生涯かけて学べる知識ベースはだいたい1ギガバイト。その程度しか知識がない私たちは基本的に無知です。しかし、そのことを自覚しないまま、考えが近い人どうしが結び付いて先鋭化し、他の考えをいっさい許さない「正義」をふりかざす。『知ってるつもり 無知の科学』(スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック著)はそう警鐘を鳴らします。年間約300冊の本を読む東京カメラ部の塚崎秀雄社長が、本書を読むべき1冊として紹介します。

私たちは全員無知

 前回「 なぜSNSが分断の震源地となるのか 解決のヒントを探る1冊 」では、『 ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する 』(ジョナサン・ゴットシャル著/月谷真紀訳/東洋経済新報社)を取り上げました。「本来は私たちをつなぐはずの物語(ストーリー)とSNS(交流サイト)という道具が、私たちの使い方が悪い結果、逆に私たちの社会を分断してしまう」ことを、同書籍は分析していました。この「つながり」で、今回は別の角度から、社会不安、分断を高める要因を分析する本を紹介します。

 私たちはふだん、スマホを使いこなしています。しかし、例えばアプリの一つひとつがどういう仕組みで動いているのか、あるいは液晶画面になぜ画像や映像が映るのか、説明できる人は少ないでしょう。

 人生70年の間に、一定の速度で学習を続けると仮定し、持っている情報の量、すなわち知識ベースの大きさは、様々な方法で計測してもだいたい1ギガバイトだそうです。今や数百円で買える4ギガバイトのSDカード1枚以下です。つまり、基本的に私たちは全員無知で、何にしても知っているような気になっているだけということです。

 それなのに、「自分が知っていると勘違いしている。つまり、私たちの多くは自分を過大評価している。そして、それに気づかないことがインターネットの普及と相まって社会分断の要因にもなっている」。そう説いているのが、『 知ってるつもり 無知の科学 』(スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック著/土方奈美訳/ハヤカワ・ノンフィクション文庫)です。

「自分が知っていると勘違いしている」と指摘する『知ってるつもり 無知の科学』(写真/スタジオキャスパー)
「自分が知っていると勘違いしている」と指摘する『知ってるつもり 無知の科学』(写真/スタジオキャスパー)
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 本の詳細をご紹介する前に、なぜこの本を読んだかについて簡単に説明させていただきます。私は、仕事で成果を出すために必要なのは「知識」と「技術」と「運」だと思っています。とりわけ大きいのは「運」だと実感していますが、これも自らの「姿勢」を整えることである程度高めることができると考えています。そして、「知識」も「技術」も「姿勢」も、すべて読書は高めてくれると考えています。(「 塚崎秀雄 どの分野も30冊読めば論文を理解できるレベルに 」参照)。

 今回ご紹介させていただく本は、その中の「知識」に影響を与えてくれるものです。この分野で私が重視しているのは、「質より量」です。質を問わないという話ではありませんが、量をより重視するということです。そもそも門外漢の領域の本も積極的に読んでいくため、質で選ぶだけの知識が不足しています。そこで、選べないから読まないのではなく、まずは選べるようになるまで読むということです。そして、各分野30冊程度読めば、仕事に必要なレベル(専門家に適切な質問ができる程度)には到達できると考えています。

 この本は、私が経営する会社(東京カメラ部)のビジョンである「寛容な世界の実現」を目指す上で課題となるインターネット上で度々発生している「炎上」や「分断」の原因を知りたいと考えて、読み進めている中で出合いました。

人類は「認知分担」で発達してきた

 さて、本のご紹介を始めましょう。そもそも無知なはずの人間が発達できたのは、「認知分担」、つまり互いに協力することに長(た)けていたからです。自分が知らなくても、信頼している誰かが大丈夫と言っているから大丈夫だろうと判断している。スマホの仕組みは知らなくても、まさかAppleやGoogleなどのスマホが爆発することはないと信じて、もしくは割り切って使っているわけです。

 また、世界の複雑さに私たちが気づかず圧倒されずにすんでいる理由は、私たちが「嘘を生きているから」だと言います。自分の知識を過大評価して、知らないくせに物事の仕組みを理解していると思い込んで嘘の世界で生活することで、世界の複雑さを無視しているというわけです。

 考えてみれば、スマホのみならず衣食住のすべてについても、同じことが言えるでしょう。自分が理解しない限り使わないとしたら、私たちは一歩も動けません。よく知らなくても「まあ大丈夫だろう」と利用できることが、人類の強みでもあるのでしょう。

ソクラテスの悲劇が繰り返される

 ただ、インターネットやSNSの登場により、やっかいな問題が生じています。無知であることを自覚しないまま、自分にとって都合のいい、もしくは聞き心地のいい情報ばかりを集めてしまうということです。

 SNSは、価値観や考えの近い人どうしが結び付きやすいという特性があります。これは友人を見つけるという意味では、素晴らしい特性です。しかし、自分と異なる意見を持つ人との交流は避けながら、自分の意見に賛同してくれる人とだけ交流を深め、別の世界観を持つ人々の愚かさや邪悪さについて語り合うことが可能になってしまうという意味では、困った特性となります。特に、自身の無知を自覚していない場合は、「コミュニティの中でいわゆるグループシンク(集団浅慮)が進行しやすくなり、思考をますます先鋭化させてしまう可能性がある」とこの本は言うのです。

 これは「ポスト・トゥルース(脱真実)」(『ストーリーが世界を滅ぼす』参照)の発生原因の1つでもあるかもしれません。こうした結果、自分たちこそ「正義」と思い込み、他の考えをいっさい許さない「思想純潔」のような巨悪が登場しやすくなるわけです。

 正義や純潔を求めるほど、その人たちは生贄(いけにえ)を求めるようになります。ネット上の「炎上」騒動もそれです。間違いを犯した人を寄ってたかって徹底的にたたくことで、法に基づかない私刑を執行してでも自分たちの正しさを誇示しようとする。そもそも人間は間違える動物です。そのため、その罪の重さに応じて償わせつつ、ほとんど多くの場合、社会復帰を促すための制度を私たちは創り出しています。しかし、その存在を認識している人であっても、制度を無視して私刑を執行してしまうことがあるのです。

 しかも、その「正しさ」は、理屈で反駁(はんばく)することはできません。いくら客観的または科学的事実を提示しても、多くの場合、無駄です。コミュニティの中で生まれた特定の信念からの脱却は、自らを取り巻く「コミュニティと決別すること、信頼する愛する者に背くこと、要するに自らのアイデンティティーを揺るがすことに等しい」からです。むしろ反駁してきた人こそ、許さない対象にしてしまう。その先には、悲劇しかありません。

 典型的なのが、哲学者ソクラテスの死です。まさに「なんでも知っている」とうそぶく世の知者たちを問答によって無知であると気づかせ、反対に恨みを買った彼は、「若者を扇動した」として投獄され、「汚染された思想を駆逐」するために処刑されます。これも思想純潔のなせる業でしょう。当時から約2400年を経てなお、私たちは同じことを繰り返している。インターネットの台頭によって、むしろ加速しているというのがこの本の問題意識です。

「正義や純潔を求めるほど、その人たちは生贄を求めるようになります」と話す塚崎さん(写真/鈴木愛子)
「正義や純潔を求めるほど、その人たちは生贄を求めるようになります」と話す塚崎さん(写真/鈴木愛子)
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「神聖な価値観」という思考停止

 さらにやっかいなものとして、「神聖な価値観」を挙げています。政策論争などで「ダメなものはダメ」で片づけてしまい、思考停止を招くものです。

 こういう「神聖な価値観」が便利なのは、問題を単純化できて、深く考える手間が省けるからです。言い換えるなら、自分の無知を隠すこともできます。また、意見が「神聖な価値観」で決まれば、結果がどうであろうとも関係なくなるため、他者を説得したり決定したりする立場の人々にとって責任回避ができます。もちろん、その価値観が社会通念と合っている場合も多々ありますから尊重はすべきでしょう。しかし、「神聖な価値観」には、一切の妥協が不可能となったり、因果分析が困難となったりする、やっかいな問題があるため注意が必要なのです。

 私は事業として写真を扱い、クリエイターをサポートする側の人間なので、「表現の自由」を守る立場にいます。会社のミッションにも「世界中のクリエイターに自由な発表の場を提供する」ことを掲げています。もちろん、科学的な因果分析の結果として害悪であることが証明されている場合や、法に抵触するような作品は許されないと考えています。また、当社はSNSプラットフォーム上で活動をしている関係で、プラットフォーマーによるルールには従わざるを得ません。

 しかし、恥ずかしいとか、不快だとか、誤解を与えるとか、特定の国の価値観と異なる、といった価値観を「神聖」なものとして掲げて、その価値観に従うことをクリエイターに強制することは賛成し難いと考えています。

無知を自覚する社会にする3つの方法

 ここまでで、インターネットが普及した環境下で無知を自覚しないことが、どれだけの問題を引き起こす可能性があるのかはご理解いただけたと思います。では、もっと無知を自覚する社会にするためには、どうすればいいのか。この本では大きく3つの方法を挙げています。

 1つ目は、中立な専門家の意見を大事にすることです。ただし、専門家自身、どうしても自らの願望を押し付ける傾向があります。あるいは、学会や学閥への忖度(そんたく)もあって、必ずしも中立とは言い切れません。前回ご紹介した本『ストーリーが世界を滅ぼす』には、「学術界は『イデオロギー上のバイアス』が顕著」という指摘がありましたが、これと重なります。

 また、ある分野の専門家であることは、他の分野にも詳しいことを保証しません。例えば、新型コロナウイルス禍への対応にせよ、ウクライナ戦争への見方にせよ、専門家によって意見がバラバラに分かれたり、ダブルスタンダードになったり、自称専門家がはびこったりする様子を、私たちは目の当たりにしています。

 それでも、専門家とはそういうものだと割り引いた上で、自らの立場や専門分野について明らかにしてくれるような信頼できる専門家を私たちは確保し、その意見を傾聴すべきでしょう。また、専門家には、自らの願望を押し付けないよう求めていくべきでしょう。世界は複雑すぎるため、私たち自身が専門家になるよりずっと効率的だし、そういう仕組みこそが人類の発達を支えてきたからです。

 2つ目は、リーダーの選び方。世界は複雑で容易に変えられないと理解している人物を選ぶことです。意思決定をする前に、時間をかけて情報を集め、他の人々と相談するリーダーを選ぶということだとこの本は言います。こうしたリーダーは、分かりやすいキャッチフレーズやワンセンテンスで世の中を変えようとするリーダーなどと比べて、「優柔不断で頼りなく、ビジョンがない」と思われることもありますが、きちんと見極めて選ぶ必要があると言うのです。

 私たちは、分かりやすい説明をする人にひかれがちです。しかし、そもそも世の中は複雑で私たちは無知なわけですから、正確に伝えようとすれば、分かりやすいはずがありません。難しくても正しい説明を避けず、聞いて、理解して、判断する。難しくて分からなければ、分かるようになるために勉強する。私たちは「難しさ」から逃げてはいけないのでしょう。

「世界は複雑で容易に変えられないと理解している人物をリーダーに選ぶ」(写真/鈴木愛子)
「世界は複雑で容易に変えられないと理解している人物をリーダーに選ぶ」(写真/鈴木愛子)
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 そして3つ目は、学問のすすめ。すべての分野を学べというのではありません。他人から姿勢や知識や技術を吸収し、自分は無知であると気づくことが学問の意義だと説いています。また、他の人々の知識や能力を活用する方法も身に付けるべきだと言います。読書などは、まさにその方法の1つでしょう。

 えらそうなことを言っている私も無知であることは確実です。自分自身が考え出したことはおそらく数%もありません。ほとんどのことは誰かから教わったことで、その大半は本です。思想的な偏りも間違いなくあるでしょう。難解な説明から逃げたくもなります。

 だからこそ、学び続け、読み続けるしかない。無知を自覚するには、おそらくそれが最良の方法でしょう。

 なお、私の選書は別としても、この日経BOOKプラスには学ぶに値する素晴らしい本が多数選ばれ、紹介されています。私も使っています。この記事を読んでくださっている方は、すでに活用されている方が多いでしょうが、もし、まだ使われていない方で学ぶための良い本が見つからない場合は、ここから試してみるのもよいかもしれません。

個人の評価は集団への貢献度で決まる

 そしてもう1つ、この本は面白い提言を行っています。組織や社会で人を評価する際、個人として優れているかどうかではなく、集団に対してどれだけ貢献しているか、他者と協力できる能力をどれだけ持っているかを基準にすべきではないか、ということです。連載第1回「 『会社とは何か』 経営者を問い詰め、追い込む1冊 」でご紹介した『 会社という迷宮 経営者の眠れぬ夜のために 』(石井光太郎著/ダイヤモンド社)と同じことを、「個人の知性の過大評価」という視点でアプローチしているわけです。

 確かにその通りでしょう。チームにおける個人の評価は、知能指数では測れません。この本では、その人がチームにいるときといないときで、成功率がどれだけ変わるのかを見るべきだと言います。

 例えば、会社である人が、補助的な事務作業だけをしているとします。そうした人は低く評価されがちですが、それによってみんなが働きやすくなってプロジェクトの成果が高まっているとしたら、その人はチームに大いに貢献していることになります。目立つ役割に就任できた人、アピールがうまい人、成果が出るタイミングで担当していた人だけではなく、目立たなくともチームを機能させるための仕事をこなしている方の価値を、きちんと評価できる組織にしなければいけないということです。

 最初の話に戻りますが、人類が発達してきたのは、自分は無知でも誰かが知っていると信じることができたからです。知能は個人ではなく集団に宿る。それは小さな組織でも同じことです。どんな形であれ“組織知”を高められるなら、その人は組織にとってかけがえのない存在と言えるでしょう。

取材・文/島田栄昭