7月25日に沖縄で開業する注目の新テーマパーク「ジャングリア」。プロジェクトをけん引してきたのは、再生の旗手、希代のマーケターとして知られる森岡毅氏だ。誤差1%と高精度の需要予測を可能にする森岡氏の数学マーケティング。今や、刀の強さをつくる武器になっているが、森岡氏は容易にそこにたどりつけたわけでない。追い込まれた末のある決断がその後の人生を大きく変えた。『森岡毅 必勝の法則 逆境を突破する異能集団「刀」の実像』(中山玲子著、日経BP)から一部を抜粋してお届けする(本文敬称略)。
今でこそ、森岡にとって最大の武器となった数学マーケティング。だが、最初から順調にそこにたどり着けたわけではない。遡ること約30年前の、ある挫折から物語は始まる。神戸大学経営学部を卒業後、新卒入社したプロクター・アンド・ギャンブル(P&G)の日本法人で2年目に入っていた森岡は、壁にぶち当たっていた。
「これ、かっこいいね」
「このデザインの方がすてきですね」
神戸市にあるP&G日本法人のオフィスで、同社のマーケターらがシャンプーのボトルのパッケージについて話し合っていた。どんなデザインにすれば消費者が手に取ってくれるか。社員がそうした議論をするのは、消費財を扱う企業なら日常の風景だ。だが、当時の森岡にはそうした感覚がさっぱり分からなかったのだ。

森岡が学生時代に得意とした科目は数学。一方で不得意だったのは国語だ。理由は、理数系科目に比べると「解がはっきりしない」印象があったから。客観性が高く、誰が見ても分かりやすい明確な数字が解として出る数学に比べると、国語の解は問題作成者の主観さえ入っているように思えた。
「かわいい」がわからない
先輩や同僚らが口にする「かわいい」「かっこいい」は、国語の世界に似ている。おまけに、森岡は小さい頃からファッションや髪形にろくに関心を持ってこなかった。ファッション雑誌を読んだこともない。そんな森岡にとって、「かわいい」や「かっこいい」を理解するのは至難の業だったのだ。
当時はまだ20代半ば。一人前のマーケターになることを目指して入社したのに、マーケターなら誰もが持っているような卓越したセンスがないのを早々に自覚し、絶望した。
「このままではこの会社で生きていけない」
肩身は狭くなり、危機感と焦燥感が募る一方だった。3年目に入っても暗闇をさまよう時期は続いた。どれだけ苦しみながら先輩をまねしても、かわいいパッケージはつくれない。ふと隣を見ると、優秀な同僚がいとも簡単に洗練されたパッケージをつくって周りから高い評価を得ている。大きなストレスが森岡にのしかかった。

周りと同じセンスを諦める
悶悶とする中で、森岡はますます追い込まれていった。相変わらず、突破口は見えない。このまま自分は一人前のマーケターになれずに終わるのか。そんな想像ばかりが頭の中を巡った中で、ある瞬間に何かが吹っ切れて森岡はいちかばちかの賭けに出た。
「当時、長女が生まれたばかりで本当に生き残るのに必死だった。長くくすぶっていた中で、ある決断を下した。周りと同じセンスを身に付けるのをやめると決めた」(森岡)
その決意は、森岡の思考を180度変えた。今がどん底ならこれ以上悪くなることはないだろう。その後の人生をも左右する大きな判断となった。周りとは異なる、自分なりのモノサシを身に付ける。そこで森岡がフォーカスしたのが数学だった。
子供の頃には、将来数学者になろうと夢見たこともある。元来、研究肌。学生時代に得意だった科目は断トツで数学だ。そんな数学好きは社会人になっても変わらなかった。
それが高じ、森岡は確率論や経営論の論文をひそかに読んでいた。その中でたどり着いたのが、米国の数学者で経営学者のアンドリュー・アレンバーグの論文だった。
消費者の購買行動には一定の法則がある。つまり、消費者一人ひとりの消費の選択は一定の確率でランダムに起きる――。そこに書かれていたのは、森岡が以前から考えていた仮説を証明するような内容だった。
「アレンバーグ氏は、私が気付く十数年前にこの法則に気付いていた。彼の論文に巡り合ったときは大きな感動を覚えた」
その後、森岡がアレンバーグを通じて知ることになったのが、森岡と年齢の近いオーストラリアの経営学者、バイロン・シャープだ。
シャープは2010年、『ブランディングの科学誰も知らないマーケティングの法則11』(日本語版は18年発売)という書籍を刊行。長年、マーケティング界の権威とされてきた米経営学者、フィリップ・コトラーの手法に異論を唱えた。根拠や裏付けに基づいた科学を重視したマーケティングの必要性を訴えた同書はベストセラーとなり、業界内で大きな波紋を呼んだ。
コトラーが訴えてきた旧来のマーケティング理論に対して、より科学的アプローチの重要性を唱えたのがアレンバーグとシャープ。マーケティング界にこうした大きな2つの考え方があるすると、世の多くの企業はコトラーの考えに近い一方、森岡や刀の「数学マーケティング」はアレンバーグとシャープの考え方に近い。
同僚のマーケターが共通して持つ感性を持たなかった森岡。だが、その挫折は唯一無二の武器をもたらすことになった。
(つづく)
[日経ビジネス電子版 2024年12月27日付の記事を転載]
中山玲子著/日経BP/1870円(税込み)
