「暗記マシーン」では落ちこぼれてしまう。アメリカのトップスクールで行われる教育の実態は映画から知ることができる。新旧「ハーバード」作品で描かれる学生生活から、エリート養成教育、社会階級形成の実態を探る。『アメリカ映画の文化副読本』(渡辺将人著)から抜粋・再構成して解説する。
大学院では「発言しないとFになる」?
忘れもしないシカゴ大学での1学期目、私は少し背伸びをして博士課程の500番台の「国際関係史」のクラスを受けた。
教授はずっと腕を組んで黙っているだけで、院生が討論番組のパネリストかのように延々と勝手に議論している形式だった。いつ割り込んでいいかわからず黙っていると、初回の講義終了後に隣の席の学生が「君、なんで黙ってるの? 発言しないとFになるよ」と忠告してくれた。試験で満点でも学期末論文で名作を仕上げても落第になるという。「GPA(グレードポイント)がガタ落ちになるよ」と脅された。
震え上がった私は、即興の対応では無理だと判断し、次回から発言をパターン別にカードにストックした。まるでシナリオライターである。連日の徹夜で何十時間もかかったが、膨大な台本カードの準備がいつの間にか自分の勉強になっていた。うまくできている。
アメリカの教育では発言による「クラス貢献」が問われる。その意味でハーバード映画の古典とも言われる『ペーパーチェイス』(1973年)以上に、アメリカのトップスクールの大学院の授業の厳しさと成績競争をめぐる雰囲気を正確に描写した映画は見当たらない。緊張感は噓偽りなく現実そのままだ。
ハーバード大学ロースクールの1年目の1学期(秋冬)、全米から集まった秀才青年たちが無慈悲な競争に放り込まれるシーンから映画は始まる。教授がソクラテスメソッドで学生に仮定の質問を投げかける。実際には映画のように顔写真付きの名簿で座席指定になるとは限らないが、指されて答えられないと予習が足りないとして減点になる。率先して挙手するのは「貢献点」狙いだが、無理をすると墓穴を掘る。
大学院生に必須のサバイバル組織
試験対策として、分野ごとに膨大なケース(判例)の読み分けを行う「スタディグループ」が結成されるのも現実によくあることだ。読む分量が多いからだ。
ロースクールでは膨大なケースを読み込む。それ以外のスクールや学科でも1週間に数冊の課題図書に目を通すのは当たり前で、それについて事前に論考が求められる。しかも数クラス同時にこなすので、学期中は食事と睡眠以外の自由時間はない。本の「歩き読み」もする。
私がいた年度のシカゴ大学の国際関係論課程では、現実主義理論で知られるジョン・ミアシャイマーとスティーヴン・ウォルトの両教授のクラスは特に読む分量が多く、有志の「スタディグループ」が乱立した。
映画のようには役割分担はすんなり決まらない。そして「あんちょこ」のメモの完成度にも激しく落差がある。粗悪なメモしか作れないと互恵関係が崩れる。必然的に人間関係はギスギスする。私はその雰囲気がいやで、途中でグループを抜け、得意分野ごとに個別の学友とノートを交換し合う2国間の「独自外交」に切り替えて乗り切った。
ロースクールの場合、1年目の成績によってサマージョブの引き受け先の法律事務所が決まる。そこで就職の青田買いが行われるので、初年度の成績が生涯賃金を決める。ジョン・グリシャム原作『ザ・ファーム 法律事務所』のようにハーバード・ロースクールの卒業生を囲い込むのだ。
ひとまず落第せずにハーバードを生き抜いたことが評価される。司法試験は業務に必要な州だけ事務所で働きながら、あとで合格すればいい。
暗記マシーンは落ちこぼれる
大学院では落第について容赦はない。先月までいた仲間が神隠しのように忽然(こつぜん)と姿を消す。
『ペーパーチェイス』では、記憶力に長(た)けた秀才が、ロースクールのケース解釈で才を発揮できず、自暴自棄になる。恋愛ですら両立できる人は稀なのに、ましてやこの秀才のように新婚生活を送ろうとするのは自殺行為だ。
この秀才学生は日本やアジアで優秀とされる暗記力に優れたタイプ。しかし、ロースクールでは通用しない。暗記力はさほど優れていなくても、論理力、構成力、因果関係発見力、そしてその説明を反射神経でできる能力、これらが高成績の鍵になる。
適性があったのがミネソタの田舎出身の努力肌の主人公ハート。コミュニケーションにも長けている。「スタディグループ」でも全員と仲がいい。
一方、「スタディグループ」のリーダーは一族皆ハーバードというエリートで 蝶ネクタイの鼻持ちならない男。会っていきなり自分のIQ自慢だ。主人公が思い出話でやり返す。彼の出身大学の寮の友人は、当時からハーバードの教授の法律論文を読むほど早熟で天才だった。しかし、ロースクールには合格できなかった。論理能力を問うロースクール受験の共通テストで高得点が取れなかった。ジニアス(天才)であるかは関係ない。
暗記マシーンが落ちこぼれる様がこの映画では繰り返される。どれくらい発言したかで学生がカースト化されるが、「頭の良さ」は関係ない、好成績の鍵は挙手を恐れない「勇気」だとハートは言う。だがハリボテの見栄だけでは通用しない。前述の「秀才学生」は無理に挙手して「写真のように記憶できる」と余計な自慢で自爆する。
事実を分析する能力がなければ記憶力なんて無用の長物だと教授にクラス内で断罪される。教授は「脳の手術」という比喩を使う。法律(知識)は自分で勉強なさいと。それをどう運用するか、その思考の仕方はトレーニングしてあげますと。
オバマを大統領に押し上げた「経歴」
どんな人が「知的」とされるかは文化圏や専門分野によって異なるが、少なくともアメリカはクイズ的な知識と一流大学が比例的に連想される社会ではない。
人を出し抜いて発言し教授にゴマをする点取りマシーンが「ペーパーチェイス」の中で製造されていく醜さも赤裸々に描かれる。学生にとって名物教授は巨人でも、教授には学生一人一人は毎年毎学期の「名簿」でしかない非情な世界だ。
「ペーパーチェイス」には「ハーバード・ローレビュー」という雑誌名がよく出てくる。編集は現役の院生が務める。選抜されれば名誉な勲章になる。集団を統率する資質やコミュニケーション力のようなものが就職で高く評価されるからだ。
その黒人初の編集長を務めたのがバラク・オバマ元大統領だった。
彼を大統領に押し上げた最強の看板はハーバード・ロースクール卒という経歴ではない。真に希少価値があったのは「ローレビュー」編集長の肩書きだった。指導者の資質がないと選ばれないからだ。「ナード(ガリ勉)」ではないという証明でもある。
身分階級がないから求められる「社会階級」
新旧ハーバード映画の「新」を象徴する『ソーシャルネットワーク』(2010年)は、ソーシャルネットワークサービス「Facebook」の誕生を描いた、事実におおむね基づく作品だ。創業者のマーク・ザッカーバーグがハーバード大学2年生だった頃から映画は始まる。
アメリカには身分制としての階級はない。もちろん黒人奴隷制度の歴史を忘れてはいけない。しかし、欧州が封建制一色だった時代、世界初の共和制のデモクラシーが新大陸に築かれた。経済的にも流動性は高い。貧困が深刻な問題である一方、「成金」が今日もどこかで誕生している。
再分配に反対する保守派が必ずしも富裕層というわけではなく、新移民にも共和党支持者が多い。格差はインドのカーストのようなものとは性質が違う。
逆に固定的な階級がない社会だからこそ、別の「社会階級」が生じやすくなる。王族がいないので大統領一家を王族になぞらえたりしたがる。ケネディ家信奉などは典型例で、大統領に関するトリビアや建国期の大統領史はやたら人気がある。
一代で短期にどれだけ稼いだかも称賛の対象だ。親から相続する資産は自慢にならない。起業でもスポーツでも何の才能でも努力でも、自分で稼いでいる年俸が勲章になる。一代で何を築くか。良い意味での「成金」賛美だ。
こういう学歴がすべてではない社会では、高学歴者は満たされず、新たな差別化を求める。それが名門大学の社交クラブだ。アメリカにはカントリークラブとか会員制のハンティングのクラブとか「クラブ」があちこちにあり、「見えない限定性」を求める。「クラブ」はただのお金持ちでは入れない。在籍メンバーに招かれ「選ばれし人」になる必要がある。
「名門クラブ」に固執したザッカーバーグ
ザッカーバーグは終始、学内クラブに執着する。「クラブ」は頭脳明晰でも入会できない。愛校心証明として大学トリビア知識を溜め込む。将来のキャリア人脈「オールド・ボーイズ・ネットワーク」にして遊び人集団でもあるので酒にも強くないといけない。
「クラブ」の新学期どんちゃん騒ぎのパーティの夜、ザッカーバーグが対抗心を燃やしてハッキング事件を起こすことから物語は始まる。Facebook以前にもアメリカには Myspaceなど似たようなサービスがすでにあった。
しかし、それを学歴に基づく招待制にしたのが Facebookのオリジナリティだった。Facebookは今でこそ開かれたプラットフォームで、自由を体現する西海岸シリコンバレーの象徴かもしれないが、東部アイビーリーグの参加者が特別感を得るための「クラブ」だった。
階級なき社会においても人間はわずかな差異で区別をつけたがる。承認欲求という心理的な本質とテクノロジーが合流したところにソーシャルメディアが誕生した。
入会条件はお金じゃないんだと。大統領になるかどうかも有名クラブのメンバーであることが関係しているのだと。ザッカーバーグはガールフレンドに力説する。彼女はザッカーバーグが「強迫症」だと呆れる。
民族性のステレオタイプを「笑い」に?
ところで、『ソーシャルネットワーク』にはエスニックな台詞が多数出てくる。
ザッカーバーグらはハーバードのシステムをハックし、寮の「Facebook」(顔写真名簿)から顔写真を抜き出して女子学生の見た目でランク付けをする即席ミスコン的なサイトを作る。
明らかに女性差別だが、大学当局に呼び出しをくらったザッカーバーグは謝罪を一気に片づけるために、学生新聞を介して黒人女性団体、ヒスパニック系女性団体にだけまとめて謝罪する。女性で人種的少数派という「うるさ型」を抑えておく、見方によっては差別の上塗り的な発想だ。
ユダヤ系男性とアジア系女性のカップルは現実にも多いのだが、それを「笑い」に変えたシーンもある。ユダヤ系は昔から頭脳明晰で医師や金融業で活躍するというステレオタイプを抱えるが、性格がたくましく気が強い「カウボーイ的」なアメリカ白人女性よりも繊細なアジア系女性と相性がいいというネタだ。ダンス音痴だと小馬鹿にされるアジア系女性の鈍臭い印象は、Kポップ全盛以前の古さを感じさせる。
大学を停学になったザッカーバーグはカリフォルニアに移動し、そのまま起業にのめり込む。
物語の途中で、ハーバードの名門フェニックスクラブに共同経営の友人が招待を受けてしまう。学内クラブへの招待について、ユダヤ系の友人は「ただのダイバーシティ配分だ」と自虐的に言う。ユダヤ系の学生も一定程度メンバーにする、いわば多様性の「枠」に救われて入れただけだと。ところがザッカーバーグもユダヤ系なので慰めにならない、というのがこの話のオチだ。
ハーバードを蹴ってスタンフォードへ
「クラブ」に執着して彼女にも呆れられたザッカーバーグは、「クラブ」に入れなかった悔しさがバネになってFacebookを大きくさせたのか。ザッカーバーグが「クラブ」に招待されていたらどうだろう。Facebookは生まれなかったのか。
少なくとも違法音楽ダウンロードソフト「ナップスター」で名を馳せたシリコンバレーの若手経営者に憧れて西海岸に飛び出さなかったかもしれない。ボストンに留まっていれば今の彼やメタ(Facebookの運営会社)ではなかっただろう。
虚栄心が満たされないときに思わぬイノベーションを生むのはなんともアメリカ的だが、東海岸の伝統的「クラブ」に認められないリベンジを西で果たすのもアメリカ的だ。ハーバードを蹴ってスタンフォードに行ったことを強調する人がたまにいるが、根底には東海岸に対する複雑な心境がある。
ザッカーバーグには本作の脚本とは別の言い分があるだろうし、メタの社史としては不正確なところもあるだろう。だが、アメリカの「クラブ」社会、東海岸と西海岸の関係を知る上では十分面白い、出色の「ハーバード映画」だ。
<7つの文化>でひもといていく「アメリカ」。おなじみの著名作品から日本では劇場未公開の知られざる個性派作品、Netflixオリジナル作品やAmazonプライムなど配信系オリジナルの映画ドラマまで数多くの作品を幅広く紹介。文化が分かるとドキドキや泣き笑いが真に迫る! すべての映画・ドラマファン必読の1冊。
渡辺将人著/日本経済新聞出版/1980円(税込み)


