その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は羽生田慶介さんの『 ビジネスと地政学・経済安全保障 』です。
【はじめに】
「地政学」はもはや「教養」ではなく「ビジネス実践」である
2016年、ドナルド・トランプ氏が米国の大統領選挙で勝利したとき、私たち地政学・経済安全保障の専門家は正直に言えば高をくくっていた。「どうせ、トランプ氏が提唱しているような極端な保護主義政策は実現できないだろう」と。
私たち専門家が単に楽観主義だったわけではない。第2次世界大戦の反省を踏まえてつくられたGATT(関税および貿易に関する一般協定)やWTO(世界貿易機関)のルールから見れば、トランプ氏が掲げていた保護主義政策の数々は、いずれも明らかに「違反」していたからだ。そもそもGATTやWTOのルールがつくられたのは「過度な保護主義」や「特定国への差別的対応」が戦争を引き起こしかねないからであり、特定国への「高関税」や「禁輸」「投資規制」は、国際社会全体で長らく禁じ手とされてきた。つまり、このルールは「越えてはならない一線」だった。
だが実際には、多くの専門家の予想を裏切り、トランプ氏の政策はそのまま実行に移された。米国は、日本を含む世界各国から米国に輸入される鉄鋼・アルミニウム製品に対して高い関税をかけたほか、政府調達において自国製品の購入・使用を義務付ける規定(バイ・アメリカン)を強化した。いずれもWTOのルールに抵触し得る振る舞いだ。米国は、GATT21条「安全保障例外」を行動正当化の理由にしている。この規定により、一言でいえば「自国の安全保障に関わる対策であれば、その正当性を証明することなく、何をしてもよい」と主張する国も出ている。
当然、米国の暴挙によって不利益を受ける国々は、報復措置として同様の施策を米国向けに発動した。本来はこれらも、WTOへの違反に対する申し立てや仲裁などのプロセスを経て実行すべきものだが、多くはそのプロセスを経ずに講じられた。
ある国のとった措置を不服に思う国があれば、WTOに提訴することもできるが、そのWTOは、紛争の最終的な判断を下す上級委員会の委員選任を米国が拒否しているため、紛争解決機能が不全に陥ってしまっている。その結果、「相手が違反するなら、こちらも違反で報復するしかない」といった考え方が広がり、なりふり構わない「自国ファースト」の政策が世界各地で乱立しつつある。2025年に始まった第2期トランプ政権では、さらにその傾向は顕著に見られると言ってよいだろう。
「教養としての地政学」などと悠長に構えていられない
ここ数年、ビジネスパーソン向けに「教養としての地政学」をテーマにした書籍や記事などが人気を集めている。哲学であれ、歴史であれ、文学であれ、大人としての「教養」が身につくのは、うれしいものだ。「教養としての地政学」から得られる学びに、目からうろこが落ちた人も多いに違いない。だが、様々な地政学リスクが現実化しつつある今、もはや地政学を単なる「教養」の一つとして楽しんでばかりはいられない。
ここであらためて説明しておくと、「地政学リスク」とは、国際情勢や地域間の政治的・軍事的緊張、国境を越えた紛争や制裁など、地理的・政治的要因に起因するリスクを指す。国家間の対立や制裁の発動により、企業のサプライチェーンが分断されるようなケースが典型的だ。そして、地政学リスクと極めて強く連関しており、常にともに語られるテーマが「経済安全保障(economic security)」だ。国家や企業が自らの重要な技術・資源・インフラを外部の脅威から守り、経済活動を安定的に継続するための取り組みを指すが、地政学リスクが高まれば、サプライチェーンが不安定化し、重要資源や先端技術の確保も困難になる。つまり、地政学リスクが高まれば、必然的に経済安全保障リスクにも直結するのだ。本書では、この二つを連続するひとつながりのリスクと捉え、併せて語ることとする。
地政学・経済安全保障(以下、経済安保)リスクは、すべての企業にとって無視できない最重要の経営テーマであり、実務に直結する課題と捉えるべきだ。個人が教養のために地政学を学ぶのは自由だが、企業としては、トップから末端の従業員に至るまで「実践としての地政学」を徹底的に浸透させていく必要がある。
今や、あらゆる企業やビジネスパーソンは地政学・経済安保リスクの影響から逃れられない。「必要な部材が入荷できなくなり、予定通りに生産できない」「経済安保の観点からのセキュリティー対応が不十分で、政府事業への入札資格が得られない」「サイバー攻撃でサーバーがダウンし、従業員やお客様データが流出した」といったシビアな現実に直面せざるを得ないのだ。
本書の読者の多くにとって、これまで自社のサプライチェーンやサービス網が突如停止するような事態が起きたのは、台風や地震など自然災害時に限られていたのではないだろうか。
例えば、2011年のタイの洪水ではハードディスクドライブ(HDD)の欠品が問題となり、東日本大震災では、自動車向け半導体を製造していた茨城県内の工場が被災し、多くの企業に影響が出た。自然災害によるサプライチェーンへの影響は、浸水や倒壊など物理的な被害によるものがほとんどだ。一見してわかりやすいので消費者や顧客企業からの理解も得られやすく、被災者や被災地域の復興や救済は、政・官・民が一体となって連携しながら対応する。
だが、地政学リスクの場合は、状況が全く異なる。自社のサプライチェーンが寸断されて原材料などの調達が不能になっても、政府からの支援のみを頼りにはできず、顧客の理解も得にくい。これまでの常識や対策が通用しない新たなリスクに対して、企業は孤独な戦いを余儀なくされる。
「教養」vs「ビジネス実践」で見る地政学
本書は、ビジネスパーソンに向けて、地政学リスクや経済安保リスクにどのように対応すべきかを解説した入門書だ。経営者から新入社員まで、すべての企業人が「実践として」どのように考え、備え、意思決定し、行動に移すか、ビジネスの現場での実務を意識して具体論を述べることを目的にしている。
おそらく本書と対をなすのが、前述の「教養としての地政学」に分類される書籍だろう。その中にはベストセラーとして広く読まれているものもあり、この分野に対するビジネスパーソンの関心の高まりを感じる。だが、ビジネスパーソンの中には、そうした本を読んだ後に、「それで、実際のビジネスでは、地政学リスクに対して一体何から手を付けたらよいのだろう」と感じた人もいるのではないだろうか。実は、私が経営するオウルズコンサルティンググループでは、実践として地政学リスクに向き合う必要がある経営者や担当者から、日々そうした相談を多数受けている。本書は、そのコンサルティングのエッセンスを凝縮したものでもある。
「教養としての地政学」と「ビジネス実践としての地政学」は、それぞれどのようなキーワードで整理されるのか。その概略をまとめたのが図表0・2だ。ここで紹介するキーワードを理解しておけば、本書を読み進む上で理解の助けになるだけでなく、いわゆる地政学の教養本を読まなくてもそのエッセンスを一通り素早く吸収できるので、一読の価値ありだ。
「教養としての地政学」の必須キーワード①
ランドパワー、シーパワー
「ランドパワー」と「シーパワー」は、地政学において国際情勢を整理する基本概念の中核にある考え方だ。国家の戦略的影響力を説明するための概念で、それぞれ陸上と海上での支配力を指す。
ランドパワーは、英国の地理学者ハルフォード・マッキンダーによって提唱された概念で、主に大陸国家が持つ陸上での支配力を指す。広大な領土、豊富な資源、そして地理的に他国からの侵入を防ぎやすい位置を強みとする国家が発揮する力のことだ。代表的なランドパワーの例として、ロシアや中国が挙げられ、陸軍や内陸輸送路の確保が重要とされる。
一方、シーパワーは、米国の地政学者アルフレッド・セイヤー・マハンによって提唱された概念で、海洋国家が持つ海上での支配力を指す。英国や日本、米国などの海に囲まれた国々が、海軍力や海上交易を通じて影響力を拡大する形態だ。シーパワーは、海洋の支配や航行の自由、貿易路の確保が中心となる。島国を中心としたシーパワーにとって、遠隔となる他国の領土支配は容易でない。そのため、貿易や金融、国際的なルール形成によって影響力を行使し続ける覇権を志向しがちだ。
このように、ランドパワーとシーパワーは、それぞれ異なる地理的条件に基づき、国家が影響力を拡大・維持するための戦略を示す概念だ。
「教養としての地政学」の必須キーワード②
ハートランド、リムランド
地理的な位置付けと覇権争いに関する概念として、「ハートランド」と「リムランド」という分類もある。
ハートランドもマッキンダーによって提唱された概念だ。ユーラシア大陸の中央部、特にロシアや中央アジアを指し、地理的に広大で資源豊富なこの地域を、軍事的・経済的な「心臓部」と捉えた考え方だ。マッキンダーは、このハートランドと呼ばれる地域を支配する国が世界の覇権を握ると主張した。
一方、リムランドは、米国の地政学者ニコラス・スパイクマンが提唱した概念で、ハートランドを取り囲む沿岸部の地域を指す。リムランドには西ヨーロッパ、中東、東アジアなどが含まれ、スパイクマンは、この地域の支配が世界の覇権につながると考えた。リムランドでは、海上交通や貿易の要所としての重要性が強調される。
このようにハートランドとリムランドは、中心部(心臓部)と沿岸部(周縁部)という異なる地理的特性を持ちながらも、地政学の観点では、いずれも世界の覇権を握る上で決定的な役割を果たす地域と捉えられている。
「教養としての地政学」の必須キーワード③
バランス・オブ・パワー(勢力均衡)
「バランス・オブ・パワー」は、国家間の力の均衡を保つことで、特定の国や勢力が圧倒的な支配力を持つことを防ぎ、国際秩序を安定させるための地政学的な概念だ。例えば、強大な第2勢力が台頭することで国際的な均衡が崩れるとき、1位の国が3位の国と同盟を結び、第2勢力を抑え込むことで、全体的な力のバランスを回復させようとする動きがこの典型だ。特に19世紀ヨーロッパでは、列強が互いの力を均衡させるためにこの戦略を取っていた。冷戦時代にも、米国とソ連が核による相互抑止と合わせ、それぞれの勢力圏で軍事同盟を形成し、互いに力をけん制することで、核戦争などの大規模な衝突を回避したとされる。
中国の猛追によって20世紀後半から続いた米国一強体制が大きく揺らいでいる現在、地政学のセオリーであるバランス・オブ・パワーがどう発現するかにあらためて注目が集まっている。
「教養としての地政学」の必須キーワード④
チョークポイント
地政学における「チョークポイント」とは、重要な交通や貿易ルートが集中する狭い地理的な場所を指す。具体的には、海峡や運河、陸路の一本道のような場所のことで、そこが閉鎖されたり、紛争などで通行に支障を来したりすると、世界の貿易や軍事行動に大きな影響が及ぶ。チョークの本来の意味は、「相手ののどを詰まらせる」「苦しませる」だ。
典型的なチョークポイントは、中東のペルシャ湾とオマーン湾の間に位置するホルムズ海峡や、マレー半島とスマトラ島の間にあり太平洋とインド洋を結ぶ最短距離の航路となるマラッカ海峡などだ。
特に、エネルギー資源の輸送路としてのこれら海峡や運河を安全に航行できるかは、国益に直結する。日本政府は、チョークポイントを通過する各国の輸入原油の数量を合計し、総輸入量で割った「チョークポイント比率」を公表している。2021年の推計は183.2%(複数回通過する場合に都度計上するために100%を超えることがある)に達し、ドイツの56.8%、米国の22.2%に比べると飛躍的に高い数値になっている。
5分で学べる「ビジネス実践としての地政学」のエッセンス
「教養としての地政学」における必須キーワードを紹介してきたが、では「ビジネス実践としての地政学」とは、どのようなものなのか。そのエッセンスとアウトラインを理解するための六つの「キーワード」を解説していく。
「ビジネス実践としての地政学」の必須キーワード①
デカップリングとデリスキング
「デカップリング」は、国家や経済圏同士の経済活動を切り離すことだ。貿易、技術供給、資本流動、サプライチェーンの分断などが含まれる。ある国が他国に対して(例えば資源や半導体製品などの調達に関して)依存することから生じるリスクを回避するため、別の手を打って依存から脱し、経済的な独立性を確保しようとする考え方だ。米中間での摩擦の加熱を受けて、国益や経済の安定を図るために、分断をも辞さない強硬な措置を講じてこの方針を採用すべきだとする主張が数年前まで多く見られた。
一方、「デリスキング」は、経済的・産業的な関係を完全に分断するのではなく、リスクを管理・軽減するアプローチを指す。先端技術や重要インフラにおいて他国への依存リスクを軽減しつつも、その他の部分での協力や相互依存は維持することを目指す考え方だ。
2017年頃の米国トランプ政権では、「中国からの完全なデカップリング」にも言及されたが、高度につながっている世界経済の現実を踏まえ、2023年5月のG7広島サミットではデリスキングが共有認識となった。
サプライチェーンにおける調達管理や、海外との共同技術開発における地政学・経済安保対応として、必ず知っておかなければならないキーワードだ。
「ビジネス実践としての地政学」の必須キーワード②
フレンド・ショアリング
デカップリングやデリスキングを目指す具体策の一つが「フレンド・ショアリング」だ。サプライチェーンの構築や経済協力を、安全で信頼できる国や同盟国、価値観を共有する国々に集中させる戦略を指す。
コスト削減を主目的として、人件費やインフラコストが安い国・地域に生産拠点を移す「オフショアリング」と違って、フレンド・ショアリングは、地政学リスクの回避を優先したサプライチェーンマネジメントの方策だ。そのため、製造や部品調達コストの上昇はある程度、覚悟の上となる。
では、どの国が安心で気を許せる「フレンド」となるのか。自由貿易協定(FTA)や経済連携協定(EPA)の締約国同士であっても、必ずしも「フレンド」とはいえないのが難しいところだ。例えば、東アジアの広域経済連携である地域的な包括的経済連携(RCEP)には、日中韓、東南アジア諸国連合(ASEAN)10カ国、オーストラリア・ニュージーランドの計15カ国が含まれているが、国の組み合わせによっては「フレンド」とは互いに認識していないケースも多くある。
「ビジネス実践としての地政学」の必須キーワード③
〇〇プラスワン
「〇〇プラスワン」とは、「チャイナ・プラスワン」や「タイ・プラスワン」など、大規模な事業拠点への過度な依存を回避するために、周辺地域にもう1拠点を構える産業戦略を指す。特に、製造業における生産拠点の戦略として語られることが多い。
もともとは2010年前後に、中国の人件費上昇によるコスト増を懸念して、ベトナムなどの新興国に「プラスワン」として新規の工場を設置する動きが増え、「チャイナ・プラスワン」という言葉ができあがった。近年は、地政学リスク回避の観点から、半導体製造の前工程における「台湾・プラスワン」拠点候補としてのマレーシアが注目を集めるなど、新たな動きも見られる。また、拠点を複数設ける「プラスアルファ」も近年増えている。
「ビジネス実践としての地政学」の必須キーワード④
G7、グローバルサウス
「教養としての地政学」における「ランドパワーとシーパワー」や、「ハートランドとリムランド」のように、現代のビジネスパーソンが意識すべき対比的な国際関係を挙げるとすれば、「G7とグローバルサウス」となるだろう。
G7は、米国、カナダ、日本、ドイツ、フランス、英国、イタリアと欧州連合(EU)で構成され、世界経済や国際問題について協議する枠組みだ。これに対してグローバルサウスは、主にラテンアメリカ、アフリカ、アジアの発展途上国や新興国を指す。
近年、気候変動や経済問題などへの国際的な対応の方向性について、G7とグローバルサウスの間に意見の相違が生じるケースが増えている。特に、地球温暖化問題において、先進国が歴史的に大量の温室効果ガスを排出してきたにもかかわらず、その対策のために発展途上国に過剰なコストを押し付けて経済発展を阻んでいるとするグローバルサウス各国の主張は、両陣営の意見衝突の典型だ。
グローバルサウスを含めたより多面的な視点を持って国際情勢を理解するために、G7側の米国のCNNや英国のBBCの報道だけではなく、中東カタールの国営衛星放送テレビ局アルジャズィーラをウォッチする欧米エリート層も増えているという。
ちなみに、多様な国々を「サウス」としてひとまとめにする「グローバルサウス」という言葉は、必ずしも適切とはいえないとの批判もある。それぞれの国家の特性を無視し、歴史的な植民地主義的観点からのレッテル貼りになってしまう可能性があるからだ。実際、2023年のG7広島サミットでの首脳文書では、「グローバルサウス」という表現は使われなかった。
「ビジネス実践としての地政学」の必須キーワード⑤
ルールメイキング・リーダーシップ
地政学をビジネス実践の観点から捉える場合、「覇権」とはすなわち、ビジネスに影響があるルールを形成するための国際リーダーシップを指す。
学問として地政学を正しく定義するならば、地理的位置、資源分布、気候などが国家の政治的・経済的・軍事的な戦略にどのように影響を与えるかを探求する分野だ。影響力の行使の結果は「地理的な」変化、つまり領土や物理的要所のコントロールにつながる。こうした前提で学ぶのが「教養としての地政学」だ。
それに対して、「ビジネス実践」として地政学を捉える場合には、その地理的変化がまわり回って「自社ビジネスにどのような影響を与えるか」を読み解く必要がある。この「影響」の主体となるのが、ルールだ。国家間の協定や国内法はもちろん、国際標準や民間規格、企業レベルの調達ガイドラインを含む広範なルールメイキングこそ、ビジネスに直結する地政学のアウトプットといえる。
例えば「ロシアによる軍事侵攻の結果、特定の地域が制圧される」ことは、地政学的に見て非常に大きな変化だ。だが、実際のビジネスへの影響はどうなっているか。エネルギー調達をロシアに依存してきた欧州などの国々が、自国のエネルギー危機を懸念し、これまで策定してきたルール自体を大きく見直す動きをとっている。「持続可能な経済活動」を定義する枠組み(EUタクソノミー)において、天然ガスを「グリーン」な経済活動と分類し、積極的に投資を呼び込む対象に加えたのだ。「天然ガスは真に持続可能なエネルギーではない」との批判の声も強かったが、ルールメイキングを通じて今後のエネルギー危機に備えた形だ。このルール変革が、世界各国の企業にも大きな影響を及ぼすことになる。このケースにおける実質的な「覇権」は、軍事衝突の勝者ではなく、脱炭素関連のルールを決めた議長国こそが持っていたとする見方もできるのだ。
「ビジネス実践としての地政学」の必須キーワード⑥
チョークポイント
ビジネス実践における「チョークポイント」とは、事業活動に必須となる重要な物資やシステムが入手困難となり得る地政学リスクの存在を指す。
現代のあらゆる産業に欠かせない半導体の調達サプライチェーンは、中国の脅威にさらされている台湾の企業が製造シェアの大部分を握っていることから、この典型といえるだろう。リチウムイオン電池など多くの製品に必要なレアメタルなどの鉱物資源も、その供給は中国や一部の資源国に依存しがちであり、途絶した場合には、産業全体に重大な影響が及ぶ。
近年のビジネスでは、デジタルインフラをめぐる争いが実質的なチョークポイントとなることもある。GAFAM(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン、マイクロソフト)と呼ばれるような巨大テック企業は、数十億もの顧客接点を握るプラットフォームを運用しており、これら企業との関係が良好でなくなったとき、大きな経済圏へのアクセスが制限されるかもしれない。
さらに、データセンターを他国ベンダーに依存することもリスクとみなされるようになってきた。デジタル庁は2023年11月、自治体が持つ個人情報などを管理する政府クラウドの新しい提供事業者として、国内事業者のさくらインターネットを選定した。それまで政府クラウドの提供事業者は、アマゾン、マイクロソフト、グーグル、オラクルの米国企業4社に限られていた。
エネルギーへのアクセスも、まさに実務上のチョークポイントだ。ロシアによるウクライナ侵攻で、欧州各国では天然ガスの調達が途絶え、多くの産業で混乱が生じリスクが顕在化した。今後成長が期待されるフュージョン・エネルギー(核融合)の技術を保有できるか、開発した技術を他国へ渡すかという論点も、ビジネスのチョークポイントに関わる重要なアジェンダだ。
「ビジネス実践としての地政学」における学び手の「出口」とは
本書では第6章で、企業の機能(部署)別に地政学リスクへの対応策を詳述する。リスクに備えなければならないのは経営陣や法務部だけではない。経営企画、財務・経理、調達、製造、営業・販売、IT、そして研究開発まで、あらゆる部署の担当者が、地政学や経済安保リスクを深く理解し、リスクの顕在化に備えて対策やシミュレーションをしておく必要がある。今日からでも始めるべきアクションが数多くあるので、参考にしてほしい。
実務を推進する際にビジネスリーダーがまず身につけておくべきは、なんと言っても拙速な判断を避けるための、国際情勢に対する「大局観」だ。すぐにでも米国が新たな関税措置を講じるかもしれないし、EUの中ではドイツとフランスの政策不一致があるかもしれない。中国がアフリカの資源国と新たな経済連携協定を結ぶ可能性もある。そうした出来事が起きると、報道機関は必要以上に危機感をあおる記事を出すこともあるだろう。ビジネスリーダーはそれに惑わされることなく、各事象が、自社のビジネスに対して「不可逆なシフト」なのか、それとも「過去に通った道に逆戻りしただけなのか」を冷静に判断し、正しい意思決定や行動につなげていくことを目指したい。
もはや大国の選挙ですら、結果の先読みが困難な時代になった。将来予測を立てることも重要だが、それだけにとらわれるべきではない。この予測不能な時代においては、常に複数シナリオを前提にビジネスプランを準備し、いつでも素早く見直せる態勢をとらなければならない。幸い、AI(人工知能)を活用したサービスの普及によって、ベースシナリオから係数を多様化させるシミュレーションは容易になった。
「ビジネス実践としての地政学」において、最大のアジェンダは「経済安全保障」だ。すでに各国が数多くの関連法令を施行しており、対応をしくじると利益がすべて吹き飛ぶ事態にもなりかねない。2025年以降のすべての企業人が学ぶべき地政学の視点として、経済安保が主要テーマとなることは間違いない。
リーダーの「大局観」が利益をつくる
先ほど「大局観」を持つことの重要性について述べたが、実際の例で説明しよう。
第1期トランプ政権(2017~21年)の大統領補佐官であり、第2期(2025年~)政権で通商・製造業担当の大統領上級顧問に任命されたピーター・ナヴァロ氏が2015年に執筆した『米中もし戦わば』(原題:Crouching Tiger - What China's Militarism Means for the World)は、第1章「米中戦争が起きる確率」から始まる。ここで示された米中戦争が発生する確率は、なんと「70%」だ。中国の習近平国家主席(1953年生まれ)の存命中に起こると想定すると「30年以内に70%」と考えてもいいかもしれない。一見ぎょっとする数字だが、どう受け止めるべきだろうか。中には、70%という数字をセンセーショナルに報じる記事だけを見て、半ばパニックの状態で極端な判断に踏み切ってしまう人もいるかもしれない。
だが、ビジネス実践としての地政学に明るく「大局観」を持つビジネスリーダーであれば、より冷静な判断を下せるはずだ。
実はこの数字は、いわゆる「トゥキュディデスの罠」の概念に基づいて過去の統計データを示しているだけだ。「トゥキュディデスの罠」とは古代アテネの歴史家トゥキュディデスにちなんだ言葉であり、「従来の覇権国家と新たに覇権を狙う新興国家が、戦争が不可避な状態となるまで衝突する現象」を指す(米政治学者グレアム・アリソンによる造語)。1500年以降、中国のような新興勢力が米国のような既存の大国に対峙した15例のうち11例(すなわち70%以上の確率)で戦争が起きているというデータに基づいている。単に、歴史的事実から導いた確率を示しただけで、今日の米国・中国の現状や、地政学的な動向そのものを詳細に分析して導き出された数字ではないのだ。
そもそも「30年以内に70%」という数字は、天変地異の発生や国際情勢の変化を予測する際に頻出するものだ。例えば、南海トラフ地震の発生確率として、2013年に政府地震調査研究推進本部が出した数字も「30年以内に70~80%」だった。これは「時間予測モデル」と呼ばれる計算方法で算出された確率だ。この予測値の科学的根拠や信ぴょう性については以前から疑義が出されており、2024年4月の国会でも議論が再燃した。人々をドキリとさせて危機感をあおりたい場合に、よく用いられがちなのが「30年以内に70%」といったキャッチーな数字だといえる。こうした目を引く数字に惑わされず正しい判断を下すために必要なのが、地政学(その背景にある歴史も含む)の理解に基づく「大局観」だ。
バイアスを乗り越え冷静に判断できるか
正しい「大局観」を身につける上で、注意すべき点として、事実をゆがめる様々なバイアスの存在がある。例えば、国際社会のパワーゲームにおいて、一方を善、もう一方を悪と位置付ける「極端な二元論」には、特に注意が必要だ。
典型的な例が、中国が開発途上国に仕掛けているとされる「債務の罠」に対する捉え方だ。「債務の罠」とは、中国が途上国に対してインフラ開発のための融資を実行した後、途上国が多額の債務を返済できない場合に、重要インフラの権益の譲渡を迫ることを指す。スリランカ南部のハンバントタ港はその典型例とされ、中国からの融資で整備したが返済が滞り、運営権が事実上、中国企業に譲渡された(99年間のリース)。
中国が「一帯一路」構想のもとで世界覇権を目指すために採用しているとされるこの戦略を知って、あなたはビジネスにどう生かすだろうか。「中国が関わるグローバル案件は危ない。中国が関係するインフラプロジェクトからは距離を置こう」と考える人もいるかもしれない。だが、現実のビジネスはそれほど単純にはいかない。グローバルな入札案件で、中国関連企業からシステム提供の依頼や部材発注が来たときに、「当社は中国とは距離を置くので」とゼロ回答を返せる企業は、実際には多くないだろう。
実は、中国が途上国に融資したインフラ関連事業で「債務の罠」とされるケースも、少し詳しく調べると単なる「失敗案件」であることが少なくない。工期が遅れた、納期を守れない、システムがうまく稼働しない、建物はできたが入居するテナントがいないなど、そもそもの事業見通しの甘さやオペレーションの実力不足により当初の収益見通しが崩れ、結果として「債務が返済できない」状態に陥った案件が大半を占める。
個別の案件の背景をきちんとリサーチすることなく、「中国関連プロジェクトは危ない」と決めつけるのは拙速だ。仮に、中国政府が「債務の罠」のような中長期戦略を持っていたとしても、多くの途上国において同時並行で進む開発プロジェクトにおいて、民間企業の現場にまでその意図や方法を徹底させて、きめ細かくコントロールするのは難しいはずだ。こうした冷静な視点を持つことも「大局観」の一部といえる。これからの時代、ビジネスリーダーの持つ「大局観」こそが、企業の利益、ひいては存亡を左右する。
【目次】






