その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は金田章裕さんの『 道と日本史 』。「はじめに」と「おわりに」をお届けします。
【はじめに】
道とは、人や車などが行き来して人の移動と物の運送が行われる、連続した帯状の空間である。人や物が目指す方向に対応して、いくつもの道が分岐したり、合流したりしているのも道の特徴である。
シュライバー『道の文化史』(関楠生訳、岩波書店、一九六二年)は、「道は人間のもっとも素晴らしい創造の一つである」と述べ、先史時代に始まるユーラシア各地の多様な道には「自然の道、改修された自然の道、建設された道」があったと指摘している。
日本においても、計画的に真っ直ぐに建設された道があれば、必要に応じて成立した、経緯や形状の複雑な道もある。また、遠くへ向かう道か、市街地の中の道かなど、さらにその機能によっても、交通手段によっても、道の状況はさまざまであった。本書の目的は、このような日本の道について、さまざまな時代や場所における、いろいろな役割と特徴、およびその成立と変化の特性についてたどることである。
シュライバーが紹介する「建設された道」とは、多くが石敷の舗装道路であった。現代のわれわれもまた、アスファルトであれコンクリートであれ、道路とは基本的に舗装されているイメージであろう。実際に、例えば水田地帯の農道であっても今やほとんどが舗装されている。例外は山中の登山道や、農道の先端などの、車の入れない狭い部分に過ぎない。そうでなければ、意図的に設定された遊歩道ぐらいであろう。われわれはどうしても、現在の道の状況から、過去の道を想像してしまうことが多いのではないだろうか。
しかし、日本で道が舗装されたのは、一部の例外を除き近代以後であった。日本の道は、歴史的にみて際立った特徴を有していたのである。とりわけ注意したいのは、近世以前の日本では、人々は基本的に草鞋(わらじ)を履いて道を歩いたことである。しかも馬さえその例外ではなかった。大雑把に表現すれば、常に馬車が行き来した旧大陸世界の道や、その延長にあった新大陸世界の道と大きく異なり、草鞋による歩行が中心であったことが、日本の道のあり方に強くかかわってきた。
本来、道とはいろいろな場所を結びつけるものであり、それによって私たちは目的の場所へとたどることができる。敷地内などの限られた範囲の道を除けば、場所を結びつける距離は、数百メートル程度の場合もあれば、数百キロメートルという場合もあって、きわめて多様である。
道幅、また用途や形状なども非常に多様である。それぞれの時代における整備や管理の状況を反映して、道のあり様は極めて多彩であった。小著では、このような日本の道のあり方の歴史をたどってみたい。
まず第1章「全国に張り巡らされた古代ハイウエー」では、古代の都を中心に畿内・七道諸国に巡らされた官道網とその改変、古代の行政や税の運送における道、さらに中世の京・鎌倉間の交通や、いわゆる鎌倉街道など多くの人々や武士団が行きかう道、および室町時代から戦国時代の道のあり様、織豊期の道路建設の状況などの動向を探る。
第2章「細くなり、曲がりくねっていく中世の道」においては、古代都城の計画的街路と、それが中世に次第に変化した状況や、中世の市街に伴ってできた街路、さらに近世城下における街路の整備状況およびその特性を探りたい。
第3章「あえて難所を残した江戸幕府」では、古代から近世にかけての人流と物流の道について、あるいは日常と非日常の道、それらの機能と構造の変化などの例を取り上げる。加えて荷を積んだ牛車を通す、石敷の車道(くるまみち)の例も眺めたい。その上で、近世の街道のあり様と、その整備の状況についても触れたい。
第4章「日本では馬も草鞋を履いていた──外国人が見た日本の道」では、近世以降の日本における伝統的な道の構造についてのヨーロッパ人の報告や、近代における道の構造と道路網の変化に注目したい。特に交通手段の変化による強い影響と、現在の道路状況への転換について述べたい。最後には、新たに建設された鉄道や、現代の特徴的な道路についても言及しておきたい。
【おわりに】
日本における道の歴史について、小著では具体的事例に即して述べるように努めてきた。筆を擱くに際して、その全体を見渡した感想を加えることをお許しいただきたい。
古代においては計画的に建設された直線道が広く出現した。そのパターンには、大きく二種類があった。一つは畿内の大和や、摂津・河内と大和を結ぶ計画道に多い東西・南北方向の直線道であり、藤原京から平安京にかけての各京域内の方格街路とその延長も同様であった。
それに対して七道諸国の官道にもやはり計画的な直線道が多いものの、方位を規定していたのは、まず地形条件であった。直線道の方向は、平野に張り出した山麓や、山地を超える峠を目指して、目的地点を結んだ直線が、折れ線状に続くパターンが多く、方位は多様であった。
この二つのパターンは主として、中国大陸の影響を受けて建設された宮都の中の街路や、それら宮都を結ぶ場合と、都と七道諸国を結ぶ場合とに生じていたが、いずれの場合も直線道優先であったことは共通する。古代の律令国家が、当時の唯一の政治権力であり、それがこれらの直線道の計画・建設を可能にしたのであろう。これは日本における道路建設の第一段階ととらえることができる。
古代の幅広い直線道の多くは中世ごろに、幅の狭い湾曲した道へと変化した。第二段階である。この時期には平安京とその周囲へ延びる道に典型的にみられるように、本来の道路敷の多くが田畑や屋敷地に化した。道路の建設・管理をしてきた律令国家が弱体化・変質して、それが維持されなくなったことが主因の一つであろう。鎌倉のようにごく一部に直線道も計画されたが、中世末にかけて政治権力は地域的分断の状況を強め、全国の道路網の統一的な管理は行われなかった。戦国時代を経た織豊期には、やや広域にわたる道普請が行われたが、織田信長の場合でも道幅は、広くて六メートル強であった。
第三段階となる近世では、宿場町などを伴った街道・脇街道として全国的に整備された。しかし道路網自体は、狭く湾曲した道の形状や、相対的に狭い道幅が標準となり、その維持・改修が中心であった。近世の城下などでは新しい計画による道も建設されたが、個々の城下建設の意図に対応して、街路自体は、概して狭く、屈曲した形状であった。これが、やがて近代に至った時期の道である。
このように建設される道の性格が歴史的に変遷し、また繰り返して改修されつつ利用され続けた道が多かったことは、日本における道の一つの特徴であろう。もう一つの特徴は、本文で指摘したように日本の道のほとんどが、草鞋の歩行に適した、軟らかい路面の道が基本であったことであろう。牛に引かれた荷車などが通る舗装された車道(くるまみち)は、輸送量の多い都市周辺や傾斜地などに限られ、京周辺などの僅かな地点でみられたに過ぎない。
さらに第四段階は、近代における鉄道建設・道路整備であり、それらに伴う旧来の道の拡幅と新しい道路網の建設、そして硬い路面の舗装道路への転換であった。これには近代国家の統一的な道路政策があった。
続く第五段階は、自動車専用道路の出現をはじめとする現代の車社会の道路である。
これらの道はいずれの時代においても、いずれの段階であっても、何らかの目的地があって利用された。小著では全く触れなかったが、このほかに道の広狭を問わず、散歩道・散策路として利用される道がある。散歩・散策は本来、ぶらぶらと歩くこと自体が目的であり、特定の目的地のない道の利用法である。人によっては気に入った風景を眺めたり、好みの喫茶店へ立ち寄ったりするかもしれないが、それは散歩・散策に付加された目的であろう。これに加えて現在では、環境省が計画し、都道府県とともに整備した自然歩道もあるが、これは主としてハイキング用であり、長距離であるものの、やはり散歩道の延長とみるべきであろう。
いずれにしても道にはさまざまな形状・様相があり、人々の生活や、政治・経済・社会・技術などの変化・進展とともに、変わり続けてきた。小著ではその状況を語る資料を探し、それを眺める作業を続けてきたが、十分であったかどうかは心もとない。ここで第一~第五段階とした変遷も感想の域にとどまり、その背景についてさらに検討を加える必要があろう。これからもさまざまな変化が続くと思われる。とりわけ空路の進展・変化は著しいが、その全貌を眺める余裕は残されていない。
小著についてもまた、日経BPの桜井保幸氏にお世話になった。草稿に目を通していただいて、さまざまなご指摘をいただいた。末筆になるがお礼を申し上げたい。
二〇二四年二月
比叡山麓の寓居にて 金田章裕
【目次】




