直木賞作家、朝井まかてさんによる『秘密の花園』(日本経済新聞出版)は、長編伝奇小説『南総里見八犬伝』の作者、曲亭馬琴の生涯を描いた歴史小説だ。2024年秋には映画『八犬伝』が公開され、2025年には同時代の出版人、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)を主人公とするNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』も始まり、江戸文化への注目が高まる。朝井まかてさんのインタビュー第1回は、曲亭馬琴や蔦屋重三郎が活躍した日本の出版草創期の魅力について。
日本の作家が多作である理由
『秘密の花園』は、『南総里見八犬伝』の作者、曲亭馬琴の生涯を追いながら、当時の出版界の様子がリアルに描かれています。私も出版業界にいますので、「あるある感」を何度も覚えました。
『秘密の花園』を読んだ担当編集者から、奇妙なメールがたくさん届きました。彼らは感想のあと、最後に必ず反省しているんです。最初は首をかしげましたが、どうやら曲亭馬琴がこぼす版元への愚痴や不満が原因。血の汗を流す思いで校正しても修正できていない、新たな間違いがある、原稿を急(せ)かす、急かしすぎる、売れたら誉めそやすが不評だと冷たい沈黙、作者の苦労を分かっていない…うんぬんかんぬん。
私はどの作品でも主人公に自身の考えを託すことはせず、『秘密の花園』でも馬琴の思いを書いたのでしたが、朝井まかてが私憤を晴らしたみたいに捉えられたようで。あれは馬琴の愚痴です! でも、書き手としては身につまされたのは確かで、まあ、そのぶんリアルさが倍増になったかも。そこは認めます(笑)。
当時の原稿料は、吉原でのおもてなしなら良い方で、祝儀がわりのお酒一本という場合も珍しくない。のちに山東京伝(さんとうきょうでん)や馬琴は原稿料を受け取る作者になるわけですが、これは画期的なことでした。そのぶん、版元からの要求も強くなるんです。「売れるものを書け!」「もっと書け!」と。
現代においても、世界の作家に比べると日本の作家は書きすぎると言われます。純文学でそう言われるのですから、エンタメの作家はもっと書いている。この傾向は、江戸の戯作(げさく)文学の傾向、そのしっぽが現代にも残っているのではないかと感じています。
馬琴をはじめ当時の作家は実に多作で、何本もの注文を同時に抱え、一年間で驚くほどの作品を出していました。それは、そもそも戯作というジャンルが食べるための稼業ではなく、余技・趣味として発生したからなんですね。
戯作とは、黄表紙(絵入りの風刺小説)や洒落本(遊郭や女郎屋を舞台にした読み物)などを含む娯楽読み物のことです。
戯作は、狂歌連(狂歌をたしなむサロン)から生まれました。だから、戯作者の多くは別の食いぶちを持っていました。稼ぐためではなく、自分が「面白い」と思うことを作品にしたんです。仲間たちに「こんなの、どうよ?」と読ませるために。いわばセンスの共有、ときにセンスの勝負です。
戯作者として活躍した人々を見てみると、大田南畝(なんぽ)も朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)も恋川春町(こいかわはるまち)もみな武家でした。彼らは幕臣や各藩に所属する江戸留守居役で、教養のある外交官でした。
役得として吉原で遊んだ武家たち
彼らは他藩と情報交換するための経費を持っていて、吉原で遊ぶことも仕事の一部なんです。経費が問題になって減らされたりもするんですが、そうすると情報が集まらない。藩主が江戸城の大事な儀礼で恥をかく。そうなると大ごとになるので、結局、必要経費は仕方あるまい、と。
こうして吉原には、武家だけでなく、面白い人、通人、イケてる人たちが集まるようになりました。皆さんが想像するよりもはるかに文化的なサロンであり、流行の発信地でもありました。そこに、のちに江戸随一の版元となる蔦屋重三郎(蔦重)もいました。
そのサロンには身分の垣根がほとんどありませんでした。なぜなら先ほどもお話ししたように、「趣味」がその中心だったからです。武家もそうでない身分の人も関係ない。吉原では面白い狂歌を詠む人が尊敬され、センスのよい人がもてはやされました。
江戸中期以降の日本はこのように、趣味の文化が花開いたことが大きな特徴です。江戸や京、大坂など都市部ではとくに、身分を越えて人々が混じり合い、これほど無邪気におおらかに遊んだ国は他にありません。
この時代の日本人が育んだ文化的な感性は、驚くほど芳醇(ほうじゅん)でした。西洋文化を懸命に移入した明治の文人たちも、江戸文化を存分に吸って育っていますから、思考や文筆の血肉なんですね。
そして現代にも、江戸戯作のスタイルや風趣はまだ綿々と流れています。『秘密の花園』を書きながら何度もそう感じました。馬琴の開拓した世界はそれほどに大きい。
江戸中後期に文化が花開いたのは、政治社会の変化とも関係していますね?
田沼意次(おきつぐ)の時代というと、賄賂・汚職のイメージが強いですが、一方ではさまざまな規制緩和が行われ、出版人や戯作者たちには豊かな土壌になりました。文化的なバブルが膨らんで、おしゃれな人たちが集える融通むげさが生まれ、その中で身分のシャッフルが起き、さらにセンスが多様になりました。
その後、反動として寛政の改革が行われ、悲劇的な出来事もたくさん起きるわけですが、文化というのは生きものです。自由の後に抑制がかかると、これまでとは違う発露を始めます。どんどん深まり、潜り、違う出力方法を見いだそうとする。逆に自由が続くと放埒(ほうらつ)になり、センスは自家中毒を起こし始めます。自由こそが難しい。
「これ、面白そう!」から始まる
NHKの大河ドラマ『べらぼう』は、とてもいいタイトルだと思います。「べらぼう」に面白い時代ですから。
ただし蔦屋重三郎自身は決して「べらぼう」な人ではなく、べらぼうなことを実現するために、手堅いビジネスマンであり続けました。一か八かのような出版物を手掛けながらも、今でいう手習い教科書にあたる「往来物」を作り、手堅い収益源をちゃんと確保していましたから。
吉原という華やかな世界に身を置いていたからこそ、「べらぼう」を支える方途にも目配りできたのではないでしょうか。破滅的に生きたお大尽たちの末路をまさに目の当たりにするのが吉原ですから。
蔦重がたった10年ほどで、とてつもない地本問屋(じほんどいや。江戸で出版された娯楽本=地本を扱う版元)になれたのは、イケてる人たちが集まる吉原で、若い頃から商いを始めたことも大きかったでしょう。
当時、浮世絵では鳥居清長が描いた七、八頭身の美人画が主流でしたが、鳥居派は本来、歌舞伎などの看板絵を専門に手掛ける一派でした。先代が亡くなって、清長は稼業に専念することになったのですが、蔦重は清長に、「スキマ時間に新しい絵でも描いてみたら?」と提案。そうして出来上がった清長の画は、雅な美人画から一変。デフォルメした大首絵となり、これが評判を呼ぶことになります。その後、この大首絵が喜多川歌麿や東洲斎写楽にもつながっていきます。
蔦重は今では「名プロデューサー」と評されることが多いですが、私は少し違う印象を持っています。おしゃれで、教養が高く、気の利いたことを言える人たちとワイワイやっている所で、一緒にアイデアを出し合って、じゃあ、それを実現するのは誰? そこで蔦重が動く。そうしているうちに商いの嗅覚も研ぎ澄まされたんですね。
もちろん貸本屋も営んでいましたから読者の好み、評価はよく分かっていましたけれども、自身の「こんなもの作ったら絶対に面白い!」という発想が原動力になっていたのではないでしょうか。まずは自分を信じている。勘も信じている。
現代的なマーケティングとはそこが違うし、名プロデューサーになるためにバックキャスティングをしていたわけでもない。最初からそこを目指してはいない。多くの仲間たちとの交誼(こうぎ)の中で、いつの間にか蔦重自身が大きくなったように思います。結果的に。
こういうのが当たるだろうというマーケティングの発想ではなく、自分が面白いものをやろうという姿勢は、今の私たちにも学ぶところが大きいと思います。
マーケティング的な発想をしないというのは、作家も同じです。作品がいったん手から離れたら、どう読まれるかは読者によって違います。そうであれば自分が面白いと思うものを書かねば。誰かに合わせようとすると自分の根本が揺らいでしまいますし、そもそも「合わせる」「狙う」なんてことはできないと思います。できる人はできるのかな。でも、「置きに行く」って、書いてる自分がきっと面白くないですよね。
取材・文/金澤英恵 構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集) 写真/小野さやか
日本のエンタメ小説の祖・曲亭馬琴、「八犬伝」を生んだ劇的人生。武家である滝沢家再興の夢を捨てず、締め切りに追われながら家計簿をつけ、息子とともに庭の花園で草花を丹精する。狷介(けんかい)で知られた馬琴の素顔、けなげな哀歓が鮮やかに蘇る。苦難の末、大戯作者が辿り着いた花園とは?
朝井まかて著/日本経済新聞出版/2200円(税込み)


