ミステリの名手であり、ホラーや純文学なども手掛ける芦沢央(よう)さんのエッセイ連載。前回(参照:ミステリ作家が「○○にオススメの3冊」を簡単には選べない理由)は、「最近読んだ中で一番面白かった本」のような選書の仕事が想像以上に難しいという話でした。今回は、「人の名前を間違えてしまう」のを反省する話です。自分が間違えられるのは気にしないのに、人の名前を間違えてしまうのは申し訳ないという芦沢さん。そこから話は意外な方向へ……(編集部より)
「人の名前を間違える」のを反省するのは難しい
先日、SNSの投稿で人の名前を書き間違えてしまった。
これは反省しなければ……と思ったのだが、いざ「ひとり反省会」を始めようとしたところで、このテーマは書いて発表してしまって大丈夫なのだろうか、と手が止まった。
なぜなら、私自身がよく名前を間違えられるからだ。
最も多いのが「芹沢央」という間違いだ。芦と芹の字が似ていて芹沢という苗字の人も多くいる上に、「萩原」と「荻原」のように間違いやすい苗字だという認識がそこまでないからなのだろう。
「芦田央」という間違いもたまに見かける。惜しい。芦の字までは合っているのだが、そこで芦田愛菜ちゃんのイメージから田が出てきてしまうのだろうか――と思ったが、ネット上で調べてみたところ芦田央(あしだ・ひろし)さんという方もいらっしゃるらしい。私が見かけた投稿は私の小説についての感想だったので、芦沢央の間違いなのだろうと思うものの、もはや本当に間違いなのかどうかもわからなくなってくる。
「芦沢央」という漢字は合っているが、読み方が「あしざわ・おう」になっているものもよく見かける。これは「央」と書いて「よう」と読ませる私が悪い。わかりづらくてすみません(読み方がややこしいからか、「芦沢央」の読みを答えさせるクイズの問題も見かけたことがある)。
つまり、私がこの件で反省会をすると、暗に私の名前を間違えた人を責めるような構図になってしまうのだ。
そんな意図はまったくないのだが、「私は間違えられても全然気にしてないですよ」と書くと、今度は自分が間違えたことについてまったく反省しておらず、開き直っている感じがする……難しい。本当に申し訳ないことをしてしまったと思っているんです……
やはりエッセイ連載としての「ひとり反省会」のテーマにはふさわしくないのではないかと考えて、書くのはやめようかと思ったのだが、ふと、この難しさについて考えるエッセイがあってもいいのではないかと思い直した。
反省会としての難易度は上がるが、いつも通り見切り発車でやってみよう。
自分が間違えられるのは気にしないのだが…
さて、まず、なぜ私が名前を間違えてしまったことを反省したいと考えているのかといえば、一般的に名前を間違えることは大変失礼なことだとされているからだ。
名前はその人の大切なアイデンティティそのものであるため、間違えられると軽視されていると感じる人が多いだろう。ビジネスシーンにおいては、名前を間違えることが「他の重要な業務でもミスするのではないか」という不信感に繋がることもあるはずだ。
そう考えると、自分が本当に申し訳ないことをしてしまったのだと改めて感じられ、消え入りたくなる。
ただ、信用度に関わるという点については、その通り私は迂闊(うかつ)な人間だから私のことは信用しないでほしい……と思うものの、軽視していると感じられてしまうのは無念に感じる。
そもそも私はどうでもいい相手のことについては投稿すらしない人間で、その人のことを大事に思っているからこそ投稿しているからだ。
だったら名前を間違えるなよ、と言われれば、本当にそうですよね……としか言いようがない。自分でも、なぜ間違えてしまうのかわからない。間違えないようにと思って、その人の名前の漢字を調べ直したり、一度下書き保存をして時間を置いた上で見返してから投稿したりするようにしているのに、それでも間違えてしまうことがあるのだ。
私の目は節穴なのだろう……(そういえば、前に小説内でカインとアベルについての話を書いたことがあったが、作中に出てくるアベルのうちの一部がなぜかアダムになっていたことがあった。アベルと書くべきところで唐突に4人ものアダムが登場していたのである。編集者さんや校閲者さんのおかげで、本になるときには不要なアダムは全員消しきれたはずだが、まだ残っていたらと思うと怖いので読み返せない。『カインは言わなかった』という本なので、もしアダムを見つけた方はこっそり教えてください……)。
私は自分自身がそうした人間なため、人に名前を間違えられても「そういうこと、ありますよね……」としか思わない。刊行物やWEB記事での間違いは、放置すると勘違いが助長されてしまうおそれがあるため訂正を依頼するが、それで先方に平謝りされると「ああ、今気まずい思いでいっぱいなんだろうなあ」と共感して一緒に気まずくなってしまう。
しかも、私は名前を間違われることをちょっと面白いと思っているところさえある。
いつぞやのエイプリルフールでは、わざと自分のアイコンを「芹沢央」に変えて遊んでいたこともあったくらいだ(そういう悪ふざけをするから、余計にみんなを混乱させてしまうのかもしれない。ごめんなさい)。
だが、私ほどの粗忽(そこつ)者はなかなかいないだろうから、多くの人は私に間違えられたときに私と同じようには思わないだろう。よく考えたら、何が面白いのかわからないので、私と同じように面白がってくれるとも思えない。
そのため、自分がやられるのはまったく気にならないものの、自分がやってしまうと本当に申し訳ない気持ちになる、という現象が起きるのである。
これは「自分がされて嫌なことは他人にしない」という教えによってしばしば生じる、「自分が嫌なことと他人が嫌なことが必ずしも一致するとは限らない」問題に繋がる話だろう。
実は私は、幼い頃に受けたこの教えを、高校生になるまで絶対的に正しいものだと信じていた。これさえ守っていれば大丈夫だというお守りか何かのように思っており、人それぞれに異なる価値観や感情や人生があるということが上手く理解できていなかったのだ。
この「ひとり反省会」の第17回で書いたように、小・中学生の頃にもそれなりにたくさんの小説を読んできたはずなのだが、その中で自分と異なる考え方に触れて、なるほどそういう考え方もあるのかと思っても、それを現実の人間関係に反映させて考えることができなかった。単に「私もこういう考え方をしてみようかな」と自分に引き寄せてみるだけで、現実に存在する他者がそういう思考をしているかもしれないという可能性にまでは思いが至らなかったのだ。
人はそれぞれ異なる人生を生きている
それが変わったのは、自分自身が高校時代に小説を書くようになってからだった。
物語を作ろうとすると、どうしても自分以外の人生を生きる人間の価値観や感情を想像することになる。同じ出来事を前にしても、人によって反応や思考が変わるわけで、「この人にとってこの出来事はどう見えるのか」をその人になりきって思い描けなければ物語を書き進めることはできない。
そうしてひたすら一人ひとりの登場人物の心理やその人に見える景色を探ろうとしていくうちに、あれ、と思った。もしかして、あの教えは万能ではないのか? と。
そこに疑いを持って読むようになると、物語の読み方もがらりと変わった。
それまでの私にとって、物語とは、自分の中のもやもやに名前をつけてくれたり、新しい思考の仕方を教えてくれる優しくて頼りになる存在だったのだが、本当は見たくないものも容赦なく見せてくる恐ろしい存在でもあるのではないかと考えるようになった。
特に私を揺さぶったのは、登場人物がそれぞれに自らの感情や論理で善悪の判断をし、相手の意図や欲求や正義を理解できないでいる物語たちだった。両方の視点を読んでいる読者からはわかることが、登場人物にはわからない。そして、そのことを歯がゆく思った瞬間、「あ、それぞれに異なる人生を生きているってこういうことか」と気づいたのだった。
小説に出会っていなかったら、私は今頃どんな人間になっていたのだろう、と考えると怖い。
もちろん、小説を通じてでなくても同じ気づきを得ることは可能だろう。だが、高校生になるまで「相手の立場に立って考える」という人間関係の基本とされることができていなかった私は、大人になってもできるようになっていなかった可能性がある。
いや、今だって本当にできるようになっているのかというと怪しい。いくら「相手の立場」を想像したいと願おうと、結局私は、「相手のこれまでの言動」や「相手が置かれた状況」という私の頭の中にある知識によって推測することしかできないからだ。
そう考えると、「相手の立場に立って考える」というのは、何と難しいことなのだろう……これが基本ってどういうこと?
この課題には、これからも取り組み続けていくしかないだろう。
「人の名前を間違えてしまった」という当初の反省から随分話が広がってしまった気がするが、とにかく私が自分をもっと疑った方がいいということだけは、たしかなようである。
