ドナルド・トランプ元米大統領は、イラク戦争を泥沼化させたブッシュ息子政権を批判することで台頭した。ブッシュ息子政権の「影の大統領」だったディック・チェイニー元副大統領は2024年大統領選で民主党のカマラ・ハリス候補支持を訴え、トランプ排除と共和党の奪還に動き出した。チェイニーとは何者なのか。米大統領選を前に『アメリカ映画の文化副読本』(渡辺将人著/日本経済新聞出版)から抜粋・再構成して解説する。
共和党政権の元副大統領がハリスを支持
アメリカ大統領選挙では双方の政党から裏切り者が出るのが定番だ。だが2024年、共和党は存命中の元大統領、元副大統領、元大統領候補者がそろってトランプの党大会をボイコットする大混乱にある。
中でも「事件」はブッシュ息子政権のディック・チェイニー元副大統領の「ハリス支持」宣言だ。共和党が「トランプ党」になる前に、1回ハリス政権でいいと、共和党奪還に乗り出したチェイニー。しかし、少し前までチェイニーはイラク戦争の首謀者の1人で民主党にとって悪の権化のような人物だった。だからこそ異変なのだ。
それがよく分かるのが、筆者が字幕監修を務めた2019年作品の『バイス(VICE)』である。バイスとは副大統領(バイス・プレジデント)のことである。
筆者にとってもチェイニーは忘れようがない副大統領だ。2000年大統領選挙で、私はブッシュの対立候補アル・ゴア陣営のニューヨーク支部にいた。アジア系からの集票の広報戦略を練る立場だった。
「ブッシュは愛嬌(あいきょう)があるが無能。チェイニーは手ごわいが無愛想」と揶揄(やゆ)し、「ブッシュ父時代の重鎮による傀儡(かいらい)政権になる」と「ブッシュ王朝」批判で戦った。
だが、のちに民主党も「クリントン王朝」の樹立を目指す。この節操のなさに「内輪で大統領職を回すだけか」という民衆の怒りがトランプを押し上げた。「職業政治家ではないやつを大統領にしろ」と。
9・11テロと「チェイニー」主導の戦争
私の研究室には、ありし日の世界貿易センタービルの写真が飾ってある。ロウワーマンハッタンはゴア陣営の同僚が多く住み、寝食を共にした地域だった。この写真を撮影した部屋に住んでいた元上司は、9・11テロでPTSD(心的外傷後ストレス障害)となり政界を去った。
その後も私とチェイニーの不思議な因縁は続いた。「ペンタゴンも燃えている。すぐ局にあがれ」。テレビ東京虎ノ門旧本社に招集されたのは2001年9月11日夜、米東海岸は朝だった。私は帰国後に入社した同局で経済部WBS(ワールドビジネスサテライト)担当記者だった。報道フロアは蜂の巣をつついたような騒ぎと化し、WBSも小谷真生子キャスターのまま異例の延長放送を行った。
私は旧知の米議会関係者に安否確認と情報収集を試みたのち、映像編集室で外電翻訳に明け暮れた。凄惨な生映像を分類し、叫び声ばかりの英語を日本語字幕にして副調整室でテロップ入力。週末の特番班に召し上げられ、ツインタワーの内部を詳解するCGを製作した。被害者の叫び声とタワー崩壊の夢をよく見た。
翌年、私は政治部官邸クラブに異動し、小泉純一郎総理、安倍晋三官房副長官(いずれも当時)の番記者、外務省キャップと一貫してブッシュ息子政権、もとい「チェイニー政権」外交をフォローした。9・11以降の対テロ戦争は事実上チェイニーが主導していた。
オバマ、トランプを大統領にした生みの親
『バイス』の作中には「Japan」「Koizumi」は出てこない。だが、小泉・ブッシュの親しさは本物だった。ブッシュの鶴の一声で同政権は小泉訪朝を黙認した。ルイス・リビーという日本通がチェイニーの右腕だったことも大きい。日本を舞台にした小説の作者でもある異色の首席補佐官だ。彼を介して日本は早期に「チェイニー室」の動きを察知した。
留守番役の多い副大統領だが、チェイニーは節目には訪日した。だが、当時の日本外交の最大の攻めの案件「国連安保理改革」には、この最良の日米関係も梃(てこ)にできなかった。チェイニーもイラク戦争支持と引き換えに日本の常任理事国入りを後押しするほど無条件の日本贔屓(びいき)ではなかった。
本作の日本公開時に18歳だった人は2001年生まれ。若者は9・11テロ後生まれの世代に突入している。なぜ今さらチェイニーなのか。本作が奇抜な構成で問題提起するように、チェイニーが副大統領を引き受けたことで世界が変わった。それはトランプ政権にもつながっている。
バラク・オバマ政権はイラク戦争に対する反動で生まれた。2008年大統領選前、米兵の犠牲増加や捕虜虐待報道で反戦論が吹き荒れ、戦争賛成の前科があるヒラリー・クリントン候補は失速。戦争に反対していたオバマが党内で担がれた。
そもそもは9・11テロ後の愛国世論がイラク侵攻を後押しし、議会もお墨付きを与えた。だからこそ物語は9・11テロから始まる。あのテロが起きていなければ、世界は違ったものになっていた。そしてオバマは大統領になっていない。
ゴア政権になっていれば、9・11は起きても、イラク侵攻はなかっただろう。だから2000年大統領選で民主票を食い、ブッシュに漁夫の利を与えた第三党「緑の党」のラルフ・ネーダーこそがイラク戦争の原因、というジョークもある。ネーダー支持者はこう言い返す。「おかげで黒人大統領が誕生した」と。
そしてブッシュ、オバマの2代の政権への不満を代弁したのがトランプだ。イラク戦争批判でブッシュ家の弟ジェブをつぶし、海外非介入「アメリカ・ファースト」で台頭した。そして黒人大統領8年への不満も煽(あお)った。チェイニーは皮肉にも後続2代の政権の間接的な生みの親だ。「反動」の種を播(ま)いた主だ。
「反トランプ」旋回の遠因はLGBTの娘?
チェイニーは外交安全保障において大統領を凌(しの)ぐ権限を手に入れた。2000年大統領選ではフロリダで再集計騒ぎが起きるが、これがチェイニーには福音だった。脆弱(ぜいじゃく)な「正統性」の負い目からブッシュ周辺は点取りに焦った。「思いやりのある保守主義」より、対テロのほうが政権浮揚にはなる。『バイス』で繰り返し出てくる「一元的執政府論」が副大統領の権限強化に利用された。
物語では2人の人物が鍵となる。まず妻のリン、そしてドン(ドナルド)・ラムズフェルドだ。彼らなしに政治家チェイニーは存在しない。リンは野心を夫のチェイニーに託す。
また、ラムズフェルドと師弟関係になり仕えたことで、トントン拍子にホワイトハウスに職を得る。チェイニーはイデオロギーに染まっていない。ラムズフェルドと同じ「保守強硬派」だが、民主主義を拡張するネオコン的信念はない。
政党に無関心なままラムズフェルドの破天荒な魅力にひかれて共和党を適当に選ぶシーンがある。同場面は演出としても、チェイニーが真に「保守」であったのかは怪しい。「理念なき」現実外交を仕込んだのはラムズフェルドだった。だが、「怪物」を育てた彼も、かつての部下に人事権を握られていく。
持病(心臓)に加え、物語のアクセントになっているのは、チェイニーにレズビアンの娘がいる実話だ。キリスト教保守を地盤にする共和党ではLGBT容認はご法度。だからこそ民主党は同性婚への超党派支持をチェイニーの娘を例に訴えた。
チェイニーは娘の同性愛受容で、リベラルからのイラク戦犯論の緩和を狙ったとの意地悪な評価もある。それも含めてチェイニー夫妻が背負う十字架であり、権力という魔物に取り憑(つ)かれた人間のリアルな叙事詩である。
追記:本記事初出は『バイス』劇場パンフレット(これを大幅に改稿している)。ちなみにチェイニーの2人娘のうち姉のリズはのちに下院議員になった。しかし、トランプ派の刺客に落選させられている。かつては妹メアリーがレズビアンなのに同性婚に反対するなどゴリゴリの保守だったが、今や同性婚に理解を示す。共和党保守強硬派の権化だったチェイニー家までリベラルにしてしまう(見せてしまう)トランプの力はすさまじい。
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渡辺将人著/日本経済新聞出版/1980円(税込み)

