ミステリの名手であり、ホラーや純文学なども手掛ける芦沢央(よう)さんのエッセイ連載。前回(参照:スピーチとかいうものを考えた人はポップコーンの固い皮が歯に挟まればいい)は、人前で話すのが苦手で作家という職業に就いたのに、なぜかスピーチをやらされるという話でした。今回は、昔から極度の方向音痴で、よく道に迷っていた芦沢さんが、仕事でも迷走を始めて……という話です。(編集部より)

絶対に当てにならない自分の直感を信じてしまう
前回、前々回と、私が専業作家になって以降失った社会性の例として立食パーティでの立ち振る舞い、そしてスピーチを議題に書いてきたが、昔から今までほとんど変わらず、安定のダメさを誇るものがある。
方向感覚だ。
道を2回曲がれば、自分がどちらへ向かっているのかわからなくなる。曲がらなくても道自体がくねくねしていると、やはりわからなくなる。建物に入れば出たときに元々どちらから来たのかわからなくなるし、歩き慣れた近所の道でも近道をしようとすればすぐに自分がどこにいるのかわからなくなる。
たった一段落で「わからなくなる」を4回も書いてしまった。小説の中でこの文章を書いたら編集者から「表現を変えてください」と指摘されるだろう。だが、方向音痴というのは同じフレーズを4回書いてしまうくらい同じ場所をぐるぐるしているのだ。目的地に近づいていると信じていても、いつの間にか同じ場所に戻ってきている。「こっちの道が正しい気がする」という直感で歩き始め、しばらくして正反対へ向かっていることに気づいて引き返す羽目になる。
この「こっちの道が正しい気がする」という直感も厄介だ。
何度も間違えているくせに、なぜ自分の絶対当てにならない直感を信じてしまうのだろう。前を歩いている人がいると、その人が自分と同じ目的地へ向かっているような気がしてついていってしまう。自分で地図を回して見ておきながら、常に上が北であるようなイメージで方角に見当をつけてしまう。何となく明るい道の方へ進みがち。虫か。
同行者からはいつも「ものすごく確信を持った足取りで歩き始めるから知ってるんだと思った」と驚かれる。
「違くない? って思ったけど、あまりに堂々としてるから思わずついてきちゃいました」
「いやー、しっかりしてくださいよ」
「芦沢さんには言われたくないです」
「そうそう、その調子で今後は私より自分自身を信じてください」
こんなやり取りで、大抵の人は以後私の方向感覚を信じなくなるのだが、私自身は何度間違えても自分を信じてしまう。毎回、道に呼ばれているような気持ちになって、今度こそいけると思ってしまう。
(ちなみに、これはちょっと方向音痴とは話がずれるが、私はよく電車も乗り間違える。ホームに降りたときに電車がちょうど到着していると、行き先も電車の種類も確認せずにとりあえず乗ってしまうからだ。道と同じく、その電車に呼ばれているような気になる。急いでいるときほど早く乗らなきゃと慌ててしまい、ドアが閉まってから逆方面行きであると気づく。各駅停車に乗るはずが通勤快速に乗ってしまって、目的地の駅を通過していくのを車窓に張りついたまま悲しく眺めることもしょっちゅうだ)
「何言ってるの、歩いて行く距離じゃないでしょ」
自慢ではないが、道に迷ったエピソードだけで、軽く本1冊分になるほどの量のエッセイを書ける自信がある。本当に自慢にならない。
学生時代にスペイン旅行に行ったときにも、グラナダで道に迷ってしまったことがあった。
アルハンブラ宮殿を出てグラナダ駅へ行きたいのに、歩けど歩けど目的のバス停が見えてこない。自分が地図上のどこにいるのかもわからない(当時はまだスマートフォンがなかったため、紙の地図を頼りにするしかなかった)。
最初こそ「見知らぬ街で散策するのもいいものだなー」とひとり呑気に楽しんでいたものの、周囲に観光客らしき姿がなくなってきた辺りで「もしかして、私は今迷ってるのか?」と気づいた(方向音痴な人は往々にして道を間違えていることに気づくのが他の人より遅い)。
このままでは、予定していたマドリード行きの列車に間に合わなくなる――慌てて近くにいた御婦人に道を尋ねたところ、顔をしかめられた。
「この地図はダメね」
え? 地図が間違ってるってこと?
「いい? あなたが今いるのは、ここ」
彼女が指さしたのは、地図からかなり離れた位置だった。地図上の範囲でバス停を探して歩き回っているはずが、いつの間にかはみ出て歩き続けていたのだ。
「このバス停に行きたいんですが、どっちへ歩いたらいいですかね?」と訊くと、「歩く? 何言ってるの、歩いて行く距離じゃないでしょ」と一蹴された。いや、私歩いて来たんですが……
親切な彼女は、最寄りのバス停へ連れて行ってくれ、やってきたバスを指さした。
「このバスに乗りなさい」
さらに運転手へ向けて、「この子はグラナダ駅へ行きたいそうだから、◯◯へ着いたら降ろして乗り換えさせて」と私の代わりに説明してくれる(◯◯がどこだったかは20年も前のことなので忘れてしまった)。
私は彼女に何度もお礼を言いながらバスに乗り込み、◯◯に着いたところでバスの運転手に改めて乗り換えについて教えてもらい、何とか事なきを得た。あのときの御婦人と運転手さん、本当にありがとう……
地図アプリ様のおかげで人に道を教えられる
このように、その時々でたくさんの親切な人に救われて生き延びてきたこともあり、私も人に道を訊かれたらできるだけ力になりたいと思っている。そして、ぼんやり歩いていることが多いからか、実際よく道を訊かれる。
ここで問題なのは、私に人に道を教える資格があるのか、ということだ。
私が張り切って全力で教えれば、かえって相手を迷わせてしまう可能性が高い。けれど「ごめんなさい、私方向音痴なので……」と断って置き去りにするのも気が引ける。迷っている人の心細い気持ちは誰よりもわかるからだ。
躊躇いながら「この道の突き当たりを右に曲がれば近づくと思いますが、私は方向音痴なので間違っている可能性もあります」と答えたところ、相手は複雑な表情になった。それはそうだ。信じるか信じないかはあなた次第――都市伝説か?
これでは余計に相手を不安にさせるだけだと気づき、やがて私は「方向音痴なので教えることはできないのですが」と断った上で、「あそこにいる人ならわかるんじゃないでしょうか」と教えてくれそうな人を教えるようになった。だてにしょっちゅう迷っていないので、どういう人に訊けば教えてくれるかの勘はあまり外れないのである。とはいえ、私はほとんど、というかまったく役に立っていない。
うう、恩返しがしたいのに……と歯がゆく思っていたら、素晴らしい文明の利器が登場した。地図アプリ様である!
これまでは、地図があっても自分がどこにいるかわからないから意味がなかった。けれど地図アプリ様は、何と私の現在地まで教えてくださるのだ。そうそう、それが一番知りたかった情報なんですよ……!
私は道を訊かれると、すぐさまアプリを表示するようになった。
「我々が今いるのはここですね。で、目的地はここです」
私のような人間でも、検索することはできる。
ただし、「で、ここからだとどっちの道へ進んだらいいですか?」とさらに尋ねられると、また途端に怪しくなる。ぎりぎりまで拡大した状態で数メートル動いてみることで方向を確認するが、GPSがずれている場合はお手上げだ。
小説ではどれだけ迷子になってもいい
さて、第1回のエッセイも読んでくださった方は、ここまで読んで疑問に思うことだろう。
あれ? この人、勤め人時代はちゃんとしていたって話じゃなかったっけ? と。
そう、その頃は結構ちゃんとしていたんですよ……ただ、それは迷子にならなかったわけではなく、「ちゃんとすること」を優先順位の上位に置いて、かなり早めに出たり下見をしておいたりタクシーを使ったりして何とかぎりぎり間に合わせていただけだったのです……
今は常に考え事をしているし、面白い人や建物を見かけるとそっちに気を取られてしまうから、すぐに自分を見失う。しかも出かける機会がグッと減ったことで電車に乗るのが毎回ちょっと久しぶりになり、満員電車に乗ろうものなら一発でヘロヘロになる(昔は毎日乗っていたのに……)。
まあでも、今の優先順位の第1位は小説だからしょうがないよな……と自分を甘やかそうとしていたら、先日小説においても同業者に「芦沢さん、どこに向かってるの」と心配された。
私が筆力を鍛えたい、今までと違う書き方を学びたいという理由で、いつものエンタメではなく純文学の編集部に修行に行ったときの話だ(少しマニアックな話になるが、エンタメと純文学では掲載される雑誌も担当する編集者も異なる。簡単に言うと芥川賞が純文学系、直木賞がエンタメ系だ)。
同じ小説でも、純文学とエンタメでは物語の作り方や文体が大きく異なる。私はなかなか自分を変えることができず、エンタメの仕事を一度完全にストップして短歌の勉強をすることにした。
編集者から「物語の筋を作ろうとしないでください。今向き合っているその一文のことだけを考えて、そこにあるものをひたすら掘り続けてください」と言われても、どうやればいいかわからずにいたのだが、頭の中にある漠然としたイメージをまず短歌に落とし込んで語彙を見つけることで、その語彙を頼りに文章を掘り出していけることがわかったからだ。
「は? 短歌って何? 芦沢さん、それ完全に迷走してない?」
「違うんですよ。これは文体を変えるための修行でして……」
「いや、だから何で文体を変える必要があるんですか。せっかく元の文体で読者がついてくれてるのに、どうしてわざわざ今の読者を振り落とすようなことしたがるのか意味がわからないんですけど」
そう言われて、ようやく私は自分が迷走していることに気づいた(繰り返しになるが、方向音痴は自分が迷子になっていると気づくのが遅い)。
しかし小説の良いところは、道と違って、どれほどおかしな方向へ進んでいるように見えてもそれが絶対に間違いだとは言いきれないことである。最短経路が正しいとは限らないし、迷えば迷うほど普段と違う景色を目にすることができる。そして、最終的に目的地が当初の予定から変わってしまってもいいのだ。
そう考えると、小説ではどれだけ迷子になってもいいわけで、そういう意味では私にとって小説家は天職と言えるのかもしれない。自分が進んだ道を正解だったことにするには、正解だったことになるまで歩き続けるしかないが。
[日経ビジネス電子版 2026年1月22日付の記事を転載]