作家の芦沢央(よう)さんのエッセイ連載が始まりました。ミステリの名手であり、ホラーや純文学なども手掛け、直木賞の候補に2度選ばれたこともある芦沢さん。それなのに、仕事以外の場面で「どんな仕事をしているの?」と質問されるたびに、いつも上手く答えられないそうです。いったいなぜでしょうか?(編集部より)

(イラスト=くぼ あやこ)
(イラスト=くぼ あやこ)

“自称ミステリ作家”の胡散臭さ

 仕事以外の場面で職業について訊かれたとき、何をどこまで答えるのが最適解なのだろう。

 たとえば近所の人、たとえば子どもの保育園や小学校で知り合ったママ友、たとえば久しぶりに会った元同級生。

 「どんな仕事をしてるの?」

 という質問を投げかけられるたびに、私は毎回慌ててしまう。今時、そんな質問をされる機会もそうないのでは? と思うかもしれないが、私は平日の昼間に家の近くで目撃されることが多いせいか、意外とよく訊かれる。そして、そのたびに上手く答えられず、後で「ひとり反省会」をすることになる。

 先日も、同じマンションの住人に仕事について訊かれ、「えーと、物書き的なことを少々……」と中途半端な濁し方をしてしまった。

 小説家だと答えれば、書いているジャンルやペンネームを尋ねられるからだ。主にミステリを書いていると説明して「ああ、崖の上で犯人が自白するやつ」と微妙に誤解されてしまうのはまだいいが(ちなみに、崖の上で犯人が自白する話はまだ一度も書いたことがない)、ペンネームを答えるのが地味にしんどい。

 大抵の場合、相手は芦沢央という名前を知らず、「ごめんなさい、あんまり本を読まなくて……」と恐縮させてしまったり、「あ、なんか聞いたことあるかも?」と気を遣わせてしまったりする。しかもこの時点で、相手からすれば私は自称ミステリ作家の無職である。胡散臭いことこの上ない。

 (そういえば、この間自称ミステリ作家の男性が温泉の女湯に侵入したところを逮捕されたというニュースを見かけたが、自称+ミステリ+作家という組み合わせはどうしてこうも胡散臭いのだろう。児童文学やSFではここまで胡散臭くならないことを考えると、やはりミステリ自体が犯罪のイメージと繋がりやすいのか?)

 ママ友やご近所さんには、無害な人間だと認識してほしい。直木賞や本屋大賞の候補になったことがある、映画化やドラマ化された作品がある、などのある種の権威に乗っかった補足をすれば、とりあえず得体の知れない存在ではないことはわかってもらえるかもしれないが、それでは今度は「突然仕事自慢をしてくる人」みたいになってしまう。

 仕方なく「図書館とかにも置いてあります?」という質問に「あ、はい、たぶん」とモゴモゴ答えて「自称」だけは外す努力をするものの、「今度読んでみますね」と言われると慌てて「いや、読まなくていいです!」と強弁してしまうため、最後まで胡散臭さを拭えないまま会話が終わる(なぜ強弁してしまうかと言えば、小説家芦沢央が主人公のモキュメンタリー・ホラーミステリを書いていたり、子どもを虐待する母親の話を書いていたりするからだ……つまり読むとますます胡散臭い)。

 そうした経験を何度か繰り返した結果、できるだけふわっとした答え方をするようになったのだが、世の中の人というのは、微妙に濁されると逆に詳細が気になるものらしい。あるいは、できる限り話題を続けなければというサービス精神によるものなのか。濁そうが濁すまいが、「どんなものを書いてるの?」という問いからは逃れられないことがわかった。

 「美容系です」とか「WEBで商品説明の文章を書いたりしています」とか、もっともらしい嘘がつけるなら、そもそも馬鹿正直に「物書き」などとは名乗っていない。小説家なのだから嘘が得意なのでは? と思うかもしれないが、小説のように「これから嘘をつきますよ」と宣言してつく嘘と、相手を騙そうとしてつく嘘は完全に別物なのだ。むしろ私は嘘が苦手すぎて、嘘をつかなければならなくなる状況が怖いから、嘘によって破滅する人間の話をよく書いているくらいなのである。

小説家とは職業ではなく状態なのだ

 それで結局、先日も小説を書いていると白状していつもの胡散臭いルートに乗ってしまったわけなのだが、ここまで書いてみて、我ながら不思議になった。

 どうして私は、職業を尋ねられるたびにこんなにも身の潔白を証明しなければならないような気持ちになるのだろう。

 ミステリ作家なるものが胡散臭いから、だけではない気がする。私はそもそも、小説家を職業として答えること自体に違和感と後ろめたさを覚えているのだ。

 小説家になって以来、私は延々と小説のことばかり考えている。小説や漫画、映画などの創作物に触れれば、その物語がどういう構造でどんな手法を用いているのかを自動的に分析し始めてしまうし、SNSを眺めていても人と会っていても、頭のどこかでは常に取り組んでいる最中の小説が気にかかっている。ご飯を作りながら小説のフレーズを考え、食べながらアイデアを練り、街を歩きながらネタ探しをし、湯船に浸かりながら構成を組み直している。夢の中で小説を書き、起きたら一文字も進んでいなくてがっかりすることも、夢を見ながらこれは小説にしたら傑作になると興奮して目を覚ましてすぐにメモを取るものの、後で読み返すとまったく面白くなくて呆然とすることもしょっちゅうだ。

 けれど、その時間は直接は一銭にもならない。小説という成果物を編集者に提出し、改稿やゲラチェックを重ねて発表して初めて、原稿料や印税になる。書いていない間の思考があるから書けるわけで、どの時間も無駄ではないはずなのに、書いている間しか働いている実感が持てない。

 小説家とは職業ではなく状態であり、小説家なのは原稿を書いている間だけで残りの時間は元小説家として過ごしているという感覚なのだ(だからサイン会などで読者相手に小説家面をしてサインをしているときは、いつも奇妙な気分になる)。

さすがに編集者に甘やかされすぎだと思う

 なぜそうした感覚になるのかを考えてみると、私が勤め人をしていた時期があり、その頃と比べて明らかに自分が社会人としてダメになっているという自覚があるからかもしれない。こんなに社会人としてダメなのに「プロ」と見なされてお金をもらっているという状況が、何かのバグのように感じられるのだ。

 私が専業作家になる前に働いていたのは出版社で、当時は常に複数の案件を同時に回していてもスケジュール管理をミスすることはなく、メールの返信も契約書や支払い関連業務、経費精算などの事務作業も滞りなくできていた。

 なのに今は、「事務仕事ができない抜けた人」として通っている。原稿の〆切を破ったことだけはないものの、編集者との待ち合わせで迷子になったり、電車を乗り間違えるか乗り過ごすかして遅刻したり、契約書を返送し忘れたまま紛失したり、メールの返信が遅れて催促されたり、すぐに返信したと思ったら肝心の添付を忘れていたり……こうして列挙していて自分でも情けなくなるほど、人様に迷惑ばかりかけている。

 とにかくほとんどの時間、考え事をし続けているからだ。脳のリソースが常に小説に割かれており、他のことは残った部分でちまちま処理している。事務作業をしていても、小説のアイデアを思いつけば一気にそれで頭が一杯になり、今自分が何をしていたかも忘れてしまう。

 編集者は、驚くほどに怒らない。私が迷子になれば「ごめんなさい、お迎えに行けばよかったですね」となぜか逆に謝られ、契約書を紛失すれば「すぐに再送しますね」と嫌味ひとつ言わずに手配してくれる。インタビューを受ける予定の日、書影撮影のためにカバーの色校を持っていくと約束したのに家の玄関に置き忘れて行ってしまい、現地に着いてから思い出して謝ったら、「大丈夫ですよ、こういうときのために我々がいるんですから」と何とかしてくれ、「お役に立てて嬉しいです。ありがとうございます」とお礼を言われた(!)ことまである。

 さすがに甘やかされすぎだと思うが、そもそも編集者は私に人間としてちゃんとしていることなど求めていないのだ。彼らが私に要求するのは一にも二にも小説を書く能力で、むしろ小説家は、どれだけ社会人としてちゃんとしていようと「出版社にとっていい小説」が書けなければ簡単に依頼が来なくなる。

 ここでの「いい小説」とは、いい作品とはイコールではない。基本的には売れる小説か、文学的価値がある小説か、どちらかに化ける可能性があると感じさせてくれる小説かのどれかに当てはまれば、依頼が完全に絶えることは少ないが、優れた物語でも理解者に恵まれずに日の目を見ないことはざらにある。

「芦沢さんが社会性を取り戻すために…」

 生々しい話をしてしまうと、担当編集者が社内政治を得意とするタイプかどうかで初版部数や売り出し方に差ができることもあるし、初版が少なくてたくさんの人の目に触れなければ、それだけ話題になる確率も下がる。一方、メディアに取り上げられたり映像化されたりすれば売上が伸び、一度売れることで過去の作品まで掘り返されて一斉に売れ出すこともある。

 つまり、本人の努力とは無関係な運の要素も大きいのだ。

 だが、だからこそ運が回ってきたときにそれを逃すことはできない。一作が売れて過去の作品に光が当てられたとき、たまたま新しい読者がつかんだ本が手を抜いた作品だったら、その読者はもう二度と戻ってこないからだ。

 報われようと報われまいと、愚直に一作ずつ全力で書いていくことでしかチャンスは生かせない。

 私のような凡人が小説家として生き残るためには、人生のリソースを小説に全振りするしかないのだと自分に言い訳をして、「本当は事務仕事も頑張ればできるけれど怒られないから甘えているだけでは?」という疑念からは目を背けてきた。

 だが、小説家になって14年目に入り、別の怖さに気づき始めた。

 もしかしたら私は、一般的な社会人としての感覚を失いつつあるのではないか。このまま小説のことばかりを考えて甘やかされて暮らし続けていたら、そのうち小説のことを書いた観念小説みたいなものしか書けなくなって、結局小説家として生き残ることもできなくなるのではないか――

 考えてみれば、もう何年も誰からも(原稿の内容以外では)怒られていない。悩みは小説のことばかりだし、時間をかけて語り合うのは家族か編集者か同業者で、もはや仕事に絡まない雑談の仕方もよくわからなくなってきている。

 このままじゃまずい気がする、と話していたら、「では、ダメ人間になった芦沢さんが失った社会性を取り戻すために奮闘するというテーマでエッセイを書くのはどうでしょうか」と提案され、この連載を始めることになった。

 どうすれば、私が社会性を取り戻せるのかはまだわからない。

 けれどこのエッセイ連載を始めたおかげで、今度仕事について訊かれたら「WEBでエッセイを書いています」と答えることはできるなと、ひとまずホッとしている。

日経ビジネス電子版 2025年12月8日付の記事を転載]