デフレがキーワードであった数年前がウソのように物価上昇に苦しむ世界経済。要因はウクライナ紛争だけなのか。「経済学の書棚」第3回前編は、世界インフレの構造を明らかにした『世界インフレの謎』と、状況変化への対応として戦時経済の恒久化を唱える『世界インフレと戦争 恒久戦時経済への道』、日本人の賃金が過去20年以上ほとんど上がっていない理由を考察した『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』を紹介する。

「経済学の書棚」第3回は、物価上昇と賃金をテーマにした5冊
「経済学の書棚」第3回は、物価上昇と賃金をテーマにした5冊
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インフレの主因はパンデミック

 世界経済にインフレーションの波が押し寄せ、日本の物価も上昇している。欧米では物価の上昇とともに賃金も上昇しつつあるが、デフレ経済の下で賃金が長らく「凍結」状態にあった日本では、今春にどこまで賃金が上がるのか。

 渡辺努・東京大学教授は『 世界インフレの謎 』(講談社現代新書/2022年10月刊)で、世界インフレの「主犯」は2020年に世界を席巻した新型コロナウイルス(パンデミック)にあると説明する。各種のメディアでは、2022年2月にロシアがウクライナに侵攻した余波でエネルギー資源や食糧の供給が滞り、インフレを引き起こしたとの解説が目立つが、現在のインフレの主因は戦争ではないと断言する。

 22年にはパンデミックの影響は薄れたように見えるが、世界の企業や個人はその後遺症によって行動を変容させ、インフレをもたらしているとの仮説を示している。

『世界インフレの謎』(渡辺努著)。物価理論の第一人者が、世界インフレという難問と格闘しながら「本当の問題」に向き合った本
『世界インフレの謎』(渡辺努著)。物価理論の第一人者が、世界インフレという難問と格闘しながら「本当の問題」に向き合った本
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コロナ後遺症で企業や個人の行動が変容

 消費者の志向がサービス消費からモノ消費にシフトし、モノの生産が間に合わない。労働者はパンデミック収束後も職場に戻らず労働供給が減少している。グローバルな供給網が機能しづらくなり、企業の生産活動が停滞している。三者の行動変容は世界全体に供給不足をもたらし、世界経済は低インフレ下の需要不足というモードから供給不足というまったく逆のモードへと大きく反転したという。

 評論家の中野剛志著『 世界インフレと戦争 恒久戦時経済への道 』(幻冬舎新書/2022年12月刊)は、グローバリゼーションの時代は終わったとの認識に基づき、日本は「恒久戦時経済」に移行すべきだと説く書だ。2008年のリーマン・ショックを契機に世界経済は「デ・グローバリゼーション」(グローバル化の逆行)あるいは「スローバリゼーション」(グローバル化の鈍化)の段階に至り、2020年の新型コロナウイルスのパンデミックはすでに進んでいたスローバリゼーションに追い打ちをかけた。1990年代以降の第2次グローバリゼーションは米国のリベラル覇権戦略の産物であり、ウクライナ戦争はリベラル覇権戦略の破綻という氷山の一角にすぎない。

『世界インフレと戦争』(中野剛志著)。インフレの歴史と構造を俯瞰(ふかん)し、あるべき経済の姿を示した緊急出版
『世界インフレと戦争』(中野剛志著)。インフレの歴史と構造を俯瞰(ふかん)し、あるべき経済の姿を示した緊急出版
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インフレは一時的な現象ではない

 したがって、食料、原材料やエネルギーを容易に手に入れられるグローバリゼーションの時代は完全に過去のものとなり、現下のインフレは一時的な現象では終わらないと予測する。インフレは「需要過剰/供給過少」の状態で起きるが、現在は供給の減少による「コストプッシュ・インフレ」の性格が強いとみている点は渡辺氏と同じだ。コストプッシュ・インフレの下で中央銀行が金融引き締め政策を打ち出すと、経済が縮小均衡に陥ってしまう可能性が高いとの見方も一致している。

 そこで問題になるのが日本の賃金だ。コストプッシュ・インフレが起きてもインフレに見合う分だけ、あるいはそれ以上に賃金が上昇するなら、労働者は生活水準を維持できるはずだが、昨年までの実績を見る限りでは、現実は厳しいと言わざるを得ない。

 日本人の賃金が過去20年以上、ほとんど上がっていないのはなぜか。野口悠紀雄・一橋大学名誉教授は『 どうすれば日本人の賃金は上がるのか 』(日経プレミアシリーズ/2022年9月刊)で賃金や給与を考える場合には、付加価値=「稼ぐ力」が最も重要な指標だと解説する。

『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』(野口悠紀雄著)。独自のデータ分析によって長期的な賃金停滞の根本原因を明らかにし、日本経済の再活性化のために今こそ必要な施策を説いた本
『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』(野口悠紀雄著)。独自のデータ分析によって長期的な賃金停滞の根本原因を明らかにし、日本経済の再活性化のために今こそ必要な施策を説いた本
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 企業の売り上げから売上原価を引いた「粗利益」が「付加価値」であり、これが賃金の原資となる。付加価値を賃金や営業利益などにどのように分配するか(労働分配率と呼ぶ)は、労使交渉など様々な要因に影響されるが、労働分配率にあまり大きな違いはなく、ほぼ一定だ。労働者1人当たりの付加価値・粗利益(労働生産性と呼ぶ)が増えれば賃金は上がり、付加価値・粗利益が減れば賃金は下がる。

 野口氏は、日本人の賃金が上がらないのは労働生産性が低迷しているためであり、賃金を上げるには新しいビジネスモデルや新しい技術を開発して生産性を引き上げる必要があると説く。

写真/スタジオキャスパー

日経プレミアシリーズ
どうすれば日本人の賃金は上がるのか
賃金を高める道はただ1つ

「物価は上がるのに、賃金が上がらない」現状は、私たちの生活をじわじわと追いつめている。どうすれば、この状況から脱することができるのか? 独自のデータ分析によって長期的な賃金停滞の根本原因を明らかにし、日本経済の再活性化のために今本当に必要な施策は何かを考える。

野口悠紀雄著/日本経済新聞出版/990円(税込み)