その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はスコット・レイノルズ・ネルソン(著)、山岡由美(訳)の『 穀物の世界史 小麦をめぐる大国の興亡 』です。
【はじめに】
2011年春、わたしはある国際的な金融危機について調べるため、初めてオデーサ(オデッサ)に渡った。国際金融危機といっても、皆さんがおそらく耳にしたことのある、あの危機とは違う。渡航に先立つこと2年半の2008年10月1日、わたしは『高等教育クロニクル』に寄稿していた。そのなかで、住宅金融市場の問題は国際貿易が抱えるもっと根深い問題の存在を示唆しており、この問題のために銀行貸付は阻害され、世界的不況が訪れかねないと予想した。さらにその根拠として、現代の住宅金融問題と、わたしのこだわりの対象である1873年恐慌とのあいだに共通点が見られることを指摘した。すると担当編集者から、1873年と2008年が似ているとして何が起こりうるのかを、最後の数段落に書いてほしいと依頼された。わたしが貿易の急激な落ち込み、失業の拡大、金融企業による現金保蔵、国際貿易で使用される通貨のシフト、移民への責任転嫁、ナショナリズムの激しい高まり、さらには関税の急上昇という予測を立てると、世界中の新聞がその記事を翻訳・転載したのだが、その間(かん)に株式市場の急落が始まった。2008年10月1日から2009年3月9日にかけて、スタンダード・アンド・プアーズ500種指数は50%超下落し、2011年には、わたしの予想がすべて現実になったのだ。
わたしは2011年までに、アメリカにおける最初の金融恐慌についての本を脱稿しており、そのなかで金融恐慌と物価の激しい変動には大いに関係があると述べていた。オデーサへとわたしを引き寄せたのは、ある商品の歴史上のバブルとその崩壊との、目に見えにくいつながりだ。その商品とは小麦である。2011年春には、2008年の不況による長期的な影響がすでに現れていた。たとえばアラブ諸国では、穀物価格の上昇により、パンを求めての蜂起、つまりリビアやエジプト、シリアの政府をやがて揺るがすことになる「アラブの春」が始まった。新聞記者は抗議運動を受けてアラブ世界に飛んだが、歴史家であるわたしはオデーサに向かったのだった。2011年のエジプトのデモ参加者は「パンと自由と社会正義」を要求したが、わたしの頭に浮かんでいたのは、パン、自由、そして正義を求めた1789年のフランス革命、1807年におけるオスマン帝国のスルタン・セリム3世の廃位、ヨーロッパの1848年革命、青年トルコ人革命後の1910年、また1917年のロシア革命だった。戦争と革命は、過去と同じく現在においても、小麦と大いに関係する。これが本書の主題だ。
わたしは十数人のハンガリー人とともに時代物のコミューター機でブダペストから出発して南へと向かい、ユーラシア大陸の大草原上空にさしかかった。窓の外には麦畑がどこまでも続く。それはまるで巨大な「テトリス」のように見え、正方形や長方形の畑が幹線道路をはさんで並んでいる。黒土を切るように、南の黒海へとまっすぐ走る鉄道や道路。ロシア革命も第2次世界大戦も、はたまた2000年代のオレンジ革命も、19世紀にはっきり引かれたこの格子状の線を消し去ることはなかった。
ウクライナには、世界でもっとも肥沃と言ってもいい土壌がある。チェルノーゼムと呼ばれるその土は、黒くて通気性に優れたローム質で、虫やバクテリアの繁殖を可能にしている。1768年、エカチェリーナ2世は10万超の兵士をこの地に送り、黒海までを手に入れようとした。食糧を現地で調達していきながら草原地帯を掌握し、そこで小麦を栽培して全ヨーロッパを養い、それによってロシア帝国を強化するという壮大な計画を立てていたのだ。他方、そこから5000マイル離れたところにいたアメリカ入植者も似たような計画をもっていた。どちらの計画もまったくの絵空事であるかに思えたが、パンの価格をめぐって起きたパリでの革命、ナポレオンの台頭、そしてヨーロッパでおびただしい数の小麦畑が焼失したことが、状況を一変させる。オデーサの街は穀物輸出によってにわかに発展し、エカチェリーナ2世以後の歴代ツァーリや地主貴族を豊かにした。黒い長方形の畑で栽培された小麦は牛車に載せられてオデーサに行き、小麦袋は戦火のヨーロッパ諸都市を養うべく、リヴォルノやロンドン、リヴァプールへと向かうギリシャ人所有船に積み込まれた。新たに建設されたロシアの港に、富が流れ込んだ。それから二、三十年のうちに、革命を逃れた亡命フランス人の建築家や難民たちが、ヴォロンツォフ宮殿やアレクサンドル広場、オデーサ・オペラ・バレエ劇場、さらには南ロシアの裕福な地主や穀物商の夏用のダーチャ〔訳注:郊外にある別荘〕を設計していった。なかでも特別美しいダーチャは、帝国植物公園を囲むように建てられていた。
ナポレオンが敗北すると、このロシアの広大な小麦畑はヨーロッパの地主たちの不興を買うようになる。地主たちは、食糧価格が低下して地代が下落する問題、いわゆる「リカードのパラドックス」に突き当たったのだ。過去40年のあいだ、外国産穀物への関税がアジマやギルカといった安価なロシア産小麦の流入を抑えてくれていた。ところが何かの偶然でアメリカから入ってきた水生菌がジャガイモを枯らして食糧不安をもたらし、ヨーロッパ諸国は1846年に、ふたたび小麦輸入の門戸を大きく開くはめに陥った。そしてヨーロッパの労働者の食糧供給源という地位をめぐっての1世紀にわたる争奪戦が、ロシアの小麦畑とアメリカの小麦畑のあいだで始まる。
2つの帝国がそれぞれ奴隷制と農奴制の廃止を余儀なくされた1860年代、強いロシアと弱いアメリカの地位が逆転した。南北戦争が終わり、大量の安いアメリカ産小麦が海を渡ってヨーロッパ市場になだれ込むと、ロシアのバブルはたちまち崩壊してしまった。アメリカの資本家の一団(わたしが交通男爵〈boulevard barons〉と呼んでいる集団)は南部の奴隷所有者の勢力を削ぐ手助けをすると、続いてロシアの穀物商を出し抜いた。穀物を各国に販売していた交通男爵は連邦軍(北軍)と手を結び、先物契約という金融商品をつくり出した。そのおかげで、ロンドンの商人はシカゴで小麦1万ブッシェルを購入したのと同じ日に、価格変動リスクをほぼ排除しつつ、リヴァプールで将来の引き渡し分を売却できるようになった。またその他の技術革新がアメリカ産小麦を輸送するためのコストを引き下げた。大西洋横断電信ケーブルは先物を買い付けることを可能にしたし、運搬可能なニトログリセリン(ダイナマイト)はアメリカの河川を拡幅し、大草原と沿岸部を隔てていたアパラチア山脈を切り開いた。また、大型帆船はスエズ運河を通過できないため、大西洋での航行に使われた。小麦輸出量が一番多かった時期のオデーサが毎年100万トンを積み出していたのに対し、ニューヨークは1871年時点で毎週100万トンを送り出すまでになった。その結果、ヨーロッパの穀物価格は1868年から72年までのあいだに50%近く下がり、それに伴い業者の手数料も下落した。穀物船はほとんど空の状態でアメリカに戻ってきたので、ヨーロッパからアメリカまでの運賃は押し下げられた。数年もすると、何百万人ものヨーロッパ人移民が小麦を降ろしたばかりの船の3等船室に乗り込み、アメリカへと渡るようになった。この移動を後押ししたのは、アメリカ産穀物の輸出だ。
ヨーロッパの都市労働者はそれまで、低体重出産や乳幼児死亡率の高さ、くる病、栄養不良に悩まされていたが、安価な穀物からたいへんな恩恵を受けた。一方オデーサは、街の商工委員会が1873年に使った言葉を借りるなら、「破滅的な競争」にさらされた。委員会は、安価なアメリカ産穀物の問題(初めて注目されたのは1868年)のせいで、オデーサは「絶対的衰退の時代」に向かうとの予測を述べた。1873年半ばには、ロシアだけでなくヨーロッパの大半で、リカードのパラドックスの影響が現れる。市中銀行が銀行間融資を利用して不動産を買いあさっているとの懸念をいだいたイングランド銀行が金利を引き上げ、たびたびショックを引き起こした。そしてオデーサとウィーン、ベルリンでほぼ同時に、不動産バブルがはじけた。このときのいわゆる農業恐慌が金融恐慌を引き起こし、農業の比重が大きかったヨーロッパの諸地域に不況をもたらした。それはあまりに深刻だったために、1930年代がくるまでは大恐慌と呼ばれていた。別の言い方をすると、穀物の海がヨーロッパにあふれ出てオデーサや中央ヨーロッパの好景気を終わらせ、世界中にショックの波を巻き起こしたのだ。
オスマン帝国やオーストリア・ハンガリー帝国をはじめとするヨーロッパの大農業帝国は、それから40年に及ぶ衰退期に入った。これに対し、アメリカとロシアの穀物を大量に消費する都市を抱えていたヨーロッパ諸国──イギリス、ドイツ、フランス、イタリア──は存在感を増していった。このうち3つの穀物消費「大国」──ドイツ、フランス、イタリア──の政治指導者は、輸入小麦に高い関税を掛けてこの農業恐慌に対処した。当時の論者の言葉を借りれば、かれらは労働者の懐から金銭をかすめ取って砲艦を買った。穀物で力をつけたこの国々は海軍と商船隊を築くと、アジアやアフリカ、中東を、彼らとは異質で一様でない残忍な帝国の前哨基地へと矢継ぎ早につくり替えてゆく。
ロシアは1884年、国費での鉄道敷設に加え、穀物を担保にしたアメリカの信用貸しの制度にならった低利の農業金融を使って事態に対応した。そのおかげで1890年代にはライバルの大西洋貿易国、つまりアメリカと正面から張り合えるまでになった。シベリアと中央アジアに穀物を植え付けるという壮大な計画はフランスの投資家の関心を引き、遠隔地満州(現中国東北部)の新しい穀物港へと延びる鉄道路線の敷設資金が集まった。だがロシアは1905年に日本帝国によって押し戻され、オデーサで得られる昔ながらの収入に目を向けざるをえなくなる。
陸軍の受けた屈辱、艦隊の大半の喪失、陸戦隊員や水兵の蜂起。アジアにおけるロシアのこうした壊滅的失敗は1905年にロシア第1革命を引き起こし、列強の1つに数えられたこの国は、オデーサからの穀物の輸出にふたたび集中することを余儀なくされた。そして1914年には、自国産穀物の黒海からの出荷がトルコに阻まれるかもしれないというロシアの懸念も手伝い、第1次世界大戦──まさにパンのための戦争──が起きた。ロシアは日露戦争で10万人を失ったが、大量の穀物をめぐるこの戦いにおいて、さらに数百万人を失ってしまう。命を失ったこれらの人々は、二度と小麦の収穫に携わることもなく、そのことがロシアをまたもや革命の瀬戸際へと追い込んだ。
わたしはアメリカの食や技術、鉄道について30年以上も書いてきたので、アメリカ側のことならよくわかっている。本書では、ロシアとアメリカが国際市場のくびきにつながれ、しばしば壊滅的な影響を受けたことについて説明を試みた。アメリカ史家としての経験をもとに、わたしは10年以上にわたってアメリカと帝政ロシアのあいだの緊張についての研究を続けている。これまでさまざまな言語の文献を調べ、南北戦争とともに起きた経済的変化(わたしにとって既知の主題)と、第1次世界大戦およびロシア革命を招いたヨーロッパの経済的・政治的事象(新たに研究している主題)とをつなぎ合わせてきた。
探求を進めるにつれ、わたしはパルヴスという筆名をもつロシアの穀物商・革命家による秀逸な分析に助けられることが多くなった。1873年の危機を子ども時代にオデーサで経験したパルヴスは、1895年に「農業恐慌」という言葉を考え出した人物だ。数ある著書や論説のなかで、穀物の道は帝国を形成もすれば破壊もしたと述べ、そのことは自分の生きる時代だけでなく、太古の時代にも当てはまると彼は説く。こうした交易路をつくったのは帝国ではなくて商人であり、帝国は交易路の上に覆いかぶさっただけだという。交易や貿易とは、古代や中世や現代のそれぞれの社 会において「多様な形態をとり、多様な意味を獲得していく」活発で自律的な力なのだとパルヴスは論じた。交易や貿易は社会の構造を形づくるが、その仕組みを完全に理解することはできないと彼は考える。帝国は交易路の上に形成されるが、帝国の核心部から周縁へと向かう、まさにその交易路が弱点になる。ゆえに帝国は、パルヴスの使った言葉を借りるなら、「崩壊」に向かいやすいのだという。彼は生涯を通じて、交易路と帝国との重なり方、破綻の起きる仕組み、またそれに続く社会構造の根本的変化を理解しようとした。
パルヴスは著名な革命家だが、皆さんにとってはおそらく初めて聞く名前だろう。アレクサンダー・イスラエル・ヘルファント。ベラルーシのユダヤ人街に、引退した港湾労働者の息子として生まれ、肩幅の広い巨漢に育った。ただ大人になってからはダンディな身なりで通し、シャツの襟に糊をきかせてベストとネクタイを着け、磨き上げた黒い革靴を履いていた。その洗練された服装のおかげで、贅肉が増えていくウエストから人の視線を逸らすことができたとも。ヘルファントというのは、イディッシュ〔訳注:東欧などのユダヤ人が用いる言語〕で「象」を意味するゲルファンドのロシア語読みで、彼は友人から陰で「象さん」だとか「おデブ君」などと呼ばれた。世界経済の研究家でギリシャ語、ラテン語、ロシア語、ウクライナ語、トルコ語、ドイツ語を理解した彼は、誇張を交えた辛辣な論説を新聞に寄せてヨーロッパ各地の君主や政治家を苛(いら)立たせた。その急進的な論説のせいで、ドイツの5つ以上の都市から追放され、一生を通じてロシアの警察から追われ続けた。にもかかわらず、遅くとも1910年には、ロシアの穀物生産力を見極めようとしていたオスマン帝国とドイツ帝国の外務大臣の秘密顧問官になりおおせている。博愛的かつ享楽的で、女性革命家たちや女優たちと恋愛関係になった。この急進論者は生涯に何度か廉価な新聞を発刊しており、何万もの忠実な読者──おもにドイツやロシア、トルコの労働者──はそこから世界経済についての知識を得た。
パルヴスは学者・著述家であるにとどまらず、帝政ロシアの崩壊につながる変化の鍵を握る人物でもあった。バルカン戦争のあいだにはイスタンブールに武器や穀物を密輸してオスマン帝国のガリポリの守備増強を助け、巨万の富を築いた。第1次世界大戦中にはロシアでの革命の始動を助けるべく、ドイツ政府を説得して5000万マルク超の金銭を手に入れるとともに、革命家を乗せた封印列車をサンクトペテルブルクに送ることを可能にした。パルヴスは結婚していたが、婚外子の息子が少なくとも1人いた。そして晩年の1920年代には、ベルリンのヴァンゼー地区にある豪邸で暮らした。急進論者たちはこの家を革命家のサロンと、また批判的な人々は内輪向けの娼館と呼んでいたという。しかし2011年のオデーサでは、わたしが出会ったうちの誰ひとりとして、パルヴスの名を知らなかった。この地の港を通った穀物を中心に世界の富が回る現実を見抜いた人物の名を。
2020年には、少なくともロシアとトルコ、中東の大半の国で、パルヴスはふたたび脚光を浴びていた。2017年、彼はロシア革命をテーマにした『革命の悪魔』という豪華絢爛な2部構成の歴史ドラマの主人公になったのだ。ドラマを最初に放送したのは、ロシアの国営テレビ局RT1。1917年に消滅したロシア帝国への郷愁を呼び起こす方向にウラジーミル・プーチンの政権が急旋回するなか、ロシアのメディアはパルヴスを奸智(かんち)にたけたユダヤの策士として描いた。第1次世界大戦の最中(さなか)、言葉巧みにドイツ軍を操って金銭を手に入れ、ウラジーミル・レーニンによるロシア革命の掌握を可能にした人物として、である。ドラマのパルヴスは太ってはおらず、むしろ筋骨たくましい犯罪組織の親玉という設定で、お抱え運転手とロールスロイス、若い愛人を手元に置いている。彼のエージェントは闇に包まれ、行く手を阻むツァーリの忠臣はすべて息の根を止める構えでいる。新しいロシア帝国では、プーチンの権力維持を正当化するのに、パルヴスのようないかつい悪役を使う必要性が高まってきたのだ。パルヴスが革命で果たした役割は誇張されているものの、一部は史実である。
かたやトルコでは、パルヴスは過去100年のあいだ、トルコの国民国家建設における脇役と見なされていた。だが、わたしの見るところ、第1次世界大戦中にトルコが地図から消えずに済んだのはパルヴスが一役買ったからだ。それなのに、レジェップ・タイイップ・エルドアンが2016年のクーデター未遂事件で自衛に成功すると、トルコの国営メディアはオスマン帝国末期を美化するイスラム主義的世界観へと急激に移行した。トルコ国営放送の連続ドラマ『最後の皇帝』(2017~20年)はパルヴスを、グローバルなユダヤ人の陰謀を指揮する痩身の首領につくり替えている〔訳注:『最後の皇帝』は英語版の題で、オリジナル版の題は『帝都:アブデュルハミト』〕。第2シーズンでは策略家のパルヴスが、最新式ラジエーターを使ってオスマン皇帝の部屋に毒ガスを充満させ、皇帝を除くほぼ全員を殺害する。ここにいるのはイギリスやカトリック教会、フリーメーソンとひそかに手を結ぶ、まったく別人のパルヴスだ。オスマン帝国を壊してパレスチナにユダヤ人国家を建設すべく、第1次世界大戦に火をつける行為にのめり込む人物。テレビドラマから伝わるロシアの歴史修正主義には多少の史実が盛り込まれているのに対して、トルコのそれは被害妄想的かつ反ユダヤ主義的なつくり話だ。
飛行機がオデーサの街はずれに到着したとき、わたしは自分の知識の限界をあらためて知らされた。ここの個人タクシー運転手たちのロシア語にはウクライナ風のくせがあってわたしには聞き取ることが難しく、その程度のロシア語会話力では値段交渉などおぼつかない。あれこれした末に、ドイツ語が多少できて英単語をいくつか知っている運転手を見つけた。その人にホテルの所在地を示すと、彼はわたしを頭のてっぺんから足のつま先まで2度ほど眺め回して肩をすくめ、乗車を促すようなそぶりを見せた。車が到着した段階で、彼がわたしの目的地にたいそう驚いた様子だった理由を理解した。カラシニコフを手に建物正面のゲートを警備する迷彩服の男たちをわたしがまじまじと見つめていると、運転手は顎をしゃくりながら「ルスカヤ・マフィア」と言った。2つの狙撃塔からの視線がタクシーに集まっている。どうやらわたしは、ロシア・マフィアの居住区にホテルを予約していたようだ。たどたどしいロシア語を話しながら予約確認書を見せて、警備員のあいだを通り抜けた。
ホテルの建つ地区の外には、崩れかけた道路や大規模なフリーマーケット、そしてわたしの祖母よりも年を重ねた公共交通機関が見えた。一方、内側に目を向けると、かつてのオデーサの豊かさを思わせる、途方もない富が──巨大なハンヴィー(高機動多用途装輪車両)や新型のベンツ、そしてウラジーミル・プーチンに近いロシア人新興富裕層の、数百万ドルはする夏用別荘が──視界に入った。ゲートで囲まれたこの地区のホテルからはプールを見下ろすことができ、その向こう側には黒海が広がっていた。ビキニを着た若い女性がプールで泳ぐ様子を、黒っぽいサングラスとスウェットパンツを身に着けた年配の恋人がデッキチェアから見守っていた。そう、これが新しいウクライナなのだ。ロシアの経済的植民地にして穀倉地帯だったウクライナは、1世紀以上をかけて富を築いていった。
わたしはタイルとガラスに囲まれた瀟洒(しょうしゃ)な部屋で──階下のプールに行こうとは思わなかった──調査旅行の行程を計画した。まず港から穀物の道まで行き、博物館を訪れ、街の記録を読み、ユダヤ人街を歩く。観覧すべき倉庫や、歩くべき道がある。船上から市街を眺める必要もある。わたしは穀物の道を見て、オデーサがウクライナ産穀物の輸出港になったいきさつを理解したいと思っていた。ウクライナの次は、古代に黒海地域産の穀物を世界に送り出したイスタンブールへと向かうつもりだった。ツァーリや数万人のフランス市民は、1880年代にリガ行きの鉄道に、その後は満州へと続くきわめて長大な鉄道に投資したわけだが、安価なアメリカの穀物がなぜそんな投資を促したのだろうと、わたしは疑問に思っていた。パルヴスは1895年、穀物の道を建設するために積み上げられた負債がロシアを飢饉や世界大戦や革命へと引きずり込むことになる、と述べている。わたしはパルヴスの足取りをたどるなかで、それ以上のことを学んだのだった。
【目次】

