直木賞作家、朝井まかてさんによる『秘密の花園』(日本経済新聞出版)は、長編伝奇小説『南総里見八犬伝』の作者、曲亭馬琴の生涯を描いた歴史小説だ。2024年秋には映画『八犬伝』が公開され、2025年には同時代の出版人、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)を主人公とするNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』も始まり、江戸文化への注目が高まる。朝井まかてさんのインタビュー第2回は、戯作者、曲亭馬琴の素顔と、中断・絶版の危機に陥った『八犬伝』について。
京伝や蔦重にコンプレックスを持っていた馬琴
曲亭馬琴という作家は、自分の書くべきことをはっきり自覚していたのですか?
ある程度実績を積んでからは、そうなっていったと思います。でも山東京伝(さんとうきょうでん)や蔦屋重三郎とはずいぶん違います。センスのいい江戸っ子が集まる文化サロンの中で、際立つ存在が京伝と蔦重でした。蔦重は生まれも育ちも吉原で、京伝は深川木場に生まれ、幼い頃から遊郭の文化に親しみました。そもそも江戸っ子の定義をつくったのが京伝。二人からにじみ出る圧倒的な華やかさには、生まれ持ったセンスと育った環境が影響していました。
彼らと比べると、馬琴は地味で真面目で、オタク的な人でした。馬琴は京伝や蔦重になりたかったけれど無理で、彼らにコンプレックスを抱いていたように私は捉えています。でもそのコンプレックスが強かったからこそ、とことん書き続けたんですね。
その結果、凡人だった馬琴は異才になりました。『八犬伝』は日本の文芸エンタメの祖となり、200年たった今も読み継がれています。漫画『ドラゴンボール』の原型とも言われますね。
馬琴の女房・百は単なる悪妻ではなかった
大作家になった後も、馬琴は家族とのもめごとを抱え続けます。
馬琴は武家のこだわりが強くて、家のことも妻(百、ひゃく)に任せておけず、自分で仕切ろうとしました。馬琴の日記には、下肥(しもごえ)の礼に受け取る大根の数が少ないとか、今年はブドウがどのくらいなったとか、詳細に記されています。大岡越前の日記も有名ですが、日記を書くことは武家の習慣であり、馬琴もそうだったのでしょう。
馬琴の日記からは、一家のあるじとしてこの家を差配するのだ、というこだわりが強く感じられます。家のことを妻の百任せにしないばかりか、百を軽んじているふしがありました。『秘密の花園』の作中、百が馬琴に毒舌を吐く場面は私の創作ですが、江戸時代の女性は良くも悪くも気が強い人が多かったので、馬琴と百が衝突していたことは容易に想像できます。
江戸時代の女性たちの多くは働いていて、稼ぎのある女性はいくらでも亭主を取り換えることができました。とくに江戸の町は女性の数が圧倒的に少ないですから、家庭でも女性が強気に出られる場面は多かったと思います。
これまで、百という人は一方的な「悪妻」として語られてきました。ですが、今回改めて資料をひもといてみたところ、百は兄夫婦の間に生まれた体の弱い子を引き取り、育てていました。これを知って、私はもはや百を単なる「悪妻」として片付けることはできなくなりました。そもそも夫婦は、どちらか一方がいい・悪いというものでもありませんよね。馬琴も夫としては、なかなかの難物だったと思いますよ(笑)。
『秘密の花園』では、馬琴と葛飾北斎というクリエイター同士の関係が興味深く描かれています。
『秘密の花園』の作中、馬琴のこだわりは、絵師・葛飾北斎との丁々発止のやりとりにも現れます。馬琴と北斎がしばしば喧嘩をしていたというのは有名な話ですが、馬琴はとにかく作品世界のすべてを支配したい人。なので、書いたことと一致しない挿画には大変に腹を立てます。イメージが崩れるから。ですので、あんなに忙しいのに挿画のラフスケッチまで描いて渡していたそうですが、素人に余計な指示をされたら、絵師の方だって黙っていられません。こんな絵、描けるか!ってね。
私は北斎の娘を題材にした『 眩(くらら) 』(新潮文庫)という小説で、北斎側から見た偏屈な馬琴を描きましたが、『秘密の花園』では、二人が江戸に名をとどろかせる以前の、若い頃を描きました。まだ海のものとも山のものともつかない、若い芸術家同士が情熱をぶつけ合い、罵り合いながらも、かけがえのないバディになっていく。その後も二人は揉(も)めるんですけれど(笑)、北斎とのシーンを描けたことは私にとってもこの上ない喜びでした。
ちなみに、北斎は明治以降、ヨーロッパの画家たちによる好感・憧憬が逆輸入されて日本でも評価が世界レベルになりましたが、超売れっ子絵師として時代の寵児(ちょうじ)であったことに疑いの余地はありません。にもかかわらず北斎は、名声を極めた晩年になっても、「猫一匹すらまともに描けない」と娘の前で落涙したと言われています。
名声なんて、筆の毛一本ほどの足しにもならないんですね。ただただ、いい絵を描きたいの一念なのですから。
幸田露伴が再発見した『八犬伝』
長編小説『八犬伝』が完成するまでに、何度も危機が訪れましたね。
『八犬伝』を巡っては、実はとんでもない大事件がありました。馬琴が心血を注ぎ完成させた『八犬伝』の原板となる板木(はんぎ)が勝手に売られてしまい、中断しかけたのです。当時はまだ、著作権という概念が確立されていませんから、今では考えられない苦労があります。
馬琴の目が見えなくなってからは、病弱の息子と嫁の代筆によってなんとか脱稿することができました。
しかし、馬琴と出版人、家族の奮闘によってようやく完成し、評判を呼んだ『八犬伝』も、明治に入って再び存亡の危機を迎えます。文壇に坪内逍遥や二葉亭四迷が登場すると、彼らは『小説神髄』や『小説総論』の中で、『八犬伝』のような勧善懲悪をテーマにした江戸戯作を痛烈に批判し、こんな娯楽的なものでなく、もっと写実的な文学を目指さなければならない、と大々的に主張したのです。
ただ、面白いことも起きました。「言文一致」以前の明治初期は日本語の過渡期で、批判を行うための文体がありませんでした。坪内逍遥や二葉亭四迷は、自らの主張を伝えるためにいろいろな言葉を編み出そうとしました。最後の最後、説得力のある文章を展開できるようになったとき、それは皮肉にも、彼らが否定していた江戸戯作の文体に近いものでした。
その後、一度は埋葬されかけた『八犬伝』は、大ブームを巻き起こします。西洋文明を取り入れる動きが進む反動で、日本独自の文化・芸術を再評価する動きが起きたからです。『八犬伝』をはじめ、江戸期の文芸や美術が脚光を浴びるようになりました。
『八犬伝』は、明治文壇の重鎮である森鷗外が序文を書くほどになります。その序文を鷗外に依頼したのは、文豪・幸田露伴でした。『八犬伝』は露伴によって、再び息を吹き返したのです。
取材・文/金澤英恵 構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集) 写真/小野さやか
日本のエンタメ小説の祖・曲亭馬琴、「八犬伝」を生んだ劇的人生。武家である滝沢家再興の夢を捨てず、締切に追われながら家計簿をつけ、息子とともに庭の花園で草花を丹精する。狷介(けんかい)で知られた馬琴の素顔、けなげな哀歓が鮮やかに蘇る。苦難の末、大戯作者が辿り着いた花園とは?
朝井まかて著/日本経済新聞出版/2200円(税込み)


