その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は巽直樹さんの 『カーボンニュートラル もうひとつの“新しい日常”への挑戦』 です。
【はじめに】
カーボンニュートラルがなぜ衝撃なのか
2020年10月26日、菅義偉首相が所信表明演説で掲げた政策として、デジタルトランスフォーメーションと並ぶ看板政策である「2050年カーボンニュートラル」を宣言してから、間もなく1年が過ぎようとしている。
カーボンニュートラルとは、気候中立とも炭素中立ともいわれる通り、人為的に排出され、気候変動に影響を与えているとされる、二酸化炭素を含む温室効果ガスの排出を実質ゼロとすることである。
これを実現させなければならない理由は、産業革命前からの地球の平均温度上昇を2050年には摂氏1・5度未満に抑えるために必要と考えられているからだ。この数値は、2015年のパリ協定では努力目標であったが、2021年5月のG7気候・環境相会合では、同年11月に開催が予定されているUNFCCC COP26に目標達成計画を提出することが合意され、共同声明で発表された。
本書で順を追って解説する通り、地球温暖化に対する問題意識が人々に芽生え始めたのは最近のことではなく、一部の先進国での温暖化対策活動は半世紀近い歴史を持つ。しかし、開発途上国の経済発展も加わることで、地球の環境破壊が年を追うごとにより深刻さを増すなか、それに影響を受ける形で地球温暖化への危機感も高まってきた格好だ。
そして、日本は1970年代のオイルショックを契機に、国を挙げて省エネルギーに取り組み、その結果として、エネルギー効率の高い自動車や電気製品は世界を制覇した。今日に至るまで、省エネルギー技術に関しては世界のトップを走ってきたという自負を持っている。そうした活動を通じて地球環境問題にも最も貢献してきた国である。
その一方で、東日本大震災後、再生可能エネルギー普及を目指す政策が採られたものの、この際に導入された「再生可能エネルギーの固定価格買取制度」により、国民負担となっている再生可能エネルギー発電促進賦課金は、2019年度に2・4兆円に達しており、消費税1%相当を超えている。そして、重要な脱炭素電源である原子力発電所は、その多くがいまだに停止したままである。
このように、インプットにおける政策の持続性や脱炭素への整合性がこの10年近く見られないまま、アウトプットの温室効果ガス削減にのみ、これまでにはない高いハードルが課せられた。
具体的には、日本の場合、2013年度比で2030年度の温室効果ガス排出量の46%削減を中間目標とし、2050年度にカーボンニュートラルを実現するというものである。パリ協定後に策定された2016年の地球温暖化対策計画では、2030年度のそれは26%削減、2050年度で80%削減するという目標にあった。
このカーボンニュートラル宣言がなされて以降、各方面に衝撃が走っている。2020年後半はまだ、米国大統領選挙でドナルド・トランプ前大統領が勝てばどうなるかわからないという、状況の不確実性もそれなりに高かった。しかし、ジョー・バイデン現大統領が勝利し、2021年に入ってからは脱炭素ムーブメントが勢いを増す一方だ。
こうした国際的な世論が急ハンドルを切ったと日本国内で受け止めた向きの多さ、それらが表出させた遅れた感覚にも衝撃を覚えた。さまざまな対応が後手に回ってしまっていることだけは否めないからだ。しかし問題は、この政策の先に日本が直面する状況に想像を巡らせるとき、別の衝撃的な問題が頭に浮かんでくることにある。
具体的には、ほぼ確実視されているエネルギーコストの上昇に耐えながら、産業競争力をどのように維持していくのか、これらはまったく不透明で不確実なことだ。エネルギーコストについては、まだ選択の余地があったが、日本は自らその選択肢を狭めるような方向に傾いていることが危惧される。極言すれば、「どのように国益を守るのか」という道筋が見えてこないことが、実のところ最大の衝撃なのである。
世界中で交錯する思惑
地球温暖化対策の議論はこれまで欧州が中心になってリードされてきた印象が強いが、ここにきてさらにその勢いが増している。特に今回は、国境炭素調整制度などの国際貿易に影響を与えるルールメイキングにおいても存在感を増している。
米国はジョージ・W・ブッシュ政権以来、気候変動枠組条約への出入りが激しく、今後も国内政治の状況次第では予断を許さないと見られている。民主党は地球温暖化問題に理解を示す傾向にあるが、共和党はもともと懐疑的に見る傾向があり、かつ国内経済を優先する。もっとも、地球温暖化問題に限らず、この2大政党が競う米国は政治的には健全であり、米国外で発信されるフィルターがかかった情報を鵜呑みにしないことだ。
京都議定書は途上国に削減義務を求めず、先進国のみが率先して実施する不平等を原因として米国が最初に離脱した。議定書には「不都合な真実」で有名な当時のアル・ゴア副大統領により署名がなされたものの、その後、米国議会は承認しなかった。
パリ協定にはバラク・オバマ大統領(当時)により署名がなされたが、後任のトランプ前大統領はパリ協定から脱退した。バイデン大統領の「2030年に二酸化炭素排出50%削減」の宣言についても、最終的に米国議会が承認するかどうかは現時点ではわからないと見られている。
重要なことは、米国はトップの大統領が国際会議の場で成した国際条約での約束を、このように国内事情で何度も反故にしてきたという現実だ。日本は、この米国とタッグを組んで地球温暖化対策における対中圧力を強め、中国に温室効果ガス排出削減における先進国並みの取り組みを求めている。
中国はまだ、国際条約の枠組みにおいては「途上国」である。「途上国」扱いの場合、多国間枠組みのなかで支援を受ける側に立つ、他国への財政支援が義務化されない、自国の経済発展を優先できるなど、恩恵は多い。
一方、「先進国」の扱いとなると、途上国への支援金拠出の義務化、温室効果ガス削減目標の達成、国内対策強化への支出増など、国際協力におけるさまざまな負担が大きくなる。中国がこのような先進国並みの責務を果たさないことが、地球温暖化対策に限らず、他の国際協調においても足並みが乱れる一因にもなっている。
「先進国」の定義は明確ではなく国際機関によっても異なるが、1人当たりGDP(国内総生産)1万米ドルが目安ともいわれており、この観点からすでに中国は中堅先進国並みと見ることもできる。しかし、自国のこの「途上国」のステイタスから、中国が自ら進んで「先進国」へと変更することは、今すぐにはなさそうだ。
中国は、温室効果ガスの排出量が2030年までにピークを迎えること、つまり今後はまだ増え続けること、そしてカーボンニュートラル達成は先進国よりも10年遅い2060年となること、を宣言している。加えて、最大の「途上国」として、地球温暖化対策における「先進国の責務」を訴える先頭に立ち、後に続く他の多くの「途上国」を味方につけ、これらからの求心力を強めている。
カギを握る先進国以外の行動
先進国が率先垂範して地球温暖化問題に取り組まねばならないというロジックが世界を支配している。その主張の正誤や真偽についてはともかく、カーボンニュートラルに突き進むことで、実際に最も利するのは、『戦国策』の燕策にある「漁夫の利」という古事成語のとおり、中国ともいわれている。
すでに、太陽光電池パネル、風力タービン、バッテリー(蓄電池)などの主要なクリーンテクノロジーにおいて、世界最大の産業基盤を擁している。今後は電気自動車(EV)への需要の高まりを受け、廉価なEVで世界を席巻しそうな勢いだ。また、原子力発電所の建設においても世界最大規模の計画を持ち、実のところ長期的な脱炭素対策も世界で最も抜かりがないのだ。
デジタルテクノロジーをはじめとした次世代技術におけるイノベーションの中心はこれまでは米国であったが、こうしたデジタルトランスフォーメーション(DX)については中国も急速に力を付けている。米国の対中制裁は、米国に頼らない中国独自の技術力を、かえって鍛えているだけだ。
そして、個別のクリーンテクノロジーにおけるイノベーションについても、中国が世界をリードする形となると、脱炭素社会を目指すグリーントランスフォーメーション(GX)のムーブメントもDXのそれと合流して、中国が世界のイノベーションの中心となる可能性もある。
よって、中国の行動次第では、長らく続いた地球温暖化対策の停滞に、他の世界の国々が想定していなかったブレークスルーが起こるかもしれない。政治体制の問題を捨象すれば、こうしたポジティブな見立てもできる。
もちろん、政治の問題は現実的には無視するわけにはいかないが、民主主義と一党独裁のどちらが社会システム構築に効率的であったかという、認めたくない現実を数十年後に見せつけられる可能性もある。そうなってから後悔しても遅い。
中国がこうした状況にある一方、温室効果ガス排出量の多いインドやロシアなどの大国の思惑も、この複雑な国際関係に加わる。これらの主要国以外、すなわち新興国や開発途上国と呼ばれる、他の大多数の国々を地球温暖化対策へと一様に参加させることが実現可能かについての疑問は大きい。
むしろ、こうした国々の国内での排出削減規制の緩さに着目し、生産拠点などの移転が進むと、結果として起こるカーボンリーケージ(炭素漏出)の問題も懸念される。これに対しては、欧州を先頭に国境炭素調整制度などの対抗措置の検討が進むが、関税競争と貿易戦争を過熱させ、世界的な保護主義の動きを助長させるかもしれない。
地球温暖化対策が巻き起こしている、国際関係上のこうした問題を眺めると、利害関係がますます複雑になり、これらを読み解くことは労力を要す。これまでも既に地球温暖化対策へのコミットメントの要請が先進国を中心に強まる一方であったが、今後は世界全体での地球温暖化対策の実現性や、その対策自体の実効性が問われることになる。
地球温暖化の外部不経済
米国の生態学者ギャレット・ハーディンが「オープンアクセスが可能な共有地において、多数の人間が資源を乱獲すると、その共有地が持つ資源はいずれ枯渇する」という問題を1968年にサイエンス誌に掲載した論文でモデル化した。
これは経済学では有名な「コモンズの悲劇」や「共有地の悲劇」と呼ばれる理論だ。ミクロ経済学のゲーム理論として、1975年にドーズにより定式化された。これらは環境問題における「外部不経済」を説明することにもよく応用されている。
外部不経済とは「負の外部性」ともいうが、ある経済主体の意思決定が他の経済主体の意思決定にマイナスの影響を及ぼすものである。この点において、環境問題で一番に想起されるものは公害問題であり、地球温暖化に影響を与えているとされる温室効果ガスを排出する行為が、まさに外部不経済なのである。
外部不経済はモラルハザードから供給過剰になりやすい。温室効果ガス排出にはこのメカニズムが正面から効いてくる。ちなみに、プラスの影響を及ぼすものは「外部経済」または「正の外部性」とも呼ばれるが、こちらは公共財のように供給過少になりやすい。対価を支払わないで便益だけを享受する、フリーライダーの問題を生むことでもよく知られている。
地球温暖化問題における国際協調は、ゲーム理論の中で最も有名な「囚人のジレンマ」で説明されることも多い。国際関係では、相互に協調するほうが協調しないよりも良い結果を導くことがわかっていても、裏切る国が利益を得る状況では、互いに協調しなくなるというジレンマ(葛藤)である。
今や気候変動枠組条約締約国会議(COP)や気候サミットは、温室効果ガス削減目標の大きさを競う「削減規模自慢」の場と化している。ここでは協調ゲームが効いているのは誰の目にも明らかだが、先進国以外の出方が複雑になるとこのジレンマに陥ることになる。
つまり、地球温暖化対策に対する態度を、各国が合理的に選択した結果(ナッシュ均衡)が、世界全体にとって望ましい結果(パレート最適)にならないため、世界的ジレンマとも呼べる状況が発生する。
これが、これまでのCOPの場で繰り広げられてきた問題の本質であった。しかし、先進国の動静を見極めた中国が、協調による利得に気付いたとしても不思議ではない。2060年カーボンニュートラル宣言が、2020年9月であることから、納得できるタイミングだ。このまま米国がパリ協定の枠組みに留まるならば、この協調ゲームの構造は崩れず、既に述べた中国がブレークスルーを起こすことのインセンティブも当然に高まる。
一般的には、ルールメイキングにおいて強いリーダーシップを発揮している欧州の、唯我独尊ともいえる動向に目を奪われがちである。また、ESG投資などとも関連して、国際金融資本により主導されている側面もしばしば強調される。このような側面も事実としてあるだろうが、地球温暖化対策における諸問題は、そうした断片的な話よりも遥かに複雑な利害関係や思惑が絡んでいる。
2050年のゴール
ここまで述べてきた国際関係の複雑な状況があるものの、このカーボンニュートラルへと向かい始めたモーメンタムを止めることは現実的には難しい。日本は、国家としてコミットしてしまった排出削減目標にどのように向き合うのか。最終的にはさまざまなパスを経て全国民にこの削減負担が行きわたることになる。そのような重い課題でもある。
米国内でのバイデン政権の脱炭素政策におけるイニシアティブの維持と今後の中国の出方によっては余談を許さない側面もあるが、本当にカーボンニュートラルが世界の潮流なのかもハッキリしないなか、この2050年のゴールに向けて、今は走り出すしか他に選択肢がない。
ここであえてゴールといったのは、カーボンニュートラルはターゲットではなく、あくまでもゴールなのだということだ。東京大学の安井至名誉教授は、パリ協定を理解するポイントを2つ挙げている。
ひとつはパリ協定序文にある「気候正義(ClimateJustice)」だ。キリスト教徒の世界観では、「最後の審判」より前に、地球を居住不可能な状況にすることが戒められるが、この気候正義という言葉に、宗教的な観念論としての重い意味がある。
もうひとつが、パリ協定の長期目標として掲げられる温室効果ガス削減の数値目標は、ゴール(Goal)であるということだ。ターゲット(Target)であれば、設定された水準に到達しなければならないが、ゴールは最善を尽くして取り組めばよく、その目標達成を保証する必要がないということである。
安井名誉教授は、日本人がパリ協定を英語で読んでおらず、仮に読んでいたとしも、これらの英語の意味を理解していないと指摘しており、手厳しい。単に言葉の問題として侮らず、ニュアンスの理解に努め、国際関係の力学に振り回されないことに注意が必要だ。
いずれにしても、このゴールの考え方に基づくと、2021年4月の気候サミット直後における小泉進次郎環境大臣のテレビインタビューでの発言が、安井名誉教授のこの説明を想起させた点で、とても印象深かった。
このインタビューでは、「46という数字がシルエットとして浮かんできた」という趣旨の発言に、一般には注目が集まった。しかし、その後に削減目標達成への取り組みをオリンピック競技にたとえ、「金メダルを目指しますと言って、結果が銅メダルだった時、非難しますかね。」と発言した。
これはまさに、近代オリンピックの生みの親であるピエール・クーベルタン男爵・IOC会長(当時)の名言である「勝つことではなく、参加することに意義がある」という精神に則れば、地球温暖化対策は、「目標達成ではなく、このパリ協定の枠組みに参加することに意義がある」ということになる。
もちろん、国際条約に基づく国家間の約束を守ることは重要ではあるものの、パリ協定はあくまでも努力目標である。この目標に挑戦して努力した結果、不本意な目標未達であったとしても、それを責めることは人間としていかがなものか、という見解であると理解した。この発言によって重要な示唆を得た筆者は、小泉環境大臣に清々しい想いを初めて持った次第である。
脱炭素へのナローパス
2013年度比46%排出削減目標に沿って、2021年7月21日に素案が出された第6次エネルギー計画、それを実行可能にするエネルギーミックスが、2030年度までに実現されるべきものと考えられている。一方で、このコミットメントの実現に対しては、各方面からさまざまな疑問が呈されている。しかし、あくまでも努力目標なのである。
そのため、当面はカーボンニュートラルを目指した脱炭素の取り組みに整合的な活動が各分野で進むと見られ、それ自体は正当化される。そして、カーボンニュートラルの実現について、誰もがすぐには確信を持てないまま、まずは中期目標である2030年温室効果ガス46%削減の目標達成に向けて、各種施策の検討と実施が重ねられていくことになる。
いずれにしても、諸外国のカーボンニュートラルに対するスタンスが異なり、利害が複雑に絡む問題だけに、日本国内の各プレーヤーは国外からのさまざまな状況変化を想定する必要がある。そのうえで、複数のパスをたどるシナリオを描き、意思決定上の戦略的オプションをなるべく多く用意しなければならない。
カーボンニュートラルはある業界や企業が単体で達成できることではない。特に製造業の比率が高い日本では、製造に用いるエネルギー利用のグリーン化がまず必要になる。次に、各業界でのサプライチェーン上での温室効果ガス排出削減、さらには最終消費段階での排出削減が必要となる。
エネルギー利用のグリーン化がいつまでも進まないとなると、製造プロセスでの排出量の削減努力もいずれ限界を迎え、輸出製品の競争力を失うことになれば、日本国内で製造を続けることが困難となる。
かつて、1980年から90年代にかけて外国為替市場において円高ドル安が進んだ際、人件費の安い開発途上国での製造環境向上などを背景に、製造工場の国外移転が進んだ。このことと今回の原因は異なるが、結果として同じ現象を生じさせかねない。今回は、脱炭素エネルギー源を求めての国外移転となるが、日本国内の産業空洞化が再び進行することが強く懸念されている。
ところで、脱炭素が指向されてからライフサイクルアセスメント(LCA:Life Cycle Assessment)が注目されている。LCAとは、製品やサービスが商品寿命を持つ生涯全体に対する環境影響評価の手法のことである。
欧州では自動車に対するLCA規制が検討されており、国境炭素調整制度とセットで採用されると、日本の自動車業界に対しても大きな脅威となる。LCA規制については中国も同様の規制を検討し、これに続く構えを見せている。
こうした情勢に対して、トヨタ自動車の豊田章男社長は、日本自動車工業会会長として、同会の記者会見において、「カーボンニュートラル実現は自動車業界単体では難しいため、エネルギーのグリーン化が必要」、「より大事なことは、カーボンニュートラルを正しく理解すること」、「いろいろな報道を見ていると、車はすべてEVになればよいとするものがあるが、そんな単純なものではない」と説明した。
筆者は、このように理路整然とカーボンニュートラルの「問題の本質」を指摘する日本の経営者を、この時点まで見たことがなかった。この説明には、今日本が直面している課題が極めて端的に現れている。
LCAで考えれば、自動車の生産、利用から廃棄までに排出するすべての温室効果ガスがカウントされるため、国内のエネルギー供給や燃料利用などにおけるグリーン化の度合いが、競争条件として大きく効いてくるからである。この点で単純な話ではないのである。
例えば、温室効果ガスの排出量が多い国で製造した場合、電気自動車(EV)よりも内燃機関車(ICE)のほうがより排出量が低くなる可能性がある。また、同じ車種を日本国内で製造するよりも、フランスや北欧などのエネルギー供給の脱炭素化が進んだ国での製造のほうが有利になる。
LCAはこうした複雑な状況を作るが、後者は国内の産業空洞化というより深刻な状況を日本経済にもたらす。この記者会見でも、日本からの乗用車輸出482万台(2019年実績)がなくなると、貿易黒字が15兆円減少し、70万〜100万人の雇用に影響が出ると示されていた。
これに続く4月22日の同会記者会見において、豊田会長は「これははっきりしておきたいこと」と前置きし、「我々が目指さなければならない目的地はカーボンニュートラルというゴールであり、決してEVの販売促進、ガソリン車禁止、FCV(燃料電池自動車)推進などではない」、「カーボンニュートラルに向けてのあらゆる選択肢を広げるべきで、順序を間違えてはいけない」と強調したことが非常に印象的であった。なぜなら、この長い筆者のまえがきの趣旨にこれ以上合致する提言を、この1年余りにおいて、他で見たことがなかったからだ。
カーボンニュートラルの本質を正しく理解したうえで、適切な行動を取るほかに、今のところ道はない。オールジャパンで取り組んだとしても、豊田会長が指摘するように、この選択や順序を間違うと、ただでさえナローパスになる可能性が高いカーボンニュートラルというゴールへの道筋を見失いかねない。この道筋を見誤ることや、見失うことがあると、国家が傾くくらいの話に、ほぼ確実になると筆者は考えている。
科学者でなくても持ちたいリテラシー
「専門家でない者が意見をするな」という向きには、以下を読んでいただく必要はない。筆者も「言論の自由」という名を借りた無責任な言論を好まない。自分の専門分野であっても、あくまでも冷静かつ生産的な議論を好む。
専門外のことに踏み込んだ別の分野の専門家の滑る姿は、側で見ていても「人の振り見て我が振り直せ」を思い出す。しかし、現実世界でさまざまな種類のリスクを取らなければならないビジネスパーソンは、その種の教訓を思い出しているだけでは、世の中を渡っていけない。
「誰が真実を語っているのか」ということを、普段から見分ける感性を磨くしかない。筆者はこれを20年以上前に国際金融市場の現場で鍛えたと考えている。この世界では、リスクとリターンには無縁の、評論家気質の人間が生き延びていく場所はないからだ。
例えば、筆者は新型コロナウイルスについても、スタンフォード大学のマイケル・レヴィット教授の動画を、2020年5月の時点で真夜中に視聴し、感銘を受けてSNSでシェアするようなタイプの人間である。レヴィット教授は中国の武漢でのデータを数理モデルで解析し、感染の収束時期まで正確に予測していた。そして、指数関数的な感染拡大がないことを初期段階から断定していた。この頃の日本では、最悪の場合42万人が死亡するという予測に振り回されていた。
地球温暖化問題についても「科学的に決着がついている」という話には、筆者は何年も前から懐疑的である。もちろん、温暖化自体が、地球の長い歴史のこの局面で進行していることは疑う余地がないのだろうと考えている。
しかし、そこから生じると予想されている、さまざまな現象や影響の想定に幅があり過ぎる。また、地球のガイアを人間が制御できると考えていることに、ある種の傲慢さも感じていた。これに世界中で非専門家によるさらなる無責任な解釈が加わり、かつ政治的にも利用されている現状が、深刻なレベルにあると考える。
今回のこの問題は、ウイルスよりも圧倒的に筆者にとっては身近なエネルギーに関連する領域である。しかし、気候学、気候工学、気象学、気象工学などは当たり前だがまったくの素人だ。だからといって思考停止はしていられない。地球温暖化問題についても、「誰が真実を語っているのか」を、ある程度は見極めなければならないと考えている。
この探索はまだ旅の途中であるが、ここでは米国の理論物理学者であり、オバマ政権時にエネルギー省の科学担当次官を務めた、ニューヨーク大学のスティーブン・クーニン教授を挙げたい。本書を書き始めた直後の2021年5月に『Unsettled:What Climate Science Tells Us,What It Doesn't,and Why It Matters』が発刊され、米国のアマゾンでベストセラーになっていた。
『Unsettled』では、人為的な気候変動によって異常気象が増加しているという、バイアスがかけられた「ザ・サイエンス」の払拭に、前半に多くの紙面が費やされている。例えば、ハリケーンや竜巻などの自然災害の激甚化や頻発化は起きておらず、気候変動や温室効果ガス排出の影響に関する数値モデルに不確実性があり、無数の問題を抱えていると指摘している。
また、クーニン教授は「ザ・サイエンス」と「真の科学」の間になぜギャップが生じたかについても指摘している。それは、陰謀論の類などではなく、むしろ気候問題に関わるさまざまな関係者が、自己の視点や利益などのためにそれぞれで動いた結果、心理学でいう「自己強化型の連携」が働いたとも述べている。
さらに、民主主義社会では、気候変化に社会がどう対応するかは、最終的には有権者が決めることだとしている。しかしながら、科学が何を語っているのか(語っていないのか)を十分に知らずに、誤った情報に基づいて重大な決定を下すことは、好ましい結果につながる可能性はかなり低いと警鐘を鳴らしている。
新型コロナ禍は、このことを痛切に物語っているとも付言しており、科学リテラシーを持つことの重要性を説いている。こうした文献を可能な限り探し出し、自分でよく読んで、自身のフィールドで冷静に当該の問題に向き合いたい、誤った判断を下したくないと、日頃から筆者は考えている。
もちろん、地球の平均表面気温が上昇することで、気候変動におけるいわゆるティッピングポイントを超えて大規模な異常現象が起こるといった分析を侮ることは禁物であると考えてもいる。具体的には南極大陸やグリーンランド氷床の大規模な崩落・融解、海洋の大規模循環の停止、アマゾン熱帯雨林の大規模な減少などである。これこそ、ナターム・ニコラス・タレブが提唱した概念である「ブラック・スワン」のアナロジーで言い換えるならば、「グリーン・スワン」の出現だ。
例えば、シベリアのツンドラなど北極圏の永久凍土が地球温暖化で溶け始めると、二酸化炭素の1分子当たり25倍の温暖化効果を持つメタンが放出される可能性があることはよく知られている。こうしたリスクを軽視するべきではないだろう。ただ、100年単位のゆっくりとした変化の中にいるのだから、より詳細かつ正確に調査して、対策を考えればよい。そのようなことだけを心配する前に、もっと他に片付けるべき課題が地球上には山積している。
そもそも、数千年単位でしか発生しないが、一度発生すれば民族が滅びかねないような、例えば鬼界カルデラのような海底火山が噴火するといったクラスの自然災害の可能性に、われわれは無防備、あるいは無頓着でいることも、一方の事実なのだ。
自分ごととして考えよう
かなり長いまえがきとなってしまったが、カーボンニュートラルの問題は、このように多面的かつ複雑なのである。それにもかかわらず、カーボンニュートラル実現が課題のすべてであるかのように取り組むこと、他の社会課題の優先順位など一切無視せざるを得ないような費用感を持ってこれに突き進もうとしていること自体が衝撃的なのである。
善意、悪意のいずれに基づくかにかかわらず、「ザ・サイエンス」の見解を織り交ぜ、煽るようなアドバイスをする人間は世の中に必ずいる。そうした向きには筆者は決して加担せず、この問題に真摯に向き合う方々の「現実的な課題解決」のお手伝いができればと考えている。
自分で考えることを拒否したら何も始まらないが、カーボンニュートラルで約束された市場が出現するなどと、能天気にこれを担いだり、煽ったりする意思は毛頭ない。世界の潮流の中で現実を生きる者には、科学者間の論争をいちいち理解することや、それにより振り回されている時間もない。
真偽はともかく、いったん振り出されてしまった方向性には対処していかなければならない。本書の読者の対象は、カーボンニュートラルで何が起こっているのかについて、自身でこの問題を考え、自らの組織や人生の行動を考えるうえでのきっかけを摑みたいと考えている方々を想定している。あくまでも、自分ごととして考えるきっかけを提供することを望んでいる。
【目次】