デフレ解消の特効薬として期待されている賃上げだが、日本の賃金は凍りついて久しい。賃金解凍はなぜ進まないのか? 「経済学の書棚」第3回後編は、日本の労働市場が米国型になれば賃金が上がるという夢想を打ち砕く『給料はあなたの価値なのか 賃金と経済にまつわる神話を解く』と、日本企業の「分配」が適切だったかに焦点を当てる『「新しい資本主義」のアカウンティング 「利益」に囚われた成熟経済社会のアポリア』を紹介する。
前編 「
インフレに苦しむ世界経済を理解するための3冊
」
過度な賃上げ要求を控える日本の労働者
足元の物価上昇に日本企業はどう対応するのか。前編で紹介した野口悠紀雄・一橋大学名誉教授の著書『 どうすれば日本人の賃金は上がるのか 』(日経プレミアシリーズ/2022年9月刊)によると、年功序列の報酬体系や、解雇を回避する雇用慣行が定着している日本では、労働者が「過度な賃上げをすれば企業が立ち行かなくなる」という論理を受け入れやすい。輸入物価の高騰で消費者物価が上昇しても、賃金には反映せず、物価の影響を反映させた実質賃金は下がる可能性が高い。
野口氏の見解は、経済学の標準理論に基づいている。日本人の賃金を上げるためには、労働生産性を高めるとともに年功序列の給与体系や終身雇用を見直し、労働者が付加価値の高い産業に移動しやすい環境を整えよという主張に、多くの経済学者は賛同するだろう。
日本の現状に不満を抱く経済学者たちが意識しているのは米国だ。巨大IT(情報技術)企業を筆頭に急成長を遂げる企業が次々と現れる。労働者の生産性は高まり、賃金が大幅に増える。企業同士が激しく競争する環境の下で労働者は自由に企業間を移動し、さらに賃金が上がる――。日本の労働市場が米国型になれば労働者の賃金が上がるに違いないと夢見ている。
ジェイク・ローゼンフェルド・米ワシントン大学教授は『 給料はあなたの価値なのか 賃金と経済にまつわる神話を解く 』(川添節子訳/みすず書房/2022年2月刊)で米国の労働市場の実態に迫っている。同書によると、米国では個人の成果と職業の特性に応じて個々人の給与が決まっていると信じている人が多い。社会学が専門の著者はこうした見方に異議を唱え、組織内の力学に注目する。様々な理論研究や実証研究を参照しながら、「関係的不平等」という考え方を導き出し、米国の労働市場は労働者に公平な給与をもたらしてはいないと指摘する。
賃金は組織内の力学で決まる
米国では、平均的な労働者の賃金が停滞し、エリート層の稼ぎが桁外れになっている。同じ技能、同じ職種の労働者の間で給与の格差が拡大している。「結局のところ、組織内で給与の額を決定するのは雇用主なのだ」と著者は強調する。労働者の給与水準を決めるのは、組織にまつわる権力の力学、慣習、横並びの傾向(模倣)、組織内の公平感の4つの要素であり、職場における給与の決定過程を変えるべきだと唱える。
野口氏は前掲書で「労働分配率はほぼ一定」とみて論を展開しているが、この点も議論が分かれるところだ。
スズキトモ・早稲田大学教授は『 「新しい資本主義」のアカウンティング 「利益」に囚われた成熟経済社会のアポリア 』(中央経済社/2022年7月刊)で、日本企業の「分配」が適切だったかどうかを検証している。
同書では、財務省の法人企業統計を基に、1960年度から2020年度までの日本企業による「分配」のデータをグラフで表している。
伸び続けていた企業の売上高は1991年を境に横ばいとなり、「失われた30年」が始まった。従業員の給与は91年までは売り上げの増加に正比例していた。91年に売り上げの増加は止まったものの、その後4年間、給与は続伸した。「日本的経営の下、終身雇用と安定的な給与規程が運用された」ためだ。収益が頭打ちとなるなか、最大の費用ともいえる給与が増え、利益が低迷した。その後、調整が進み、徐々に給与は減少し、2000年代の中ごろには売り上げとの連関性の高さを回復している。
株主還元を重視し賃金を抑制
その一方、2000年ごろから当期純利益と株主還元が急伸している。政府は四半期開示制度の導入や配当原資規制の緩和などを推し進め、投資家・株主の自由や権利を保護・強化した。企業に積極的な投資を促す狙いがあったが、結果的には過去20年間、投資家は資金を提供する機能を果たさず、逆に資金の回収を急いだ。「成長の期待されない成熟経済市場において、投資家を保護・優遇する制度を強化すれば、短期利益最大化と投資回収行動が加速するのは経済合理性に適(かな)っており、当然の帰結である」と著者は言う。
投資家を優遇する政策の下で、売り上げが頭打ちとなっている日本企業は研究開発投資や給与を最小化しつつ、配当と剰余金の最大化に努めてきたと総括している。こうした事態を打開するため、スズキ氏は株主だけではなく事業の主たる関係者に対する付加価値の適正分配を促す「付加価値分配計算書」(DS:Distribution Statement)の導入を提唱している。
前編で紹介した評論家の中野剛志氏は著書『 世界インフレと戦争 恒久戦時経済への道 』(幻冬舎新書/2022年12月刊)で、日本政府が米国に倣ってグローバリゼーションを推進する過程で、企業が賃金上昇を抑制する仕組みが完成したとみている。
1990年代以降、ストック・オプションの普及促進、企業に自社株買いを促す規制緩和、米国流の社外取締役制度の導入、労働者派遣事業の原則自由化などを相次ぎ実施した。その結果、企業の利益処分の変化(株主重視)や非正規雇用の増大によって賃金が上がらなくなった。「過去20年以上にわたって、賃金上昇を抑制する効果のある政策を次から次へと実行し続けてきたことの当然の結果なのである」との主張はスズキ氏の検証とも重なり合っている。
米国型の企業経営や労働市場は、日本にとって本当に理想なのだろうか。米国型は現実には様々な問題を抱えているにしても、やはり日本よりは優れているのか、それとも反面教師にした方がよいのか、様々な議論がある。いずれにせよ日本の労働市場改革は一朝一夕には進まないし、日本政府が株主重視の政策を大転換する気配はない。
労働市場の構造改革や、株主重視の政策転換が進むかどうかにかかわらず、日本は足元の物価上昇への対応を迫られている。
価格と賃金を据え置く慣行を改めよ
前編で紹介した渡辺努・東京大学教授は著書『 世界インフレの謎 』(講談社現代新書/2022年10月刊)で、労働生産性を高めるための構造改革を地道に実行するのが王道だとしながらも、まずは物価と関連している名目賃金の引き上げが必要だと訴える。その上で、凍結した賃金を解凍するための条件として、(1)人々が物価上昇の予想を共有し、生活を守るための賃上げ要求は正当だという理解が社会に広まる、(2)企業が人件費の伸びを価格に転嫁できると考える、(3)日本でも労働需給がひっ迫する、の3点を挙げる。
渡辺氏は、日本企業が価格も賃金も据え置く慣行を改め、賃金と物価が手を取りあって動かない「日本版賃金・物価スパイラル」や「慢性デフレ」から脱却できるかどうかが、今後の日本にとって大きな分かれ道だとの見解を示し、同書を結んでいる。
写真/スタジオキャスパー
「物価は上がるのに、賃金が上がらない」現状は、私たちの生活をじわじわと追いつめている。どうすれば、この状況から脱することができるのか? 独自のデータ分析によって長期的な賃金停滞の根本原因を明らかにし、日本経済の再活性化のために今本当に必要な施策は何かを考える。
野口悠紀雄著/日本経済新聞出版/990円(税込み)