ミステリの名手であり、ホラーや純文学なども手掛ける芦沢央(よう)さんのエッセイ連載。前回(参照:ミステリ作家が直木賞の「待ち会」で精神的に追い詰められた話)は、文学賞の発表を待つ「待ち会」についての話でした。今回は、芦沢さんが小説の題材にも選ぶ「将棋」についての話です。(編集部より)

「将棋をテーマにひとり反省会をする」?
前回は編集者からの提案で「待ち会」について書いてみたが、もう一つリクエストされたテーマがある。
それは「将棋」だ。
だが正直なところ、「将棋をテーマにひとり反省会をする」というのは、どうもピンと来なかった。
たしかに私は、将棋が好きな割にとてつもなく弱いので、指すたびに「は? 嘘でしょ? 何でこんな酷(ひど)いことになってるの?」という局面に向き合うことになり、自分を殴りつけたいような気持ちになる。
将棋は、自分の駒も相手の駒もすべて見えている完全情報ゲームだ。どれだけ予想外の酷い目に遭ったとしても、それは手が読めてさえいれば避けられた展開であり、「運が悪かったから」というような言い訳が通用しない。
そうした意味では毎回反省を強いられているわけだが、このエッセイ連載は私がいかにダメ人間かについて考えるというのがテーマであり、将棋においての反省はそれとは少し方向性が異なる。将棋で反省を強いられるのは、単に私の頭が悪いせいで手が読めないだけの問題だからだ。
けれど編集者にそう答えたところ、編集者は「そもそも芦沢さんはどうして将棋が好きなんですか?」とさらに突っ込んできた。
この質問は、これまでも至るところで繰り返しされてきたものだ。
私は将棋を題材にした小説を2冊刊行しており(『神の悪手』と『おまえレベルの話はしてない』)、その関係で棋戦の観戦記を担当させてもらったり、棋士の方と対談させてもらったりしている。新刊プロモーションとしての取材だけでなく、将棋に関する取材を受ける機会も少なくなく、そこでは大抵「なぜ将棋に興味を持ったのか」「将棋のどこに魅力を感じているのか」を訊かれるからだ。
「選択を表明するのが怖い」という悩み
「なぜ将棋に興味を持ったのか」という問いについては、「奨励会に惹かれたから」と答えてきた。
奨励会とは、プロの棋士になるための養成機関で、26歳になるまでに四段に昇段できないと退会させられる厳しい場所だ(わかりやすいようあえてざっくり説明したが、例外規定もある)。全国各地で神童と称されてきた将棋が強い子どもたちが集まり、プロになるという夢を追って戦い続けるわけだが、その中でプロになれるのはほんのひと握りで、10代から20代前半の人生のすべてを将棋に費やしても、ほとんどの人が夢を叶えられないまま退会を余儀なくされる。
将棋と小説ではシステムも厳しさもまったく異なるだろうが、私自身10代の頃に小説家になりたいと思って新人賞への投稿を始めてからデビューするまでに12年かかっており(デビュー時は28歳)、「夢」にはキラキラした輝かしいイメージよりも、人生を食い潰す恐ろしいものだというイメージを抱いてきた。
何とかして小説家になる夢は叶えられたものの、だからこそ未だに夢のあきらめ方がわからない。小説家として生活していくようになったらなったで、また別の野心や挫折と向き合わざるをえなくなり、まだ自分は夢を追い続けているという感覚もある。
そのため、夢の恐ろしさが凝縮されている「奨励会」について知りたくなった、というのがきっかけだったのだが、いざ将棋について勉強を始めてみると、予想以上に「将棋」というゲームそのものが持つ恐ろしさの虜になってしまった。
上でも書いたが、将棋は負けても運のせいにできない。すべての責任をたったひとりで負わなければならない中で、交互に一手ずつ指さなければならない。手を読み切れなくて、次に何を指せばいいかわからなくても、パスすることはできず、必ず選択を表明しなければならないのだ。
自分が選んだ手が、今まで積み上げてきたものを台無しにしてしまうかもしれない。盤上に自らの未熟さが炙り出されてしまうかもしれない。なぜもっと先を読むことができなかったのかと後悔することになるかもしれない――そんな恐怖と闘いながら指し手を選び続ける棋士の姿に心を打たれているのだ、という話までしたところで、あれ、もしかしたらこれはひとり反省会のテーマになるのでは? と気づいた。
選択を表明するのが怖いという悩みは、まさに私が抱き続けていることだ。
小説家として活動していると、様々な局面で立場の表明を求められる。
社会問題に関して、世界情勢に対して、現実に起きた出来事について、「芦沢央はどう思うか」を訊かれるのだ。
もちろん、差別や加害は容認できない。人権を侵害する行為は絶対にあってはならない。ただ、だからこそ、個々の出来事に対して何か意見を表明するのであれば、状況を詳しく確認し、複数の見方に目を通して多角的に考えた上で自分なりの見解を見つけ出したく、そのためには私の場合、数カ月から数年の時間がかかってしまう。
自分なりの見解が固まっていない状態で、第一感で浮かんだ言葉をすぐに表明することができないのは、私が、一度でも立場を表明したらそれを補強してくれる情報ばかりを集めてしまう弱い人間だからだ。
自分の思慮や情報収集が足りなかったことを突きつけられるのが怖いから、同じ意見ばかりを目にして安心しようとしてしまう。やっぱりそうだよね、と確認して、そこで思考停止してしまいがちになるのだ。
ただでさえ、現代ではSNSや検索エンジンがユーザーの「見たい情報」を学習し、それに類似したコンテンツを優先的に表示するアルゴリズムになっているせいで、反対意見を目にすること自体が難しくなってきている。フラットに多角的な情報を集めるには、あえて自分と真逆の意見を検索エンジンに打ち込んだりして、意識的に探さなければならない。
これまでにも、何度か声明に参加したり、SNS上で意見を表明したりしたことはある。しかし、そのたびに私の思考は硬直化し、フィルターバブルの中で縮こまる自分の弱さを思い知ることになった。
物語を書くことを通じてテーマを考え続ける
やはり、私には即座に何かを表明するよりも、時間をかけて情報収集をしながら考え続けていく方が合っているのかもしれない――そう考えた私は、自分でもすぐには答えが出せない問題について小説のテーマに据え、物語を通して考えていくようになった。
物語を書くためには、登場人物の心理や目に映る光景や日常を否応なく考えることになる。自分にとって理解できない行動を取る人間が登場する場合、なぜそうした行動を取るのかを探らなれば書けない。
だから私は、たとえば罪を犯す人物が登場するとしたら、まずその人の「罪を犯さなかった1日」を書く。なぜなら、その人にとっても罪を犯す瞬間は非日常であり、物語内では光が当てられることのない「何でもない1日」にこそ、一線を越えてしまう理由の核があると考えるからだ。日常を追い、その人物が何に重きを置いているのか、何を恐れているのかを探った上で、その原稿は捨て、物語に登場するシーンを書くようにしている。
つまり、物語のテーマに据えれば、必然的に、時間をかけて多角的に考えるようになるのだ。
だが、ここ数年、それでは間に合わないと感じることが増えた。
たとえば、この連載の第8回でも軽く触れた通り、私は高校3年生の頃から20年以上パレスチナ問題に関心を持ち続けており、2022年にはガザを舞台にした短編小説を書いた。それによって、自分の場合は論文を読み続けているよりも物語を通した方が思考が深めやすいと感じ、さらに続きを書こうと準備していた矢先、ガザ人道危機が「始まった」(無論、ガザの人道危機は2023年に始まったものではない。問題について考えると2000年代の大規模空爆や分離壁の建設、1967年の第3次中東戦争、1948年のイスラエル建国、第1次世界大戦中のイギリスによる三枚舌外交……と遡っていく必要がある)。
私が手を指さず、ひたすら長考している間にも、たくさんの命が失われ続けている。
なのに私は、自らの見解を保留することがやめられない。
やはり棋士も手を選ぶことは恐怖なのだ
それは、パレスチナ問題について勉強する中で、自分が飛びついた「わかりやすい説明」が誤りだったことを知る機会が何度もあったからだった。パレスチナ問題を宗教戦争として説明する本の後に、宗教戦争と捉えるのはまったくの誤りだと論ずる本に出会った。シオニズムが、エルサレムにある「シオンの丘」に帰ることを掲げた理念であり、パレスチナの地でなければならない必然性があるのだという記述に納得しかけたところで、シオニズム運動の対象地にはアルゼンチンもあったという文章を読んで混乱した。
答えを求めて大学では中東史を専攻したが、様々な論文を読んでも一次史料にあたっても、何となくわかったような気になることすらできなかった。ひとつの出来事に対していくつもの解釈が存在し、新しいことをひとつ知るたびに、その経験自体がまだ見えていない別の情報の可能性を突きつけてきたからだ。
絶対に少しも間違えたくないのなら、判断しないしか手がない。どこかで仮説だろうと意見を固めて表明するためには、間違いの可能性を呑み込む覚悟をしなければならないのだ。
ある棋士の方に「長考中は何を考えているんですか」と尋ねたことがある。
その方の答えは、「もちろん必死に手を読んでいますが、それよりも結果を受け入れる覚悟をするのに時間がかかっている気がします」というものだった。
やはり、棋士も手を選ぶことは恐怖なのだ。どれだけ優勢でも、一手間違えるだけで形勢が逆転することは少なくない(棋戦のライブ中継画面には形勢が%で示され、AIが導き出した次の最善手が何か、それ以外の手を指せばどれだけ形勢が変わるのかが表示されているが、当然のことながら対局者には盤上しか見えていない。たったひとり、自らの頭脳だけで選ばなければならない中で、AIが薦める手は人間には読みづらいものも多く、90%以上の優位を築いていた側が一手で10%以下になってしまう展開はよくある)。
そして、将棋ではすべての情報が開示されているのに、すべての手の先を読み切ることはできない。なぜなら、一手ごとに十倍、百倍、千倍と分岐が増えていくわけで、限られた時間で何兆手も読むことなど人間には不可能だからだ。
棋士は、まず数手に絞り込んでその先の手を読むのだという。その時点で選択を間違えていたら、正解には永遠に辿(たど)り着けない。さらにそれぞれの分岐を検討した結果、どこかで切り上げ、手を指す。秒読みに追われていない限り、どこで切り上げるのかにも、決断が要る。
そうした両者の決断の積み重ねの結果として勝敗が決まるわけだが、将棋は、必ずどちらかの投了でゲームが終わる。負けた側が負けを認めなければ、ゲームが終わらないのだ。
「負けました」という言葉の後には、感想戦が待っている。感想戦とは、対局者2人で、それぞれの局面の分岐について検討する場だ。負けた側は、自らの敗北を認めた上で、すぐに何が「間違い」だったのかに向き合わなければならない。
それでも棋士たちは、対局をやめない。負けても思考を硬直化させることなく、原因と向き合い、また決断を繰り返す。
私は、何よりもその心の強さにこそ、惹かれているのかもしれない。