その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は園部泉子さんの『 感性を言葉にする 「自分の言葉」で生きるための教科書 』です。
【はじめに】
なぜ、私たちは猫のように生きられないのか
私は言葉が好きだ。
そう言うと、「好きな作家は?」「うわあ、ずっと本読んでないなあ。オススメある?」と聞かれる。もちろん読書は好きなのだが、「言葉が好き」という時のその「言葉」は、誰かがつくった言葉ではなくて、「自分の言葉」のことである。
そう言うと、今度はナルシストのように思われてしまいそうだが、感じていることが言葉になり、その言葉が次々と現実を変えていく瞬間が、面白くてたまらない。
ランチタイムに、お腹すいたな、と感じて、今日は辛いものが食べたいな、と感じて、大好きな麻婆豆腐を食べに行く。そんな時、束の間のささやかな幸せを感じる。
けれど、時間がないからと妥協して手元にあった菓子パンなどを食べてやり過ごすと、なんとなく心にしっくりこないものが残り、その午後は、頭の中にたびたび麻婆豆腐が登場する。結局、麻婆豆腐も食べてしまったりして、でももうお腹がいっぱいで、望んだほどおいしく味わえないと、ああはじめから麻婆豆腐にすればよかったと、後悔する。
毎日は、そんなことの繰り返しだ。
お昼に何を食べるかなんて、大した問題でもなんでもない。でも、そんなこんなしているうちに、人生のうちの一時間は確実に過ぎている。
そうやって二十四時間が構成されていると思うと、一日というものは、自分が感じたものを現実へと変えながら構成されているということになる。
感じた通りのランチタイムを過ごせたら満足だし、感じたことと違うランチタイムを過ごしてしまうと満足できない。そんな一コマ一コマの時間が積み重なって人生が出来上がり、誰もが最後には、この世を去る。何も感じなくなる。
人生というと、ランチタイムみたいな日常ではなく、進学や就職や転居や結婚……など、ライフステージの大きな節目を思い浮かべる人が多い。節目ごとにしっかり考え、選択し、目標を持って努力すれば前へ進めるような気がする。
合格か不合格か、希望の会社に就職できたか否か──が人生の幸福を決めているような感じがする。だが、幸福の決め手は、本当にそこにあるのだろうか?
希望した進学や就職が叶っても、そこには楽しいことも苦しいこともある。だから、実際にこの壮大な人生を形づくっているのは、大きな節目そのものではなく、そのなかの一瞬一瞬をどう感じ、どう意味づけているかではないだろうか。
そして、人生の満足は、その時々に感じたことを、感じたままに実現できるかどうかにかかっている。
人間より猫のほうがそういう実現は得意である。
食べたい時に食べ、寝たい時に寝て、甘えたい時に甘え、構われたくない時にはスッと去っていく猫を見て、いいなあ、と感じたことはないだろうか。
思わず声に出して、「猫になりたい」と言う人もいる。ただそれは、猫になって毛繕いしたりネズミを捕まえたりしたいわけではなく、感じたままに動きたい、そういう本質的な願望であろう。
ではなぜ、猫よりも人間のほうが、感じたことを実現するのが苦手なのだろうか。
それは人間が、言葉を持っているからだ。言葉を持っているのは自分だけではない。すべての人が、それぞれ異なる言葉を持っている。その言葉が絡み合うことで、人は感じたままに生きることが難しくなる。
猫は、感じたままに行動する。
一方、人間は、感じたことを言葉にし、考え、それを外に表し、ようやく行動へ移す。つまり人間は、感じてから行動するまでに、猫よりもはるかに複雑なプロセスをたどるのである。
では、なぜ人間は、言葉を持つことで、かえって感じたままに行動できないことがあるのだろうか。それは、感じたことを言葉にする前に、「外側の情報」を取り込み、その影響を受けてしまうからである(詳細は後述する)。
しかし、本来、言葉は私たちを不自由にするものではない。私は、幼い頃の経験から、そのことを確信している。
言葉は、生きる力そのもの
私の言葉との出会いは、勉強によって身につけた言葉とはまったく違うところにあった。父の兄である伯父が小児麻痺を患い、車椅子で生活していた。全身を痙攣させて発するその言葉は、家族以外の人には「ああ、うう」としか聞こえなかっただろう。
しかし、伯父と遊ぶのが大好きで、生まれた時から伯父の言葉を聞いて育った私は、伯父が感じていることを、そっくりそのまま自分の心の中に写し取って過ごしていた。伯父の発する音や表情、仕草を目の前の現実と結びつけて、喜怒哀楽はもちろん、「何がしたいのか」「何がほしいのか」を、言葉にして人に伝えた。
たとえば、伯父には「コカ・コーラ」ではなく「ペプシコーラ」を飲みたい時があった。それは、「コ」と「ペ」という音の違いを聞き取るのではなく、声になる前に伯父の心に浮かんだイメージが、そのままエネルギーとなって私の心に伝わってくる。
私自身も幼く、まだ多くの言葉を持ってはいなかった。試行錯誤しながら一生懸命言葉にして祖父母や両親に伝えると、ちゃんとペプシコーラを買ってきてもらえる。そうやって現実が動くと、伯父も私も一人では外に行けない者同士なのだが、二人の世界が少しずつ広がっていった。そんな瞬間がとても楽しかった。
伯父との交流を通して、私は気づいた。言葉とは、感じたことを誰かに届けるための「生きる力」そのものなのだ、と。この原体験が、私の言葉への強い関心、そして、国語に対する飽くなき探究心へとつながっている。
そして現在は、国語教育の実践と研究を通して、「国語力」と「生きる力」の関係について探究している。すべての源となる感性を育み、それをいかにして一生をともに歩む言葉へと変えていくか。「話すこと」「聞くこと」「書くこと」「読むこと」と「五感」の働きを組み合わせ、思考を深め、生きて働く言葉を生み出す方法を追究している。その先にある願いは、一人でも多くの人が、「自分の言葉」と出会い、その言葉を人生の支えとして、自分らしく幸せに生きていくことである。
自分の言葉は、感性から生まれる
まだ「コカ・コーラ」「ペプシコーラ」という言葉になる前から、伯父の中には、確かに「こっちが飲みたい!」という強い感覚があった。その、心の中にあるけれど、まだ声にも文字にもなっていない、生まれたての感覚。形になる前の、気持ちのエネルギーのようなもの。私はこれを「心の言葉」と呼んでいる。
「心の言葉」は、「言葉」という名前がついているけれど、辞書に載っているような日本語ではない。それは、心の中にあって、まだ話し言葉にも書き言葉にもなっていない。感性から生まれる、まだ言葉になる前の、自分だけの内なる言葉である。
私は、この「心の言葉」を、「心のことば表現法」という方法論としてまとめ、国語教育全国大会(日本国語教育学会)で発表した。「心の言葉」は、五感で「感じること」と、国語の基本的な言語活動である「話すこと」「聞くこと」「書くこと」「読むこと」をバランスよく掛け合わせることで劇的に表現しやすくなるのだ。
たとえば、猛暑日の昼下がり。駅前で友人と待ち合わせをして、合流した時に「今日、暑さやばくない?」と言い合う。天気予報を見れば、最高気温は35度、湿度も高くて、まさに猛暑である。そんな時、ただ「やばい」で終わらせず、自分の五感がキャッチしていることを言葉にしてみると、こんなふうに言うこともできる。
「今日、肌が痛いくらい暑いよね。セミの声のせいで余計に暑く感じる。目的地に行く前に、あのカフェで涼まない?」
このように五感を意識すると、「肌が痛い(触覚)」「セミの声(聴覚)」「あのカフェ(視覚)」といった言葉も引き出されてくる。
「やばい」だけで会話を終わらせていたら、汗だくになって目的地へ向かい、到着した時にはヘトヘトになっていたかもしれない。けれど、五感を使って感性を言葉にすると、カフェに寄って「心地よい時間を過ごす」という選択肢も生まれてくる。
そうやって自分の言葉で選択肢を広げる積み重ねが、現実を自分らしいものへと変えていくのだ。
感じる前に「反応」している私たち
このように、感性は私たちの現実をつくる源のような役割を果たしている。
しかし現代は、情報があふれ、AIによるアルゴリズムの台頭によって、本来の感性を保つことが難しくなっている。たとえば、スマホを開くと、広告や「おすすめ」が次々と流れてくる。それをなんとなく見ているうちに、特に望んでいたわけではないのに、気づけば「これ、流行ってるよね」「みんながいいって言ってるから」と、自分の好き嫌いまで、スマホからの情報で決められてしまうような状態に陥っていく。
次の図は、感性にAIの情報が染み込む前と後とを比較したものだ。
おすすめされた動画を見る。
おすすめされた本を読む。
おすすめされた商品を買う。
おすすめされた考え方に共感する。
気づけば私たちは、自分で感じる前に反応し、自分で選ぶ前に選ばされている。自らの意思ではなく、AIによって感性までもが動かされている状態だ。
自分の言葉で人生の舵をとる
このように、周囲が大量の情報や他者の声で埋め尽くされている世界で、自分を見失わずに生きるためには、まわりの情報や声をすべて聞き取ろうとするよりも先に、あなたがあなたの言葉をしっかりと自覚し、表に出していくしかない。
だからこそ、自分の言葉を持つこと。それこそが、あなたの感性を守る盾となり、これからの時代を生き抜く力になる。
私たちは日常的に、当たり前のように言葉を使っている。だから、「これからの時代を生き抜く力になる」なんて言われても、最初はピンとこないかもしれない。
けれど、自分の内側から湧き出た「自分の言葉」をちゃんと持っている人は、周りの意見やノイズに簡単には振り回されない。自分の心に嘘のない言葉で話している時、その声を、他者はたやすく遮ることなんてできないからだ。そんな、誰にも振り回されない自分の姿を想像すると、人生は変えられると思えてこないだろうか。
私自身、五感から言葉をつくっていくアプローチを研究し、徹底的に実践したことで、自分の言葉を生み出せるようになり、とても生きやすくなった。
そんな「自分の言葉」と出会うために必要なのが国語力である。
学校の授業にある「国語」という科目は、テストの点数をとるためだけのものではない。本質的な国語の力とは、感性から生まれた「心の言葉」を、自分で考え、磨き、他者に伝え、現実の行動へと変えていくための力だ。きれいな言葉を使うことでも、感情を巧みに表現することでもない。言葉のしくみを知り、周りのノイズから抜け出して、「自分の言葉」を取り戻すための営みなのだ。
自分の言葉を取り戻し、淡々と貫いて生きる。その先には必ず、「これが私の言葉だ」「これが私の人生だ」と、心が震えるような世界が待っている。
この本の構成・読み方
子どもの頃、『青い鳥』とか『星の王子さま』とか、主人公が何か大切なものを探して旅する物語を読んでいると、なんだか自分も主人公と一緒にその道を歩いているような気分になったことはないだろうか。
この本の主人公は、あなただ。
あなたが、本の中で「自分の言葉」と出会い、扉を閉じる頃には「自分の言葉」で新しい人生を歩き出している、そんなヒーローズ・ジャーニーである。
「正解」を探しに行くのではない。
あなたの内側にある、いちばん大切なものに出会いに行こう。
「自分の言葉」と出会うまでの道のりは、からだを整えるプロセスによく似ている。
まず今の状態を知り、不要なもの(悪いところ)を取り除き、栄養をとって、トレーニングを積み、それから新しい生活をはじめる(ピンとこなかったら、怪我をしたり風邪を引いたりした時、どうやって回復したかを思い浮かべてみてほしい)。
この本も、同じ流れで、あなたの言葉を生きる力にしていく。
1、言葉のしくみ、自分と言葉との関係を認識する(オリエンテーション、第1章)
→体のコンディションを知るように、言葉のしくみを知る
2、自分の中にある不要なモノに気づき、取り除く(第2章)
→体を傷つけるものを取り除くように、いらない言葉は手放す
3、「自分の言葉」が育つ土台を整える(第3章)
→栄養をとって体を健やかにするように、「自分の言葉」の状態を整える
4、「自分の言葉」を鍛える(第4章)
→トレーニングで体を鍛えるように、「自分の言葉」を磨く
5、「自分の言葉」で生きる(第5章)
→健康な体でいきいきと過ごすように、「自分の言葉」で人生を切り開く
こんなふうに、この本には、「自分の言葉」に出会うためのたくさんの仕掛けが散りばめられている。
読むスピードに緩急が生まれ、脳裏に言葉や情景が浮かび、問いが湧き上がる。読み進めるだけで感性が動き出し、心の中になんとなく散らばっていた言葉のかけら(言葉になる前の感覚)が自然と結びついて、いつしか「自分の言葉」が現れる。
これまでの人生を重ね合わせ、五感で感じながら、しずかに、ゆっくり、力強く読み進めてみよう。すると、少しずつあなた自身の心の中心へ近づき、「感じること」と「言葉にすること」が一つにつながっていくにちがいない。
感性を磨く舞台は、日常
最後に。
感性は、特別な訓練をして新しく手に入れるものではない。すでにあなたの中にある。だから、五感を意識さえすれば、「食べる」「着る」「暮らす」といった日常の中で、いつでも感性を磨くことができるし、それを言葉にすることもできる。
私たちは、自分の言葉で人生を選んでいる。
好き
違う気がする
やってみたい
この人といたい
もうやめたい
人生を変える大きな決断は、すべて、言葉になる前の小さな感覚から始まるのだ。
この本が、あなたの中に広がるみずみずしい感性を、人生の美しい花として咲かせるための一助となれば幸いです。
園部 泉子(そのべ いずみ)
【目次】





