変動する現実をタイムリーに解説する、豊かなデータに基づいてメカニズムを解明する、大胆な仮説で人々の目を覚ます――。様々なスタイルの経済書の刊行が続く中で、どの本が信頼に足りうるのだろうか。日本経済新聞で長年、経済学の最先端を見つめてきた筆者が、経済書の本棚を探検する新連載の第1回前編。経済学の歴史をひもとくと必ず登場する女性経済学者、ジョーン・ロビンソンを取り上げる。
何度もノーベル経済学賞の受賞候補に
ジョーン・ロビンソンは、経済学の歴史をひもとくと必ず登場するといってよい英国出身の女性経済学者である。ロビンソンは何度となくノーベル経済学賞の受賞候補に名前が挙がり、女性初の受賞者となる可能性があったが、実現しなかった。晩年に中国の文化大革命や北朝鮮の全体主義に利点を見いだせると主張し、「急進的な左派」のイメージが強くなったロビンソンを選考委員会が警戒したためとみられている。米国出身のエリノア・オストロムが女性として初めてノーベル経済学賞を受賞したのは2009年。ロビンソンが1983年に死去してから四半世紀の時が流れていた。
2023年はロビンソン没後40年。彼女が経済学者としての道を歩み始めたのは、今からほぼ100年前の1920年代である。女性に対する偏見が根強く残る英国の経済学界で、いかに苦闘し、学者としての地位を確立したのかを克明に描いた著書が、『 ジョーン・ロビンソンとケインズ 最強の女性経済学者はいかにして生まれたか 』(ナヒド・アスランベイグイ、ガイ・オークス著/安達貴教訳/慶応義塾大学出版会/2022年11月刊)だ。
主に1930年代のロビンソンのキャリア形成に焦点を絞ったのが同書の特徴で、活躍の舞台は英ケンブリッジ大学。当時の経済学者たちは、盛んに書簡をやり取りしながら活動していた。同大学は大量の書簡を文書記録として残している。著者たちはこの文書記録を精査し、「書簡人類学」と自称する手法を使って等身大のロビンソン像を描き出している。
ありのままのロビンソン像描く
ある人物の足跡をたどるとき、当事者による回想や、関係者へのインタビューは貴重な材料となる半面、記憶違いや脚色が紛れ込む場合がある。ロビンソンも50~70歳代になってから若き日を回顧する機会が増えたが、著者たちは「そういった思い出話は、後の時代の出来事の影響から逃れられているとは言えないであろう」と判断し、回顧録やインタビューを活用する通常の手法とは一線を画した。ロビンソンや同僚たちが残した書簡から「1930年代のロビンソンのありのままの姿」を捉えようとしたのだ。
同書によると、ロビンソンの経済学者としての約50年にわたる研究遍歴は、「不完全競争の理論」へと結実した革新的研究(1920年代半ばから30年代前半)、1930年代のケインズ革命、長期的な経済成長の問題を分析する方法を発展させた研究(1950~60年代)に大別できる。
ジョーン・ヴァイオレット・モーリスはケンブリッジのガートン・カレッジで経済学を専攻し、1925年に卒業した。その翌年に経済学者のオースティン・ロビンソンと結婚し、インドにわたる。オースティンは1929年、ケンブリッジに戻り、ジョーンはロビンソン夫人として再び大学に姿を現した。
当時のケンブリッジには経済理論家として群を抜いている学者が5人いた。アーサー・セシル・ピグー、ジョン・メイナード・ケインズ、ジェラルド・ショーブ、デニス・ロバートソン、ピエロ・スラッファである。ジョーン・ロビンソンは彼らと個々に絶妙な距離を取りながら、研究者としてのキャリアを積み上げていく。
特に重要な位置を占めたのはケインズだ。1931年の時点でケインズは彼女を気鋭の理論家とはみなしていなかったという。ロビンソンは1933年、スラッファの発想やピグーの助言を取り入れ、初の著書『不完全競争の経済学』を完成させた。完全競争市場を前提とする従来の新古典派経済学が取り扱ってこなかった問題を射程に入れた研究であり、学界で一定の評価を得たものの、ケインズはあまり関心を示さなかった。
ケインズ革命の旗手に
ロビンソンは同書を完成させた頃から、ケインズが『貨幣論』などを通じて取り組み始めていた経済学への新たなアプローチを熱心に支持するようになる。親密な関係にあったリチャード・カーンとともに、ケインズが指揮した若手経済学者の集団、ケインズ・サーカスの有力なメンバーとなり、ケインズ革命の担い手として頭角を現す。
ケインズは1936年、『雇用、利子および貨幣の一般理論』を出版した。ロビンソンはこの時点までにはケインズが頼りにする同志かつ批評家に成長し、『一般理論』の校正を手伝うほどになっていた。それでもケインズの忠実な弟子という立ち位置は変えず、ケインズ革命の普及に全力を尽くした。
ロビンソンは、経済理論や学説の優劣は「正しさ」や「普遍性」だけで純粋に決まるわけではないと見抜いていたのだろう。ケインズ革命を貫徹させるために着々と手を打った。
『一般理論』を通じて経済学者たちに論争を仕掛け、反論を期待していたケインズとは対照的に、ロビンソンは「ケインズの考えを絶対的な真理と見なし、それは、ケインズ革命以降の経済学体系に翻訳され、体系化されて、経済学者たちが使えるようにパッケージ化されるべきものであると考えていた」。
『一般理論』の出版直後の1937年、ロビンソンはケインズの考え方を洗練し発展させた『雇用理論研究』を世に問い、続いて『雇用理論入門』を出版して経済学の教育を変革しようとした。既存の経済理論を知らない若い世代にケインズ理論を教え込み、革命に引き込もうとしたのである。
1938年、ロビンソンは経済学の常勤講師に任命され、学者としての足場を固めた。1930年代の書簡から浮かび上がるのは、「自身が直面した偶発的状況を、大きな利益をもぎ取るための機会と捉える嗅覚の鋭さを一貫して発揮してきた」姿であり、著者たちはロビンソンを「戦略家としての研究者」と評している。
写真/スタジオキャスパー