ミステリの名手であり、ホラーや純文学なども手掛ける芦沢央(よう)さんのエッセイ連載。前回(参照:極度の方向音痴であるミステリ作家が迷いに迷ってたどり着いた意外な場所)は、昔からよく道に迷っていた芦沢さんが仕事でも迷走を始めてしまう話でした。今回は、作家ならその宿命から逃れられない「〆切」の話です。(編集部より)

(イラスト=くぼ あやこ)
(イラスト=くぼ あやこ)

エッセイをいきなり4回分書いてしまった

 この第5回目の原稿に取りかかろうとしたところで、「芦沢央のひとり反省会」第1回が公開された。

 元々の第1回の〆切の時点で4回分の原稿を編集者に送りつけていたからだ。

 まず「方向性を擦り合わせるために試しに書いてみました」と言って2回分送り、概ねOKとの返信をもらい次第さらに2回分書いて、編集者からは「しごでき」だと驚かれた。私のダメ人間っぷりについて書くエッセイとしては矛盾しているようだが、何のことはない。ただ〆切的に先にやるべき仕事を後回しにして、このエッセイばかり書いていただけである。

 最終的には後回しにした仕事も何とか間に合わせたものの、〆切直前は徹夜をしまくる羽目になった。

 私は普段ヘラヘラのらくらしてばかりいるので〆切にもルーズだと思われがちだが、実は仕事の〆切は心身に異常をきたすほど気にするし、〆切を勝手にぶっちぎって編集者に追われたことはデビューからの13年半で一度もない。

 (このエッセイ連載の読者は、「何言ってんだこいつ、そんなの当たり前だろうが」と思う人が大半だろう。しかし作家の中には、〆切当日になって「やっぱり無理です」と連絡する人、〆切を過ぎて催促されて「やっぱり無理でした」と答える人、編集者から逃げ続けて音信不通になる人が、おそらく他の業界の人からしたら信じられないだろうくらいの数いる)

 作家の場合、「その人にしか書けない物語」に需要がある――つまり替えがきかない存在である限り、〆切にルーズだろうが干されることはないが、そういう存在でなければ確実に仕事が減る。誰だって、〆切を守らない人間とはできるだけ仕事をしたくないに決まっているからだ。

 私は、自分が替えがきかない存在ではないという自覚があるため、〆切を破ることは死に直結すると考えている。まったく、デッドラインとはよく言ったものだ。私が原稿を落とそうが出版社は最終的には帳尻を合わせるだろうが、私の信用は死ぬ。作家としての寿命もごりごり削られていく。

 私は私を殺そうとする〆切がものすごく怖い。だからこそ、守れない〆切を設定されることがないよう、ヘラヘラのらくらしてばかりいるのである。

〆切が近づいてきても一文字も書けない

 〆切を切られた瞬間から、憂鬱な日々が始まる。家族とご飯を食べているときも、友達と飲んでいるときも、眠っている最中も、頭の片隅では常に「早く何を書くか決めなければ」と焦り続けている(〆切に追われる生活になって以来、夢を見ながら夢の内容がネタとして使えないか検討するのが癖になってしまった)。

 書きたいネタが思いついても、それですぐに書き始められるわけではない。一番難しいのは、どの一文から始めるかを決めることだ。どの登場人物のどの時間軸から切り込んでいけば、その物語が持つポテンシャルを十全に引き出せるのか。ピタリと噛み合うものを見つけるために、アイデアを練り、資料を読み、構成を考えながらギリギリと頭のネジを巻いていかなければならない。

 私はいつも、ひとつのシーンを書こうとするときに大体4つくらいのことが同時に浮かぶ。

 「Aを書くのなら、そこに付随してBも書いた方が伝わりやすいな。いや、それならCの情報を先に出さなければ。あ、Cを書くならDも書いた方が面白いかも」

 という感じだ。

 エッセイでは、思いついたことを忘れないように、とりあえず浮かんだことを全部書き留めてからどの順番で書いていくかを決めていけばいいが、小説ではそれが上手くできない。書くことによって引き出されてくる次の一文をひたすら追いかけ続けていかないと大事なものを逃してしまう感覚があり、そのドライブ感のようなものが視点人物の心情の臨場感や文章のリズムにも関係してくる。途中で小説になる前の思考の欠片をメモすると、そこで安心してしまうからか、その先に上手く思考が延びていかなくなるのだ。

 だから、頭の中で様々な要素を保留したまま構成を練っている時間が長く、〆切が近づいてきても一文字も書けていないということがよく起こる。脳内ではそれなりに進めているはずなのに成果物は少しもできていないという状態だ。

 (作家は同業者と連絡を取り合う際、互いに仕事の進捗状況を打ち明けることが多いが、私が「来週〆切なのにまだ一文字も書けてない」と白状すると、大抵「それはヤバいw」「なんか元気出てきたわ」と返される。何だか定期テスト前の学生の「全然勉強してない詐欺」に似ているが、私が一文字も書けていないと言うときは、本当に、一文字も書けていない)

 少しずつ近づいてくる〆切は、作家生命を絶とうとしてくる死神だ。

 〆切までの日にちが10日を切ると、まず私は不眠症になる。脳と身体を休めようと思っても、なかなか眠れない。何とか眠れても、1、2時間ほどで起きてしまう。ヤバい、ヤバい、今度こそ本当に間に合わないかもしれない。睡眠不足が原因か精神的なものか、胃痛や頭痛もひどくなり、心身ともに追い詰められていく。

 私は半泣きでパソコンに齧(かじ)りつきながら、小説に〆切なんてものがある方がおかしいんだよ、とぼやき始める。物語を作るってそういうものじゃなくない? 何て言うの? こう、自然発生的に? 内側から溢れ出てくるものを捕まえて形にするものなんじゃないの? 編集者はすぐに〆切〆切って言うけどさあ、こっちはスイッチ入れたら物語吐き出す機械じゃないんだよ。ていうか、スイッチがあるなら入れてくれよ。スイッチが見当たらない? そりゃそうでしょうよ。そもそも決められた期限に合わせて物語を作るなんて、人間がやることじゃないんですよ!

 ……いささか赤裸々に書きすぎてしまった気がするが、まあいいか。このエッセイから赤裸々さを除いたら何も残らない。

なぜ自分は変わってしまったのか

 とはいえ、これが純度100%の八つ当たりであることはわかっている。仕事として引き受けた以上、〆切があるのは当然で、依頼を受けることを決めたのは自分自身だ。もっと早く取りかかって仕上げておけばこんなに追い詰められることもなかったのに、ギリギリになるまでやらなかったのも自分なのだから、完全に自業自得で我ながら弁護のしようもない。

 しかし、なぜ私はこんなにも〆切に追い詰められるようになってしまったのだろう。

 ここまでの文章を読んできた方は意外に思われるかもしれないが、私は子どもの頃から夏休みの宿題を7月中に終わらせるタイプだった。やらなければならないことが残っているのが不快だからだ。どうせやらなければならないのなら、早く終わらせてしまった方が快適な精神状態で過ごせる時間が長くなる。

 そして作家としてデビューしてからも、数年間は〆切よりもかなり早いタイミングで原稿を提出していた。具体的には、編集者から提示された〆切のひと月半前に個人的〆切を設定し、ひと月前には第一稿を送るようにしていた。

 それは、仕事量自体が今より少なかったというのもあるが、何より自分をまったく信用していないからだった。本物の〆切を目標にすれば間に合わなくなる可能性が高い。改稿せずに掲載されるようなクオリティの第一稿を書ける自信もない。せっかく仕事というチャンスをもらったのだから、改稿の時間をたくさん確保できるようにして精一杯力を尽くしたものを世に出したい。……今の自分からは考えられないような優等生だ。まぶしい。

 いつから自分が変わってしまったのか、はっきりした時期はわからない。いつの間にかこうなっていた。

 では、なぜ変わってしまったのか。

 仕事への情熱が減ったわけではない。今だって、精一杯力を尽くしたものを世に出したいと思っている。仕事の総量は増えているとはいえ、不可能なほどは受けていない。むしろデビュー直後には小さかった子どもたちが大きくなって手がかからなくなり、仕事に集中できる時間自体は増えた。

 ただ、ひとつの仕事にかかる時間が明らかに増えているのだ。

 何となく、歳を取って体力や集中力が落ちたからなのだろうと思っていた。あるいは、デビュー前から抱えていた「書きたいこと」をひと通り書き尽くしてしまったから、ネタ出しに時間がかかっているのかもしれないな、と。

 だが、このエッセイ連載を始めて、久しぶりに〆切に追われるよりも早く、しかも一気に4本も書いてしまったことで、私はそれらが本質的な原因ではなかったのだと気づいた。

過去に書いたものの二番煎じはいやだ

 私が〆切的に先にやるべき他の仕事を後回しにしてこのエッセイばかり書いていたのは、とにかくひたすら楽しかったからだ。次から次へと書きたいことが浮かび、「WEBだから長くても大丈夫だけれど、とりあえず2500~3500字くらい書いてもらえれば」という依頼だったのにもかかわらず、気づけば4000字以上書いていた。

 「自分のダメ人間っぷりについて書く」というお題が書きやすかったのは事実だが、そのせいだけではない。私にとって、「ひとつのテーマで続けるエッセイ連載」なるものが初めての挑戦だったからだ。

 デビュー前やデビューして数年は、アイデアの種を見つけたら、それをどうやって物語にできるかを懸命に、がむしゃらに考えていた。

 今は、アイデアの種を捕まえた瞬間、どういうふうに転がせば物語になるかの案が即座に浮かぶ。けれど即座に浮かぶ案は、どれも自分が過去に書いてきたものの二番煎じだ。

 一度やったことがある構成だから、目指すべき完成形が見えやすい。登場人物の心理や身体感覚も「追い詰められている状況」「葛藤している状況」「真相に気づいて愕然(がくぜん)としている状況」などに応じたフレーズが、まるでストックのように脳内にある。それらをパズルのように組み合わせれば、ひとまず小説の形にはなるとわかる。わかってしまう。

 そして、「小説の形になったとして、それが何?」と考えた途端、モチベーションががくんと落ちてしまうのだ。

 つまり、書けば書くほど自分の中の「これはもうやった」という範囲が増えていき、過去の自分が作ったものに思考を邪魔されることになる構造的問題があるのである。

 ――いや、問題と書いてしまったが、本来これ自体は問題ではないのだろう。

 仕事を続けることによって経験値を上げ、プロとしての及第点を取る最短経路が見えるようになるのは悪いことではない。言い換えれば、コツをつかむということでもあるはずだ。

 読者からしても、作家にはその人が最も得意とすることをやり続けてもらった方が嬉しいだろう。たった一人の作家の本だけを読むわけでもないし、わざわざ時間とお金をかけて読むからには損した気持ちにはなりたくない。「こういう気分になりたいときはこの作家の本」というふうに安心して選べた方が便利に違いない。

 結局のところ、これはただ、前にやったことはもうやりたくないと考える私の個人的問題に過ぎない。

 それでは、なぜ私は前にやったことはもうやりたくないのか。

 書く前から書いた後の結果がほとんど見えてしまっていると、どういう物語になるのか、狙った構成と企みが本当に上手く機能するのか、といったワクワク感がなくなってしまうから。

 まず浮かんだのは、そんな理由だった。なるほど、たしかにワクワク感はモチベーションと繋がっていそうだ。でも、本当にそれだけだろうか? 私は「自分のダメ人間っぷりについて書く」と言いながら、まだどこかでかっこつけようとしていないか? 赤裸々さを除いたら何も残らないエッセイなのに?

 まるで引きを作るような書き方になってしまったが、既にここまでで4500字を超えてしまっているので、せっかくだからこれを引きにして今回は終わろう。

日経ビジネス電子版 2026年2月5日付の記事を転載]