その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は池上彰さんの 『池上彰の教養のススメ』 です。

【文庫版によせて】
「すぐにわからない」から、ずっと役立つ  池上 彰

 本書が刊行されたのは、2014年。版を重ねて、このたび文庫となりました。

「死に絶えたはずの『教養』に今、急速に注目が集まりつつあります」と、私は当時、書きました。それがまさに現実となり、その後、教養の大ブームが起きました。今も書店に行けば、タイトルに「教養」と冠した本がいくつも並んでいます。本書が火付け役の一端を担ったとすれば、光栄なことです。

 少し気になるのは、「すぐ役に立つわかりやすい教養の本」が目立つことです。教養というのは、すぐ役に立つものでもなければ、簡単にわかるものでもありません。

 私が言うのもなんですが、「わかりやすい」には、危険があります。世の中は、そんなにわかりやすいものでなく、いろいろなことを知れば知るほど、「わかった」と簡単には言えないことばかりです。ニュースのある側面について、「これはこういうことですよ」と伝えるわかりやすさを、私は追究しています。ですが、それと同時に、その側面を取り巻く物語全体を単純化しないように気をつけています。

「さっと理解したい」というニーズは高まる一方です。動画を倍速再生するのが当たり前の時代です。それなのに、なぜ教養ブームなのでしょう?

 歴史を振り返れば、1991年の「大学設置基準」の改訂によって、多くの国立大学の教養学部が解体されました。学生にとっては、自分の専門分野と関係のない教養科目を学ぶ機会が少なくなることを意味しました。そんな時代に学生時代を過ごした人々が、40代、50代になってふと、自分の教養のなさに気づく。そんなことが起きているのではないでしょうか。

 たとえば、管理職となり、リーダーの役割を担う立場に立ったとき、若者に語るべき言葉を何ら持っていないことに気づき、愕然とする。無我夢中で働いていた20代、30代のときには気づかなかった教養のなさに、思い当たってしまう。

 このような課題に対する大学側からの答えのひとつが、東京工業大学が2011年に設立した、リベラルアーツセンター(現・リベラルアーツ研究教育院)であったと思います。上田紀行教授などが中心となって推進した、理系の大学生に教養を伝えるというこの試みには、次世代のリーダー育成という狙いがありました。

 リーダーに教養が不足することの副作用は、さまざまなかたちで現れます。

 ひとつは、イノベーションです。昨今、経営学の世界では「両利きの経営」が話題沸騰です。スタンフォード大学とハーバード大学の先生が広めた考え方で、かいつまんでご説明すれば、イノベーションを起こすためには、既存事業についての知見を深掘りする「知の深化」だけでなく、今の認知の範囲を越え、いろいろなことに知見を広げていく「知の探索」が必要であるということです。この2つを同時並行でできるのが「両利きの経営」で、これこそがイノベーションを生む、というわけです。この論を本書に当てはめるなら、「深化」を促すのは専門分野であり、「探索」を担うのは教養です。

 そこそこの成功を収めてきた日本企業業が、大きく発展できないとすれば、突破口は探索能力にあるのでしょう。これはつまり「教養」です。

 もうひとつの副作用は、倫理観です。かつて安全、安心、高品質を誇った日本企業ですが、昨今は、その信頼が揺らいでいるようです。これが教養とどうつながるのか。その理由については、上田教授にバトンを渡し、巻末の解説に譲ります。

 教養はじわじわと効いてきます。蔑ろにするツケはボディブローのように、学べば漢方のように。教養はいつでも、どこででも学ぶことができます。そして普遍的な力があります。すぐには役に立たないかもしれないし、すぐにわかりもしないかもしれませんが、あとからしっかり効いてきます。本書にはそんな話ばかりを収めています。

2022年10月

※本書に登場する組織の名称や人物の肩書、事実関係などは、原則として2014年時点のものです。一部、文庫刊行の2022年時点に合わせて、注記などを入れています。

【はじめに】
一生使える「知」の道具を手に入れよう  池上 彰

 2011年、東京工業大学にリベラルアーツセンター(現リベラルアーツ研究教育院)ができ、翌2012年、教授として着任しました。

 リベラルアーツは、日本語では「教養」と訳されます。私はこのセンターで、理系の学生たちに日本や世界の現代史、あるいは現代に生きる上で必要とされる社会の仕組みについての知識などを教えています。

 本書には、リベラルアーツセンター長を務め、哲学が専門の桑子敏雄先生、文化人類学の上田紀行先生、生物学の本川達雄先生との対話を収めました。

 なぜ、私が東工大の学生に、そして読者の皆さんに「教養」を学ぶことを、「教養」を身につけることを、強く勧めるのか。

 それは、教養こそが、学生たちにとって、社会人にとって、あらゆる人にとって、学ぶ上で、仕事をする上で、生きていく上で、「最強の武器」になるからです。

 かつて、教養が偉かった時代が日本にはありました。

 明治維新を迎え、西洋から新しい学問がどっと入ってきた後、大正時代を経て第二次世界大戦に突入するまで、旧制高校から帝国大学に進んだ日本のエリートたちにとって、哲学や文学や歴史学といった教養を身につけることは、必須のこととされてきました。

 それが戦後になり、経済成長を遂げ、バブル経済がピークに達した頃、日本は「教養」をないがしろにし始めます。

 誰もが大学に行く時代になると重視されるのは「すぐに使える」実学的な教科になりました。大学のカリキュラムも教養科目を削り、専門科目を増やしていきました。初等中等教育でも、「実用」が重視され、「教養」の要素が落ちていきました。

 教養は、「すぐに役に立たない、どうでもいい学問」という扱いになったのです。

 21世紀になり、さらに10年が過ぎました。

 するとどうでしょう。死に絶えたはずの「教養」に今、急速に注目が集まりつつあります。

 なぜ?

 それは、教養なき実学、教養なき合理主義、教養なきビジネスが、何も新しいものを生み出さないことに、日本人自身が気づいたからかもしれません。

 慶應義塾大学の中興の祖といわれ、天皇陛下(現上皇)が皇太子時代にご進講した小泉信三は、かつて学問についてこんな言葉を残しています。

「すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる」

 20世紀の終わりから21世紀にかけて世界は激変しました。

 東西冷戦が終わり、既存の金融システムが崩壊し、IT革命が起こり、新興国が台頭しました。そんな急速な環境変化に対応できなかったのが、日本の大企業でした。

 日本企業は、「これまでのルール」に則って「合理的」に格安でモノをつくったり、サービスを提供したりするのに長けていました。

 しかし、「これまでのルール」が崩壊し、自らの力で新しい市場をつくり、新しい顧客をつくり、新しい世界をつくる、そんな創造性を必要とする時代になると、魅力的な製品やサービスを開発できなくなったのです。

 アメリカやヨーロッパの新興企業が、次々と新しい製品、世界を席巻するサービス、美しいデザインを体現し、市場を制していくのに対して――。

 なぜ、日本企業が創造できなくなったのか?

 ひとことでいえば、「教養がなかった」からではないでしょうか。

 自分の内側の狭い専門分野の知識と経験しかなく、自分の外側に広がる世界を、人間そのものの心理や本性を、知り得なかったからです。言い換えれば、「すぐに役に立つ知識」しか武器として持っていなかったからです。

 そうなってはじめて、現代日本人は、ようやく気づき始めました。

 一見役に立たないもの、つまり「教養」のとてつもない重要性を。

 教養は「何かの役に立たせるため」に学ぶものではありません。だから、「役に立たない」と短絡視されてしまった。

 では、本当に「役に立たない」のか。

 いいえ、違います。

 教養を身につけるとは、歴史や文学や哲学や心理学や芸術や生物学や数学や物理学やさまざまな分野の知の体系を学ぶことで、世界を知り、自然を知り、人を知ることです。

 世界を知り、自然を知り、人を知る。すると、世の理ことわりが見えてきます。

 そうなってはじめて、たとえばビジネスの専門分野│それはITかもしれませんし、金融かもしれませんし、メディアかもしれませんし、製造業かもしれませんし、サービス業かもしれません│で、これまでにない新しい何かを生み出すことが可能となる。

 なにより、その人の人生そのものが豊かになる。学ぶことそれ自体が楽しくなる。

 教養は、一生かけて身につけ続けて、絶対に損のないものです。

 しかも、いつからだって学ぶことができる。

 教養がいかに「使える」ものなのか、教養がいかに「人を知る」ために不可欠なものなのか、教養がいかに「面白くてたまらない」ものなのか。

 私の仲間の先生たちと一緒に、考えていきましょう。


【目次】

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