科学が発達し、情報があふれる時代にどう生きるか。世界的な生命科学者である吉森保・大阪大学栄誉教授は、「科学的思考」こそが、これからの時代を生き抜く基礎教養になると説きます。今回は、行動経済学の第一人者である大竹文雄・大阪大学大学院教授との対談の後編です。行動経済学と生命科学は「人間は、まわりの環境に合わせて変わる」という点に注目しているところがよく似ています。環境によって、人間はどう変わるのか。吉森氏の著書『 LIFE SCIENCE(ライフサイエンス)長生きせざるをえない時代の生命科学講義 』を切り口に考えます。
( 対談前編 から読む)
細胞が変化すると、人間の行動も変化する?
吉森保(以下、吉森):大竹先生は著書『 行動経済学の使い方 』で、「人間は単純ではない」という前提を書かれていますが、それが興味深かったんです。生物学と似ていると思いました。生き物は、環境によって「進化」する場合があります。生き物は環境によって変わっていき、固定された存在ではありません。生き物を支える細胞一つひとつの仕組みも単純ではなく、同じ体の中でも、環境に対応できる部分もあればできない部分もある。行動経済学が想定している人間像も、これと似たようなものだなと感じました。
大竹文雄氏(以下、大竹):吉森先生に聞いてみたいとずっと思っていたのですが、「細胞が変化すると、それが形作る人間の判断も変わること」は起こり得ますか?
吉森:「環境に合わせて細胞が変わると、人間の行動も変わるか」ということですか? はっきりと「変わる」と言えませんが、可能性としてはとてもあると思います。著書『LIFE SCIENCE』にも書いていますが、細胞の中は、まるで人間の世界のような大きな社会なんです。交通網があったり、ごみ処理場があったりなど、細胞の中が一生懸命働いてくれているから、私たちは生命を維持していられます。人間はその細胞の集まりですから、中身が変われば、行動も変わることはあり得ますね。

1961年京都府生まれ。1983年京都大学経済学部卒業、1985年大阪大学博士(経済学)。大阪大学社会経済研究所教授を経て現在大阪大学大学院経済学研究科教授。専攻は行動経済学、労働経済学。『日本の不平等』(日本経済新聞社)により2005年日経・経済図書文化賞、2005年サントリー学芸賞、2005年エコノミスト賞を受賞。著書に『行動経済学の使い方』(岩波新書)、『経済学的思考のセンス』(中公新書)などがある。2006年日本経済学会・石川賞、2008年日本学士院賞受賞。
人間は、それが損でも目先の小さなリスクを避けてしまう
大竹:それはとても面白いですね。人間の行動1つとっても、体ではさまざまなことが起こっているんですね。『行動経済学の使い方』にも書いているのですが、伝統的な経済学では、「人間は常に合理的な選択をする」と考えます。最高に頭のいい人間を想定しているんですね。もちろん、全員が常に賢いと考えているのではなく、競争にさらされている賢い人が勝者になるので、その人の行動を描写できれば経済の動きが分かるということです。
ただ、最近になって、人間はかなり特定のパターンで「合理的」な行動からズレることが分かってきました。小さなリスクでも怖いと思ったり、逆に災害が迫ってきているのに大丈夫と思ったりします。損だけは絶対に避けたいと思いますし、嫌なことを先延ばしします。それに、金銭的な損得だけではなく感情に基づいて選択することも多いです。ちょっとした表現で、意思決定を変えてしまいます。それならば、他者が介入して、より良い判断を促すことが本人や社会の役に立つのではないかと考えたのが行動経済学です。
吉森:コロナ対策でも、どのような人間像を前提にするかで感染者数のシミュレーションが変わりますよね。例えば、疫学や感染症の研究者のモデルはシンプルです。感染リスクを恐れずに、どんなことが起こっても同じ行動を取り続ける人間が前提です。研究者自身もそれがシンプルだとは認識していますが。ですから、緊急事態宣言を解除すると、感染者数は爆発的に増えて元に戻ってしまうという議論になりがちですね。
大竹:一般的に、伝統的な経済学者は、新型コロナが本当に危険だったら人は自粛するはずだと考えます。それなら、一定の期間が経過すれば、「自然に感染者数が減少するのでは」とまず仮説を立てますよね。それでも減少しない場合にどう考えるかというと、「多くの人は、自分が感染しなければ問題ないと考えていて、自分の活動のせいで人に感染させてしまうところまで想像できていないのでは」という仮説を再び立てます。「他者のことまで考えない人が多いならば、人のことを考えない人に罰則を与えるべきだ」というのが、伝統的経済学です。
でも、私たちには、もともと利他心があるけれど忘れがちだというように考えれば、「あなたの感染対策で人の命が助かります」という利他的なメッセージを発信することで感染者数は減少するかもしれません。これが行動経済学です。緊急事態宣言も、他者への感染防止の意識を促すことにあると考えるわけです。
学問を体系化すると、誰もが使えるようになる
吉森:生命科学と行動経済学は、非常に柔軟に現実を見ている点が共通していると思います。 対談前編 で、大竹先生は「理系がうらやましい」とおっしゃっていましたが、私からすれば行動経済学は応用範囲が広いのでうらやましい。例えば「ナッジ」(「ひじで軽くつついたりする」という英語。強制ではなく、選択する自由を残しながら、より良い方向に後押しする考え方)ですね。これは家庭でも国の政策でも使えますよね。
大竹:そうですね。新型コロナ対策でも手洗いの慣行や列に間隔を空けて並ぶなど多くの場面でナッジを見かけました。私も専門家会議のメンバーとして、「同じ内容でも表現の違いで意思決定は変わる」、「人ができることを押し出すことで損失を感じにくくなる」などの行動経済学の考え方を提唱してきました。例えば「帰省は控えて」より「ビデオ通話でオンライン帰省」と打ち出す方が効果が見込めるわけです。ただ、同じ呼びかけでは慣れが出てきてしまいますから、これからは状況に応じて発信する内容を変える必要があります。
特に、「怖いメッセージ」は一時的にすごく効くのですが、長続きするのは、やっぱり楽しい方なんですね。ちょっとくじの要素があったりとか。人間は、楽しい要素がないと長続きしない、というのも行動経済学で分かってきました。
吉森:ナッジは医療にも絶対に有効ですよ。人々を、病気にならないようにどう行動させるかの仕組みをつくることができれば素晴らしいことです。これは完全に行動経済学の世界になります。そうなった時に、行動経済学という学問分野が存在しなければ、こうした仕組みを考える人がいても知として共有されませんから、有効な仕組みを提供される患者もいれば、提供されない患者も出てきてしまう。「学問が体系立てられる」と、広い範囲で、いろんな人が使えるようになります。だから、この意味は非常に大きいですね。
大竹:行動経済学が学問として成立していない頃は、ナッジは一部の天才肌の人が感覚的に使っていた職人芸だったと思います。ビジネスの世界では天才的なプランナーやコピーライターが駆使して購買意欲をかき立てていたでしょうし、政治の世界ではカリスマと呼ばれる政治家がよくも悪くも人々を誘導していたはずです。学問として成立したことで、天才でなくても効果的なマーケティングができるようになりましたね。
吉森:考え方によっては、簡単に悪用しようと思えばできるようになったともいえますが、体系立てられたことで、悪用を防ぐことも可能になったともいえますね。

[日経ビジネス電子版 2021年2月19日付の記事を転載]
世界的生命科学者であり、ノーベル賞受賞者の共同研究者でもある著者による、入門から最先端まで、生命のことが分かる一冊!
2016年ノーベル生理学・医学賞受賞 大隅良典氏、元日本マイクロソフト社長 成毛眞氏推薦!!
人生100年と言われる時代ですが、それはただ寿命が延びただけの話。寝たきりやアルツハイマー病で何年も過ごさなければならないこともあります。しかし、生命科学は「死ぬ寸前まで健康でいる」ために日々発展しています。
この本は、世界的生命科学者が、細胞の話といった生命科学の基本から抗体やウイルスの話、そして最先端の知見を、極めて分かりやすく教えてくれる本です。昔は医療の選択肢は多くなかったので、知らなくてもよかったのですが、現代は、医療はもちろん、生活にも生命科学は入り込んでおり、いちど学んでおかないと自分で判断ができません。
筆者は、2016年にノーベル賞を受賞して話題になった「オートファジー」の世界的権威でもあります。オートファジーが分かれば、「細胞を新品にする機能」=「アルツハイマーや生活習慣病をなくす可能性がある」ことが分かるので、必然的に「老化」はどうなっているかなどの長生きの最先端研究まで知ることができます。
吉森 保(著)、日経BP、1870円(税込み)