できれば病気にならず、長生きしたい――。こういった人間の夢や病気や老化に深く関わるのは細胞です。世界的な生命科学者である吉森保・大阪大学栄誉教授は「どんな病気も老化も、細胞が悪くなることから始まる」と言います。今回対談をしたジャーナリストの川端裕人氏も「細胞は、生物学全般を見渡すのに適切」だと共鳴します。今回は「細胞を知ると生物学が分かる」をテーマとし、吉森氏の新著『 LIFE SCIENCE(ライフサイエンス)長生きせざるをえない時代の生命科学講義 』を切り口に、細胞と病気について考えます。対談前編です。
「老化しない」にはもう理論的なベースがある
川端裕人氏(以下、川端):『LIFE SCIENCE』を読んで、私にとって収穫だったのは、寿命が延びたり、老化が防げたりという話題は単なる夢物語ではなくて、ちゃんと理論的なベースがすでにあるんだと気づかせてくれた点です。ここ数年、人間が不老不死に向かって近づいていると説くサイエンス本が出版され、それなりに売れています。ただ、これはあまりに虫がいいですし、正直話半分に受け取っていました。しかし、この本で、先生の専門であるオートファジーは「掃除して新品にする役割」で、それを強化することによって老化が緩やかになり、健康を保てるということ自体は決して夢物語ではないんだと考えさせられました。
吉森保(以下、吉森):私はもともと老化の専門家ではないんですが、オートファジーの研究をしていたら、たまたま行き当たったんです。『LIFE SCIENCE』に詳しく書きましたが、オートファジーには、有害物を取り除く機能があることが分かりました。つまり、傷ついたミトコンドリアを回収したり、「アルツハイマー病やパーキンソン病などの原因になる凝集したタンパク質や細胞に侵入した病原体など」を除去したりするのです。これで病気との関係が注目されて、近年、研究が加速しています。
もうひとつ重要なのが、細胞の新陳代謝の役割です。たとえ栄養状態が良くても、オートファジーは、皆さんの体の中で毎日少しずつ起こっています。何をしているかと言うと、細胞の中身を入れ替えているんですが、この機能は老化とともに低下してしまいます。それには私たちが見つけた「Rubicon(ルビコン)」というタンパク質が関係していることも分かっています。ルビコンはオートファジーを抑えるブレーキ役で、これは加齢とともに増えます。つまりこのルビコンがオートファジーの働きを邪魔し、それが老化の一つとも言えるんですね。正直、私の研究だけでなく老化の研究は一昔前に想定していたよりも進んでいますね。

1964年兵庫県生まれ。千葉県育ち。文筆家。東京大学教養学部卒業。ノンフィクションの著作として、科学ジャーナリスト賞、講談社科学出版賞を受賞した『我々はなぜ我々だけなのか』(講談社ブルーバックス)のほか、『動物園から未来を変える ニューヨーク・ブロンクス動物園の展示デザイン』(共著、亜紀書房)、『「研究室」に行ってみた。』(ちくまプリマー新書)、『「色のふしぎ」と不思議な社会 2020年代の「色覚」原論』(筑摩書房)など。小説には『夏のロケット』(文春文庫)、『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)など多数。
川端:最近、東京大学の中西真教授が、加齢関連疾患の「老化細胞」だけを除去する薬剤を発見したことも話題になりました。中西先生の研究はマウスの実験で病気の改善にも成功した段階でしたが、5年、10年後には人を対象に治験ができている可能性もあるんですか。
吉森:あり得ます。今回の発見が重要なのは、細胞の老化のメカニズムが分かったことなんですね。細胞の老化と個体の老化は、関係はありますが、イコールではないんです。つまり、細胞がどのように老化するかは分かっていませんでした。今回、メカニズムがだいたい分かったことで、効果のある薬剤が開発できました。中西教授とは私も国のプロジェクトで共同研究していますが、今後、健康寿命が延びるのは間違いないでしょうね。
川端:いわゆる不老不死について、老化しないこと(不老)と、死なないこと(不死)は別だという話も、目から鱗(うろこ)が落ちました。健康寿命の話で、本の中に人間の常識では考えられない生き物が紹介されていましたね。ネズミの一種であるハダカデバネズミは生きているあいだじゅう完璧な健康を維持し、あらかじめ定められた時がくるといきなり死ぬとか、インドの動物園で飼育されていたアドワイタという名前のアルダブラゾウガメは、死んだときの見た目は若いカメと全く遜色ありませんでしたが、なんと250歳だったそうですね。あと、アホウドリもそうだとか。つまり、「ピンピンコロリ」を地でいくことになりますが、これらの動物が、老化しない生き物の理想型と言えますね。
吉森:そうですね。ハダカデバネズミは老化しないし、ガンにもほとんどなりません。「これはすごい」ということで、今、ハダカデバネズミの専門家の先生と一緒にハダカデバネズミのルビコンがどうなっているかを調べています。
川端:実験室でハダカデバネズミは飼えるんですか。私、実は動物園の本を何冊か書いていて、動物園に知り合いが多いんですが。日本でハダカデバネズミを飼っている動物園は、何園かある程度ですよ。
吉森:長い間、飼うのは難しかったみたいですよ。ハダカデバネズミはアリやハチといった昆虫のように女王がいて労働階級があるような社会を持ちます。女王のみが妊娠するので、繁殖効率が低く、個体の研究はなかなか進まなかったんですね。共同研究している先生が効率的な繁殖法を見つけたことでハダカデバネズミが研究対象になりました。
川端:もし、他の野生動物で注目すべき種があるなら、今の動物園は研究者との共同研究にオープンですからぜひアプローチされるといいかもしれません。動物園に野生動物がいる意義の一つは、博物館の標本と同じように生きた標本を提供することだという意識が明確になってきているので。もちろん以前から動物園では大きな動物が死ぬと必ず博物館に連絡して、標本を作るのに協力したりはしてきたんですが、今は、生きている時点での研究を研究者と一緒にやっていこうという考え方です。きちんとした目的があれば、排せつ物や血のサンプルも提供してくれます。
吉森:血があればいろいろ調べられますね。今、大阪大学では寿命が非常に短い魚(寿命3~6カ月程度。飼育可能な脊椎動物の中で最も寿命が短い)の研究者も在籍していて、共同研究をしています。老化の分野で動物に着目するというのは確実に一つの流れになっていますね。
生物学はアップデートされている
川端:最近、私たちが接する生物学のニュースは、ゲノムに関するものが多くなっています。一方、私は1964年生まれですが、私たちの世代はやはり「生物学」と言えば細胞ですよね。高校の教科書もそうでした。当時はゲノムについてまだ分かっていなかったということもありますが、いつのまにかメインストリームが変わっていたと感じます。ただ、『LIFE SCIENCE』を読んで改めて思ったのは、細胞を理解するのはものすごく大事だということです。ゲノムのことが分かっても、それが実際に働くのはまずは細胞レベルなんですよね。
吉森:そうですね、すべて生命の基本は細胞です。『LIFE SCIENCE』でも書きましたが、細胞を理解するのに最も大切なのは「階層」、分かりやすく言うと「大きさ」です。例えば、細胞があって、細胞の中に、それよりもとても小さい細胞小器官があり、さらに小さいタンパク質があることを認識することが重要です。これらは、大きさの次元が全く違います。異なる階層にあるんですね。そして、細胞が集まったのが組織や臓器で、この階層になると、目に見えます。

川端:新鮮だったのは、細胞の中でのさまざまな細胞小器官の動きが生き生きと描かれていることです。私が高校生の頃は、細胞小器官は働きが分かっていないものも少なくありませんでした。加えて、当時は細胞内を静止画でしか見られなかったのに、今では研究技術の進歩により、動いている様子も見られるようになっています。その動きが文章なのに非常に分かりやすく書かれていました。20世紀に高校生だった人がこの本を読むと感動すら覚えるはずです。
吉森:昔の教科書には、ミトコンドリアとして和式の便器みたいな細胞小器官が載っていましたよね。でも、実はあれは死んでいる状態の形で、生きたままだと紐(ひも)状です。イメージング革命といわれるくらい、ここ10年の間に研究技術は向上しましたね。
川端:そうですよね。娘が今、大学生なんですが、高校時代に娘の生物の資料集を見たときに、見たことがない写真が載っていました。学んでいる内容もけっこう細かいんですね。細胞内の出来事も意外に丁寧に書かれていた記憶があります。
吉森:私も大学の教員として入試問題を作るので高校生の教科書を見ますが、「今はこんなことまで教えるのか」と感心します。あれを覚える学生は大変だなというのが率直な印象ですね。実際、生物を選択する受験生は激減しています。
川端:そうなんですか。娘は生物を選択していましたが。
吉森:それはすごいですね。覚えることが多すぎて、どうも敬遠されてしまうようです。大阪大学医学部の新入生も、入試で生物を選択した人は少ないです。個人的には、高校では知識を犠牲にしても、発見のプロセスを教えた方がいいのではないかなと思います。『LIFE SCIENCE』を読んでもらうと分かると思いますが、研究というのは、大半は地道な作業の積み重ねですからね。研究者にならない人でも、自分の頭で考えて発見することを知っておくのはとてもいいことだと思います。
川端:そうですよね。なぜこのような仮説が導かれたのか、どのようにしてそれが発見されたのかが分かっていないと、社会人になり、教育を受ける立場から離れた途端に、知識のアップデートも難しくなってしまいます。
吉森:はい。自分の経験に照らし合わせても、丸暗記した知識はすぐに欠落します。経緯や理屈を知り、自分の頭で考えていると、物事は覚えやすいし、記憶に残る。これは生物学に限らず、何にでも共通する話です。
川端:その方が新しい知識を覚えるにしても楽しいですよね。究極は自分で実験してみることかなと思ったんですが、現実的には教育の場での実験は、「正しい答えが分かっている実験」なんです。つまり、かつて何度も行われてきたものを再現するだけです。それももちろん大切なんですが、「あなたが研究者ならば未知の現象にどのようにアプローチするか」という趣向の実験をどこかで経験してほしいですね。
『LIFE SCIENCE』はいくつもの示唆に富んでいますが、私たちが細胞について知ることの重要性を再認識するとともに、細胞の未来や、それにまつわる実験や、さまざまな動物にまで言及されていて、読んでいてとてもワクワクしました。「これこそが生物学だな」という読後感が非常に強い一冊でした。
吉森:ありがとうございます。

(対談後編に続く)
[日経ビジネス電子版 2021年3月11日付の記事を転載]
世界的生命科学者であり、ノーベル賞受賞者の共同研究者でもある著者による、入門から最先端まで、生命のことが分かる一冊!
2016年ノーベル生理学・医学賞受賞 大隅良典氏、元日本マイクロソフト社長 成毛眞氏推薦!!
人生100年といわれる時代ですが、それはただ寿命が延びただけの話。寝たきりやアルツハイマー病で何年も過ごさなければならないこともあります。しかし、生命科学は「死ぬ寸前まで健康でいる」ために日々発展しています。
この本は、世界的生命科学者が、細胞の話といった生命科学の基本から抗体やウイルスの話、そして最先端の知見を、極めて分かりやすく教えてくれます。昔は医療の選択肢は多くなかったので、知らなくてもよかったのですが、現代は、医療はもちろん、生活にも生命科学は入り込んでおり、いちど学んでおかないと自分で判断ができません。
筆者は、2016年にノーベル賞を受賞した大隅良典氏とともに研究に取り組んだ「オートファジー」の世界的権威でもあります。オートファジーが分かれば、「細胞を新品にする機能」=「アルツハイマーや生活習慣病をなくす可能性がある」ことが分かるので、必然的に「老化」はどのようにして起きるかなど長生きの最先端研究まで知ることができます。
吉森 保(著)、日経BP、1870円(税込み)