その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は山下良則さんの『 すべての“はたらく”に歓びを! リコー会長が辿り着いた「人を愛する経営」 』です。

【はじめに】

助けてくれた人がいた

 1980年にリコーに入社し、国内外の生産現場で働き、32年目で初めて本社勤務となりました。2017年からは6年間、社長として、リコーの「再起動」と「挑戦」、「飛躍」に取り組みました。
 読者の皆さんは、私のリコーでの人生が順風満帆だったように思われるかもしれません。でも実際は、私は社長になるどころかリコーに入社さえもできていなかったはずなのです。それなのに私がここまで働いてこられたのは、助けてくれた人がいたからです。

 私が就職活動をしていた頃、学校に求人が来ていた企業の中から、自分でいくつかの指標を設けて比較し、「ここがいい」と思ったのがリコーでした。大学の研究室の先生が推薦してくれた他の企業はお断りして、私はリコーに懸けていました。
 最終面接は、東京の青山にあったまだ真新しい本社ビルで行われました。この最終面接が、私にとって二度目の上京でした。初回は中学の修学旅行です。
 当然ながら、土地勘は全くありません。電車を降りて駅を出て、道を間違っていたと気がついたのは歩き始めてしばらくたってからでした。歩けどもリコーの本社にたどり着かないので通りすがりの人に聞くと、逆方向に進んでいたことが分かりました。もうすぐ面接の開始時間です。携帯電話で連絡、と今なら思いますが、1970年代の世の中にそんな便利なものはありません。
 全速力で引き返します。野球や卓球で鍛えていたので走力には自信がありましたが、果てしなく遠く感じます。
 やっと本社にたどり着いたときには汗だくでした。面接の開始時刻はとうに過ぎています。他の学生の視線が気になりながらも、人事担当者らしき男性に声をかけ、事情を説明しました。
 「遅刻した学生は面接を受けられません」
 とは、その人は言いませんでした。
 代わりに、書類を確かめてこう言いました。
 「山下君、君は工学部経営工学科だね」
 その通りです。
 「私も同じ学科なので、君は私の後輩だ」

 実はその人は、経営工学科出身ではありましたが別の大学だったので、厳密には私の先輩とは言えないと思います。しかし、彼は続けました。
 「これも縁だから、君の順番を今日の最後に変更しておくよ」
 その“先輩”のおかげで私は無事、面接を受けることができ、リコーの一員になることができたのです。

 大学受験のときにも同じようなことがありました。
 私は兵庫県加西(かさい)市の出身です。高校までを地元で過ごした私は、経営工学を学びたいと、広島大学を志望していました。当時、経営工学科のある大学は数えるほどしかなく、広島大学工学部経営工学科は数少ない選択肢でした。
 広島駅近くのホテルに泊まり、迎えた受験当日、アクシデントがありました。受験会場まで行く路面電車が満員で乗れず、急遽、バスに切り替えました。ところが、受験会場には向かわないバスだったのです。
 その頃、広島大学のキャンパスは駅の西側にありました。しかし、バスは南下し瀬戸内海方向へと進みます。気づいたときには乗車してからかなり時間がたっていたと思います。次のバス停を待ちきれず、ドライバーのところへ駆け寄り、バスを乗り間違えたことを伝えました。広島大学を受験するのだとも言いました。
 バスはバス停ではないところで停まりました。
 運転手さんは私を降ろし、「頑張りんさいよ」と声をかけてくれました。
 彼が機転を利かせてくれなければ、私は試験開始時間に間に合わず、その結果、やはり間に合わなかったリコーの最終面接で、“先輩”に助けてもらうこともなかったでしょう。

仕事は人がやっている

 実はリコーに入ってからも、同じようなことがありました。
 1989年、中国でのことです。リコーは既に日本国内だけでなく、欧州でも複写機の生産工場を稼働させていました。当時それまで使用していた部品の価格が高騰し、より安い部品を調達することが必要になりました。
 目指すは深圳(しんせん)。香港からクルマで行ける距離にある、中国の経済特区です。そこで、少しでも安く安定した部品を調達するのが私のミッションでした。
 当時香港は多くの日本企業から同じような任務を担った大勢の日本人がサプライヤーを開拓していました。私は、彼らの一歩先を行きたくて、香港からタクシーに乗り、中国・深圳のパーツメーカーを開拓することにしました。
 到着した工場で社長が待ってくれていました。お互いに上手とは決して言えない英語で話し合い、交渉成立。達成感を感じながら再びタクシーに乗り込んで帰路につきましたが、途中で大雨が降ってきました。
 クルマの屋根を大粒の雨がたたき、ものすごい音です。窓の外も全く見えない程の強い雨で、雨が降っていること以外何も分かりません。道は渋滞し、クルマは全く進まなくなりました。土砂崩れが起こって道路が封鎖されたようです。
 時が1時間、2時間と過ぎて、だんだんと周りが暗くなってきます。
 今、ここで再び土砂崩れが起きてクルマごと流されても、誰も私のことを見つけられないだろうと思いました。もちろん、1989年の中国にも携帯電話はありません。
 1989年といえば、天安門事件が起こった年です。フィリピンであった日本人商社の社員誘拐事件の3年後です。恐怖も覚えました。

 タクシーの運転手に、さっきまでいた工場に戻りたいと筆談で伝えました。路上のクルマの中にいるより、工場の建屋にいたほうが安全だと判断したからです。問題は、工場に誰かが残っているかどうか。そして、助けてくれるかどうか。
 夜、7時か8時になっていたと思います。たどり着いた工場には、数時間前に交渉した相手がまだ残っていました。
 「今日中に香港には帰れなくなったので、泊めてほしい」
 その申し出に社長は快諾、電話(固定電話です)でリコーの香港の事務所に私の無事を伝えてくれました。その日の宿として、寮を使っていいとも言ってくれました。その工場では、多くの労働者が工場の敷地内で寮生活を送っていました。
 ですが、不安な時間はまだ終わりません。
 寮には100以上の部屋があり、一番奥にある部屋を提供してくれました。一部屋には2段ベッドが4つ置かれています。
 タクシーの中で一夜を明かすことを考えれば素晴らしい環境です。ですが、知らない場所で、言葉も通じない人しかいないなか、部屋にポツンと一人でいるというのはやはり心細いものです。全員が良い人で、いきなりやってきた外国人に戸惑いながら同情していたとしても、私がそれを知るすべはありません。
 私は2段ベッドの上の段に隠れるように寝ることにしました。疲れ切っていたので早く眠りにつきたいと思うのですが、漠然とした不安な気持ちが次々と湧き上がってきます。普段は寝つきの良い私ですが、このときばかりはなかなか眠れませんでした。翌朝、何事もなく目覚めたときは、ほっとした気持ちと同時に、助けてくれた社長への感謝の気持ちで一杯になりました。

 こうした経験が「仕事は人がやっているんだ」と私に気づかせてくれました。以前から「仕事とは何なのだろう」と考えることがありましたが、このときに「仕事とは相手の役に立つことである」と納得しました。言われた通りに何かをするのは「作業」です。「仕事」とは必ず相手がいて、そして「相手の役に立つことをする」ことなのです。

皆さんの「はたらく」に役立ちたい

 深圳の部品工場の社長が、香港に戻ったはずの日本人が引き返してきたことを気の毒だと思わなかったら、今、どうなっていたか分かりません。
 リコーの面接担当者が、受験のときのバスの運転手が、もしも別の人だったら、私は別の人生を歩んでいたかもしれません。今の時代で考えると、恐らく面接会場の入り口には人がおらず、そこに置かれた機器に、受験票に印刷されたQRコードをかざしたら「時間外のため面接不可」とだけ表示されて、扉は開かなかったでしょう。バスが自動運転で、バス停以外のところでは停まれない仕様になっていたら、私は受験会場とは違う方向の終点まで行くしかなかったでしょう。
 私は救われたのです。その場に、相手のことを想い、その人の役に立とうとする人がいたからこそ、今があるのです。これらの経験は、深い感謝の念としてずっと私の心の中にあります。

 私は、3人兄弟の末っ子で、家族や親戚から大変かわいがってもらい、たくさんの愛に包まれて育ったと思っています。幸せなことです。
 そんな私だったからかもしれませんが、大学生のときに『愛の試み』(福永武彦著、新潮社、1975)という本と出合い、衝撃を受けました。その本には、「愛されるより愛するほうが100倍尊い」「愛の本質は愛することにある」と書かれていました。
 当時一人暮らしを始めたばかりの私は、孤独にさいなまれていました。そんななかでこの本に出合い、私はこれまで愛されることばかりで自分から愛することができていなかったのではないか、ということに気づいたのです。これは衝撃でしたが、その孤独感の原因が分かったことで、すとんと腑(ふ)に落ちるとともに、希望の光のようにも思いました。人は愛されるより愛するほうが勇気が必要であり、充実した人生が送れると考えたのです。
 それまで私は、ぬくぬくと受け身だったわけですが、このときから「人を愛する努力をする」ようになり、「人をよく見て関心を持つ」習慣が身につきました。そして、人から施される愛も、この上なく感じることができるようになりました。それが、先ほどのいくつかの経験に紐(ひも)づいています。きれい事のように思われるかもしれませんが、その日以来、「愛すること」が私の生き方の基本となりました。その後もさまざまな経験をするなかで、「人へのお役立ちの本質に触れる」ようになっていったと思っています。

 第4章で詳しく述べたいと思っていますが、リコーグループの事業活動の根幹には『三愛精神』があり、それに基づいて社員は日々仕事に取り組んでいます。三愛精神とは「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」です。国を愛しは、今では地球を愛しと解釈しています。「人を愛する努力をする」と決めた私がリコーで人生を送ってきたことは本当に幸いでした。私自身が人のお役に立ち、人に活かされる人生を送ることができたことに感謝しています。
 こうした想いから、私は社長に就任した際、もっと人に焦点を当て「人を活かす経営」がしたいと考えました。就任会見で記者の方からどのような会社にしたいかと聞かれ、「社員がイキイキと働ける会社にしたい」と答えました。
 私は、もちろん聖人君子なわけではありません。若い頃から、会社に対して相当文句も言ってきました。でも今振り返ってみると、人を愛し、人の役に立ちたいと考え、そしてなんとかそれを実行できたのではないかと思っています。リコーでの経験を通じて考えてきたことを皆さんにお伝えすることで、皆さんの人生、特に「はたらく」ことにお役に立てたら幸いです。

2024年 初冬 東京・杉並にて  山下良則


【目次】

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