その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は佐野晋平さんの『 教育投資の経済学 』です。本書は2024年度・第67回「日経・経済図書文化賞」を受賞しました。
【はじめに】
教育にまつわる疑問と経済学
世の中には教育にまつわる疑問が多くあります。たとえば、「いい大学を出ると給料は高いのか」「幼少期にどんな習い事をすると子どもは伸びるのか」「クラスサイズを小さくすることは効果があるのか」「なぜ教員不足が生じているのか」「授業料無償化はいいことなのか」などです。
本書は、これらの教育にまつわる疑問を考察するための枠組みを、教育経済学の知見に基づき紹介するものです。
教育経済学を専門にしない方々にとって、教育問題を経済学で考えることに違和感を抱かれるように思われますが、それには大きく2つのギャップがあるためと考えられます。1つ目のギャップは、教育問題は経済学の対象だと思われていないものです。経済学は「お金」にまつわる問題を対象としているため、教育問題とにわかに結びつかないというものです。経済学では、教育は人的資本への投資と考えます。投資にはお金がかかるものです。現在の消費を抑えて将来のためにどのくらいの教育投資を行えばよいのか、個人の教育支出には常に先を見通した金銭的判断が求められます。さらに、義務教育をはじめ教育サービスの提供には多くの税金が投入されています。社会保障や国防など、他のニーズがある中での厳しい予算編成上、教育費にどれほど割くべきかについては国民(納税者)が真剣に向き合わねばならない問題といえます。経済学は社会経済を読み解くための思考の枠組みのようなものであり、社会経済を構成する「お金」だけではなく「人々の行動」も分析対象です。そこに教育は大きく関わるため、経済学の分析対象となります。
2つ目のギャップは、経済学が教育を分析対象としていることは知っていても、その適用範囲は狭いと思われている点です。これまで教育が経済学で分析されてきた中で、教育と経済学とは、本書でも紹介する人的資本や教育の生産関数という高度に抽象化された概念で説明されたり、教育の効果を測るうえでは主に学力を対象とすることが一般的でした。学校教育で掲げられる多様な目的とこのような経済学の分析手法との間に乖離があるものです。学校教育の現場では、教育基本法第2条で規定される「幅広い知識」だけではなく「豊かな情操」の涵養を目標としています。「幅広い知識」は学力と関連していそうですが、もう1つの「豊かな情操」が対象となっていないというものです。ただ、近年の教育経済学の研究では、学力などの認知スキルだけではなく、自己肯定感などの非認知スキルの重要性を指摘しています。この動きは、利用できる統計データの充実、人々の考えやスキルを計測する方法の進展、そしてある教育施策の影響を厳密に検証できる手法の開発・普及によります。経済学が扱うことができる教育問題の範囲は飛躍的に広がっており、経済学の分析範囲と学校現場での目的の乖離は埋まりつつあります。
経済学で教育を考える意義
経済学で教育を考える意義を簡潔に紹介します。経済学では、教育は人的資本への投資と考えます。人的資本とは、知識やスキルなどのことで、生産性を高め、イノベーションを促すことで、経済成長に寄与します。人的資本への投資は、一生涯を通して行われますが、学校の持つ役割は無視できません。学校教育による投資は若いときに行われますが、その成果は生涯にわたっての所得の上昇を通して回収されます。このように、教育は教育を受けた人自身に恩恵を与えます。
教育には多くの公的資金が投入されています。教育への公的な補助は、効率性の観点と公平性の観点から支持されます。効率性の観点からは、教育の正の外部経済効果を強調します。たとえば、教育を受けた個人自身の賃金上昇だけではなく、教育を受けていない他者にも恩恵がある場合です。公平性の観点からは、教育の所得格差是正効果を強調します。たとえば、幼少期は経済的に不利であったとしても、教育を受けることで生産性が上昇し将来豊かな生活を送ることができ、所得格差の縮小に貢献します。
教育は一方で教育を受けた個人に恩恵を与え、他方で教育は公的に恩恵を与えます。前者を強調すれば個人が教育費を負担すべきとなり、後者を強調すれば政府が教育費を負担すべきとなります。限られた予算をどこに配分するのかは重要な政策課題です。また、労働の生産性を向上させるためには、社会人への教育訓練(リスキリング)の役割も重要となっています。そのため、教育への公的投資の判断指針としてのエビデンス(実証的根拠)が必要です。すなわち、教育が労働市場での成果とどのように関連するか、学校教育の充実が格差是正に寄与するか、どのような教育施策が格差解消に重要かの理解が必要です。
本書の位置づけ
本書は、教育経済学の知見に基づき、教育を分析するための枠組みとエビデンスを紹介します。本書の執筆にあたり以下の3点に留意しました。第1に、理論、データ、エビデンスをバランスよく紹介する点です。様々な教育問題を経済学とデータから理解できるようにするものです。第2は、できるだけ日本のエビデンスを紹介する点です。戦後日本は普通教育中心であり、職業教育は学校よりも企業内訓練でなされてきた特徴を持ちます。教育を取り巻く環境は国と時代により異なります。ある時代、ある国で成り立つことは、他で成り立つ保証はありません。第3は、できるだけ広範なトピックを扱うことです。とはいえ、全てを扱うことは紙面上困難なので、筆者が考える重要な点に絞っています。
本書の構成は以下のとおりです。第1章では、経済学で教育を考えるうえで基本となる人的資本投資について紹介します。第2章では、教育がどのようなスキルを形成するかを明らかにするための枠組みである教育の生産関数の概念を紹介し、中でも家庭の持つ役割について紹介します。第3章では、学校資源に注目し、学校教育における様々な仕組みとスキル形成との関わりを説明します。第4章では、様々な教育政策を取り上げ、経済学から見た政策の意義や教育政策を評価したエビデンスを紹介していきます。第5章では、日本社会における変化とそれに教育がどのような役割を果たすかについて説明します。
【目次】



