ロシアの軍事侵攻や米中対立にもつながる、「現代史の裏側」で暗躍するスパイについて池上彰氏が解説。ウクライナのサイバー戦略が奏功した背景には、国内にいたロシアのスパイ網の摘発がある。AI(人工知能)やITの進化で激化する、各国の情報戦、スパイ合戦について、“スパイオタク”の池上彰氏が解説した 『世界史を変えたスパイたち』 (日経BP)から抜粋・再構成してお届けする。

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諜報活動の3類型

 ロシアによるウクライナ侵攻を巡り、第1回「池上彰氏『ロシアの軍事侵攻は米国によって“予言”されていた』」の中で、米国の諜報(ちょうほう)能力の一端について解説しました。

 ここでは、諜報活動について基礎から解説しておきましょう。諜報活動には「オシント」「シギント」「ヒューミント」の3類型があります。

 オシント(OSINT)とは「Open-Source Intelligence」の意。「オープンソース」つまり、新聞や雑誌、テレビなど誰でも見たり聞いたりできる公開情報をもとに分析することです。これなら読者のあなたにも可能ですね。ただし、単に情報を大量に集めたところで、それだけでは役に立ちません。その情報から、国家や集団にとって役に立つ情報を選択し、他の情報と突き合わせて、真に役に立つものにしていかなければなりません。これぞスパイの能力です。

 日本語では、最初に収集されたものも、そこから磨き上げられたものも、どちらも「情報」と表現しますが、英語では、最初に集められた情報は「Information」(インフォメーション)で、磨き上げられたものが「Intelligence」(インテリジェンス)です。天気予報でたとえると、気圧配置や風向きなどがインフォメーションであるのに対し、それらをもとにこれからの天候がどうなるかという情報を導き出したものがインテリジェンス、と言えばわかりやすいでしょうか。スパイ、つまり諜報機関・情報機関にとって、いわゆるインフォメーションの収集と、それを集めて分析評価したインテリジェンスの双方が重要になります。

 米国のCIA(Central Intelligence Agency)は、日本語では「中央情報局」と訳されますが、Iはインフォメーションではなくインテリジェンス。あえて日本語に訳すと「諜報」になります。

 シギント(SIGINT)とは「Signal Intelligence」のこと。シグナルつまり電波を傍受したり、電話などを盗聴したりして情報(インテリジェンス)を得ることです。米国では、NSA(National Security Agency)、国家安全保障局が担当しています。NSAは、1949年に前身の組織が設立され、1952年に現在の名称になりましたが、長らく存在自体が極秘にされてきました。このためNSAとは「No Such Agency」(そんな組織は存在しない)の略だなどと言われたこともあります。

 同様の組織がイギリスでは「政府通信本部(GCHQ)」といいます。この他カナダ、オーストラリア、ニュージーランドを合わせた5カ国は、「エシュロン」と呼ぶ通信傍受網で相互に協力し合って世界中の情報を集めています。5カ国なので「ファイブ・アイズ」(5つの眼)と呼ばれます。

 ヒューミント(HUMINT)は「Human Intelligence」のこと。つまり人間から得る情報です。要はスパイを使って得る情報です。

世界のスパイ組織とは

 こうしたスパイ活動をする組織としては、米国のCIAが有名ですが、他にも世界各国にスパイ組織があります。イギリスにあるのはMI5(保安部、SSの通称)とMI6(秘密情報部、SISの通称)です。MI5はイギリス国内で活動する敵国のスパイを監視・取り締まる機関。MI6は、CIAと同じく海外で活動するスパイ組織です。小説や映画などで有名な「007」が所属するのはMI6という設定です。

ロンドンに実在するMI6(SIS)の建物。『007』シリーズの映画にも何度か登場している(写真:Shutterstock)
ロンドンに実在するMI6(SIS)の建物。『007』シリーズの映画にも何度か登場している(写真:Shutterstock)
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 ソ連時代のスパイ組織としてはKGB(国家保安委員会)が有名です。ソ連が崩壊した後、KGBは解体され、ロシアと旧ソ連のウクライナやベラルーシを担当することになったのがFSB(ロシア連邦保安庁)で、それ以外の世界各地でスパイ活動をしているのがSVR(対外諜報庁)です。

 また、これ以外に軍のスパイ組織としてGRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)があります。日本ではSVRとGRUの両方のスパイが活動しています。ロシアのウクライナ侵攻の際、日本政府は在日ロシア大使館に勤務する大使館員ら8人に国外退去を要請しましたが、彼らがSVRやGRUのメンバーの一部です。海外で暗殺など“汚れ仕事”をするのがGRUです。

ウクライナ国内でロシアのスパイ摘発

 ウクライナ国内ではロシアのスパイの摘発に追われました。2022年7月には検事総長とウクライナの「保安局」の長官が解任されています。両氏が管轄する機関で60人以上がロシアに協力した疑いが出たため、その責任を取らされたのです。

 解任された2人はいずれもゼレンスキー大統領の側近でした。ウクライナ政府にとっては大きな痛手でした。ゼレンスキー大統領は、国民向けのビデオ演説で、「国家反逆」などの疑いで、650件を超える捜査が進められていると説明しています。

 保安局とはウクライナの情報機関。ソ連時代にはKGBでした。一方、ロシアの情報機関のFSBも、もともとはソ連のKGBです。いわば仲間同士でした。ウクライナが独立を果たした後も、ロシアのスパイだった局員が多数保安局の中に潜伏していたということなのです。熾烈(しれつ)なスパイ合戦の一端が見えました。

 当初米国は、自らがつかんだロシアの軍事情報について、ウクライナに速報することをためらっていました。情報を加工しないでウクライナ側に伝えると、ウクライナ政府内に潜んでいるロシアのスパイが内容をロシアに伝えることで、ロシア内の米国の情報源が暴露されてしまうことを恐れたからです。ウクライナ国内でロシアのスパイ網が摘発されたことで、米国はロシアの軍事情報を速報するようになりました。

ウクライナでのロシアのスパイ摘発の裏には、米国の存在があった(写真:Shutterstock)
ウクライナでのロシアのスパイ摘発の裏には、米国の存在があった(写真:Shutterstock)
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 ロシアによるウクライナ侵攻でも、このようにスパイ活動が展開されていました。スパイ活動は、時として大きく報道されることがありますが、普段は目にすることがないものです。でも、スパイ活動によって世界史が大きく書き換えられたこともあるのです。

(写真:中西裕人)
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東西冷戦が終わった時、「スパイ小説の書き手は失職する」と言われましたが、米中対立やロシアのウクライナ軍事侵攻をきっかけに「新しい冷戦」という言葉が生まれます。スパイの存在はなくならず、AI(人工知能)やITを駆使することで、情報を巡る争いはより一層激しくなっています。混迷の現代史の裏側を池上彰氏が徹底解説。

池上彰(著)、日経BP、1650円(税込み)