋重三郎が出版した山東京伝『江戸生艶氣樺燒』。絵も京伝本人が北尾政演として描いた(東京都立中央図書館)
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 さらに京伝の才能と適性を見抜き、「洒落本」の執筆を依頼します。洒落本とは、なかなか表には出てこない遊郭など遊里で交わされる会話や習俗などを巧みに取り入れた小説。黄表紙本は挿絵が重視されましたが、洒落本は文章が中心。遊郭での情景や振る舞いを描きつつ、手引書としても使える文章力が重要でした。その代表作が『通言総籬』(つうげんそうまがき)。吉原を中心とする社交界の最新の事情や、大店・松葉屋の内部を描いたものです。京伝は若い頃から吉原に出入りしていた経験と才能をフルに生かし、洒落本の第一人者としての地位を確立しました。これは蔦重のプロデュースあってのものといえるでしょう。

かけそば3杯分の価格で1万部売れたヒット本

当時の出版界のヒット作品はどのくらい売れたのですか?

 後に蔦屋で番頭として働いた曲亭馬琴によると、蔦屋重三郎や鶴屋から出版される黄表紙など草双紙は、春町のような売れっ子の場合、1万部ほど売れたといいます。なかには1万2000~3000部売れる作品もあったそうです。当時、黄表紙本の価格は五十文とか六十四文でした。かけそば一杯が十六文やそこらですから、その3~4倍になります。それで1万部売れるというのは、当時の人口や読者層を考えると相当な売り上げですね。

蔦重は自ら狂歌師としても活動していますね

 狂歌は五・七・五・七・七の和歌の形式を維持しながら、ユーモアや風刺の精神を取り入れたものです。今でいうサラリーマン川柳のような存在ですね。狂歌の歴史は古く鎌倉・室町時代から続いていますが、座興としてその場で読み捨てられるものだったため、歌集のようにまとまった形で後世に伝わるものはありませんでした。

 江戸時代半ばの太平の世になると、狂歌は大衆文芸となります。当初は上方で人気でしたが、経済が発展し、自由な空気のもとで田沼意次が幕政を主導した田沼時代になると江戸でも大ブームが起こります。蔦重は自ら狂歌師・蔦唐丸(つたのからまる)として活動します。

山東京伝作『箱入娘面屋人魚3巻』。蔦屋重三郎(蔦唐丸)が口上を述べている姿が描かれている。浦島太郎の娘が人面魚遊女になるという奇想天外なストーリー。出典:国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9892706
山東京伝作『箱入娘面屋人魚3巻』。蔦屋重三郎(蔦唐丸)が口上を述べている姿が描かれている。浦島太郎の娘が人面魚遊女になるという奇想天外なストーリー。出典:国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9892706
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 自ら狂歌を詠み、名だたる狂歌師たちと一緒に活動することによって、狂歌本の出版では有利な立場になります。また、人気狂歌師たちを集めた狂歌会を開催、そこで詠まれた狂歌をまとめ、そのまま出版するという版元発の「イベント連動狂歌本」を続々と発売。プロデューサーとしての才能をいかんなく発揮します。

 天明年間(1781~89年)後期になると、狂歌ブームはやや落ち着きますが、蔦重は狂歌本をアレンジ、新たなジャンルを生み出します。時代を代表する狂歌師たちの肖像画や風景画に、狂歌を添えた狂歌絵本です。

宿屋飯盛編の狂歌絵本『吾妻曲狂歌文庫』 (五十人一首狂歌文庫)。右の「手柄岡持」は朋誠堂喜三二の狂歌名(東京都立中央図書館)
宿屋飯盛編の狂歌絵本『吾妻曲狂歌文庫』 (五十人一首狂歌文庫)。右の「手柄岡持」は朋誠堂喜三二の狂歌名(東京都立中央図書館)
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 この狂歌絵本でその実力を発揮したのが、浮世絵師の喜多川歌麿でした。自身が蔦唐丸として詠んだ狂歌と歌麿が描いた江戸の名所を配した『絵本江戸爵 』(えほんえどすずめ)を皮切りに歌麿の絵が入った狂歌絵本が続々と出版されます。

 狂歌絵本を通じて、浮世絵師としての歌麿の名声は広く知られるようになります。そしてそれが蔦重のプロデュースによる美人画の出版につながるのでした。

(次回へ続く)

蔦屋重三郎と田沼意次が分かる安藤さんの2冊

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取材・文/市川史樹(日経BOOKプラス編集) 写真/鈴木愛子