その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は堀内勉さんの 『読書大全 世界のビジネスリーダーが読んでいる経済・哲学・歴史・科学200冊』 です。



【はじめに】

1 読書が与えてくれたもの

 2008年から始まる世界的な金融危機、世にいう「リーマンショック」が起きた当時、私は都市開発デベロッパーである森ビルの財務担当役員、いわゆるCFO(最高財務責任者)として、メガバンクや社債市場を相手に、1兆円以上に膨れ上がった負債をコントロールしなければならない立場にありました。森ビルは非上場会社でしたので、主な資金調達ルートは銀行と社債市場しかありませんでした。東京都心に保有する優良不動産に膨大な含み益がありながら、みるみるうちに手元資金が枯渇していくのを目の当たりにして、恐怖と戦いながら資金繰りに奔走する日々でした。

 その時に私の脳裏をよぎったのは、かつて自らが銀行員時代に経験した、1997年から1998年にかけての日本の金融危機でした。当時、私は、今はみずほフィナンシャルグループのひとつになった日本興業銀行(興銀)の総合企画部で、自己資本調達、格付け、投資家向けIR(インベスター・リレーションズ)を担当していました。
 1990年の株価大暴落から始まったバブル崩壊は、この頃にはもはや、なんとか騙(だま)し騙しやっていける段階を通り過ぎていました。これに加えて、当時の大蔵省(現在の財務省、金融庁)への過剰接待問題をきっかけに東京地検特捜部の捜査が各金融機関に入ったことで、日本の金融システムは雪崩(なだれ)を打ったように崩れ始めました。その過程で、北海道拓殖銀行や山一証券が破綻し、その危機はそれまで絶対的な信用を誇っていた大手銀行にも迫りつつありました。
 今では信じられないかもしれませんが、日経平均株価が史上最高値の3万8957円を付けた1989年末のバブルピーク時の興銀の株式時価総額は、NTTに次いで(日本だけではなくて)世界第二位だったのです。少しテクニカルな話になりますが、企業の信用力を示す格付けについても、ムーディーズとS&Pという世界の二大格付け機関からそれぞれAAA(トリプルA)、合わせて6A(シックスA)という格付けを与えられ、世界最高の信用力を認められていました。それが、十年も経たないうちにここまで凋落(ちょうらく)し、追い詰められていくとは、想像さえしていませんでした。
 この接待汚職事件は、当時の第一勧業銀行利益供与事件における、大蔵省の検査の甘さが総会屋(株主としての権利行使を濫用することで会社を脅して不当に金品を収受しようとする特殊株主)への焦(こ)げ付き融資の拡大につながったとして東京地検特捜部が捜査を開始し、都市銀行、長期信用銀行、大手証券会社などへと連鎖的に拡大していきました。

 私自身も、当時の大蔵省との仕事上の関係が深かったため幾度となく東京地検で取り調べを受け、しかもそのかたわらで倒れゆく銀行を支えなければならないという二重苦の中、「これは絶対になにかの間違いに違いない、明日の朝、目覚めたらこれまでのことは全て悪い夢だったとなるに違いない」と信じていました。
 しかし、銀行が倒産する、あるいは自分が逮捕される悪夢にうなされて夜中に飛び起きるという日々が続き、最終的には元上司が逮捕されることになります。こうしたことで、私の中でこれまで信じていたものが壊れてしまい、自分のこれまでの生き方や日本の金融のあり方、それから公権力としての検察のあり方に対して根本的な疑念を抱くようになっていきました。

 この一連の汚職事件の中で、結果として贈賄(ぞうわい)側から数多くの逮捕者を出すことになりました。同時に、監督対象である金融業界からの過剰接待やそれに絡む汚職が明らかになり、「省庁の中の省庁」といわれた大蔵省のキャリア官僚が逮捕され、多くの幹部の処分・更迭(こうてつ)が行われました。また、「銀行の中の銀行」である日本銀行でも、情報漏洩(ろうえい)で現役幹部が逮捕され、その陰で多くの関係者が自死に追い込まれました。
 こうした出来事が、結果として今のメガバンクの誕生など金融再編につながるのですが、本件については、もう二十年以上も前のことであり、もはや覚えている人も多くはないと思います。当時の私の心境については、今は新生銀行となっている当時の日本長期信用銀行の執行役員だった箭内(やない)昇(のぼる)氏の『元役員が見た長銀破綻』にある次の一節が、最も的確に代弁してくれています。

 九九年五月六日に飛び込んできた長銀の上原隆元副頭取急逝のニュースは、私にとって座っていた椅子から転げ落ちるほどの衝撃であった。経営者の中ではバブルと全く無縁であり、最後の後始末のところで組み込まれただけの人がなぜ、という思いが頭の中を駆けめぐった。……八五年のある日、長銀旧本店の小さな会議室で、上原隆企画室長をリーダーとする人事改革プロジェクトチームのメンバー四人(私もメンバー)が丸テーブルを囲んでいた。このチーム発足の発端である、「長銀長期ビジョン」についての議論を重ねていたのだ(このビジョンが後に長銀の革命と言われた第五次長期経営計画に発展する)。この長期ビジョンの策定者でもあった上原室長が、静かな、しかし重い口調で語った一言は、一生忘れられない。
「今は不透明な時代だ。皆が行く方向に漫然とついていっても崖から落ちるかもしれない。そうであるなら、考えに考えて、これだと思う道を、たった一人で蠟燭(ろうそく)をかざしながらでも進もうよ」
 私は深い感銘を覚えた。しかし、それから三年後、長銀は皆と同じバブルの道を走ってしまった。返す返すも残念でならない。長銀が破綻し、再出発を来そうとする今、今度こそ長銀マンの一人一人が自分自身で正しいと思う道を選択しなければならない。その道は様々であり、また予想もしない困難を伴うものかもしれない。しかし、出発点は長銀であり、長銀は心の故郷である。その故郷から力強く一歩ずつ歩き始めなければならない。


 結局、完全に迷走していた金融業界が政府の介入によって少しずつ落ち着きを取り戻してきたタイミングで、私は興銀を辞めて、グローバル金融の総本山であるゴールドマン・サックス証券への転職を決意しました。金融の本質とはなにかを見極めながら、改めて自分の人生を振り返ってみることにしたのです。
 そこで考えに考え抜いた上で、もう一度人生を一からやり直そうと考え、金融業界から身を引くことを決意しました。そして、実体がなく掴(つか)みどころのない金融業から、実体があり仕事の成果が最もよく目に見えるデベロッパーに転じることにしました。
 これで少しは落ち着いて、長期的なビジョンに基づいた仕事ができると安心したのも束の間で、結局、ちょうど前回の金融危機から十年後に、森ビルの財務責任者として再び金融危機に直撃されることになったのです。

 最初の金融危機の時に、私は生まれて初めて、本当の意味で本を「読んだ」と言えるかもしれません。それまでも、学生の頃はそれなりに多くの本を読んでいたとは思います。しかし社会人になってからは金融の資格試験や海外留学など、ひたすら知識を詰め込むための読書、試験を通るための読書しかしていませんでした。それが、その時には、ある意味で自分の存在をかけて、必死に読書をしたように思います。読書で「必死に」という形容はおかしいかもしれませんが、それほど真剣だった、短く言えば、「溺れる者は藁をも掴む」という切羽詰まった状況だったということです。
 最初に私が必死に読んだのが、瀬島龍三(せじまりゅうぞう)の回想録『幾山河:瀬島龍三回想録』でした。瀬島龍三は、山崎豊子の小説『不毛地帯』のモデルにもなった日本のフィクサー的存在です。もともと、陸軍士官学校に在校していた私の父親からその名前をよく聞いていたこともあり、陸軍大学首席、陸軍大本営からシベリア抑留(よくりゅう)、そして伊藤忠商事に転じ、最後は土光敏夫会長の下で臨時行政調査会を切り盛りしたという波乱万丈の人生に興味を持っていました。
 もちろん、瀬島龍三が当時から毀誉褒貶(きよほうへん)のある人物なのはよく分かっていましたし、この本は彼自身が書いた自伝ですから、自分に都合の悪いことを書いてあるとは思えません。ただ、私が何度も読み返したのは、彼の成功物語ではなく、シベリア抑留時代の部分でした。
 その一節に、「人間性の問題」というタイトルの、次のような文章があります。

 抑留十一年は、まさに苦難の月日で、時には極限と思われる時期もあった。もちろんそれは私だけでなく、約六十万人の抑留者全員がそうだったに違いない。(中略)こんな苦しい環境の中では、人間は誰も彼も粉飾できるものでなく、ほとんど「裸」にならざるを得ない。(中略)極限状態のとき、我々日本人の中には、腕力で人のパンを奪ったり、暴力をふるう者も時にいた。反対に、そんなときに自らのパンを割いて病気の友に与え、回復を助ける者もいた。「人間とは何ぞや、その本質とは何か」……私はつくづく考えさせられた。第四十五特別収容所で繰り返し読んだビクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に「人間は二つの中心に立つ包摂された楕円である」とあるのを見つけ、深く共感した。すなわち、精神と肉体、感情と理性、善行と悪行の両面を包有する「生きもの」であること、これが人間の本質だという。人間の弱さ、醜さを克服するのは容易ではない。平常から信仰心、責任感など心の鍛錬が肝要と痛感した。また、「人間にとって最も尊いものイコール人間の真価」についても考えさせられた。自身が空腹のときにパンを病気の友に分与するのは、簡単にできることではない。しかし、それを実行する人を見ると、これこそ人間にとって最も尊いことだと痛感した。「自らを犠牲にして人のため、世のために尽くすことこそ人間最高の道徳」であろう。それは階級の上下、学歴の高低に関係のない至高の現実だった。私は幼少より軍人社会に育ち、生きてきたので、軍人の階級イコール人間の価値と信じ込んできたが、こんな現実に遭遇して、目を覚まされる思いだった。軍隊での階級、企業の階職などは組織の維持運営の手段にすぎず、人間の真価とは全く別である。したがって、階級、職階の上位者ほど自らを厳しく律し、人間的修練をより重ねていくことが必要だ。“Noblesse Oblige”の精神を持たなければならないし、また、組織の上にある者は、表側ばかりを見ずに組織の裏側に光を当て、黙々と全体を支えている人たちを忘れてはならない。人間の修練は誠に限りない。棺(かん)を蓋(おお)うまでの努力ではあるまいか。


 それまで銀行でサラリーマン根性を徹底的に叩き込まれてきた自分にとって、心底考えさせられる内容でした。自分もこうした人間の真実に気づかないまま、「会社内の階級イコール人間の価値と信じ込んできた」のではなかったか。人間は本当に追い詰められたときに、なにを心の支えにするのか、自分の内面というのは実はなにもない空洞に過ぎなかったのではないかと。

 ナチスの強制収容所経験をもとに書かれたヴィクトール・フランクルの『夜と霧』(436頁参照)も読み直してみました。この本は学生時代に読んだことがありましたが、その内容のあまりの壮絶さに、どのように消化したら良いか分からずにいました。しかし、私が体験したことはそれにはほど遠いレベルではあるにせよ、自分が厳しい状況に追い込まれると、絶望のふちに立たされてもなお人間性や希望を失わなかったフランクルがなにをどのように考えていたのか、この時初めて自分事として読むことができました。
 フランクルは、「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない」といっています。つまり、我々人間は、常に「生きる」という問いの前に立たされており、それに対して実際にどう答えるかが我々に課された責務なのだということです。
 そして、後日ではありますが、フランクルが強制収容所の中で、自らに降りかかる運命をいかに克服してゆくかを説くストア哲学(ストア派)の教えを心の支えとしていたと言われていることを知りました。
 戦時体制で国有化された電力事業を今の九電力体制に組み替えて、「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門は、実業家がひとかどの人物に成長するには、「闘病、浪人、投獄」のどれかを体験しなければならないと言っています。このどれもが、自らの存在意義を問われるような大きな出来事です。つまり、自分の存在が脅かされるような過酷な状況に立たされたとき、人には生きようという不思議な本能が働き、五感が研ぎ澄まされて、一皮むけた人物になるということなのです。そして、そうした深く厳しい人生経験と良書が時空を超えて、胸襟を開いて互いに出会える瞬間に備えることこそが、まさに本を読む意味なのだと思います。

 それから十年が経ち、こうした苦しみからやっと抜け出すことができ、森ビルの森稔会長と一緒に都市開発の大きな夢を見て、心身ともに充実した仕事ができていた中でリーマンショックに直撃されたときには、さすがにこれはなにか一過性ではない、根本的な問題に突き当たったと考えざるを得ませんでした。
 それは、私を取り巻く経済環境の問題なのか、あるいは自分自身が抱える業(ごう)なのかは分かりません。
 いずれにしても、ただ自らの不運を嘆くだけでなく、もっと本質的な問題に能動的に取り組まなければならないし、こうした二度の大きな危機を経験した以上、自分なりにこの問題に正面から立ち向かうことで、なんらかの決着をつけなければ、これ以上、ビジネスマンとして前に進めない、そう強く感じたのです。
 我々に執拗にまとわりついて離れない金融というものの正体はなんなのか。そしてその前提にある資本主義とはなにか。資本主義は人間存在にとってどのような意味があるのか。なぜ企業は成長し収益をあげなければならないのか。金融というのは本当に世の中の役に立っているのか。そもそも自分はなぜ新卒で金融業界に就職したのか……そうした根源的な疑念が次から次へと湧いてきたのです。
 これが、「日本資本主義の父」渋沢栄一の玄孫(やしゃご)である渋澤健さんたちと立ち上げ、かれこれ十年近くにわたって私が主催している「資本主義研究会」の活動につながっています。そこでの主題は、「資本主義は人間の本性にかなっているのか?」「資本主義は人間を幸せにするのか?」ということです。
 こうした問題意識に沿って、人間と資本主義との関係、資本主義の新しい形などについて、今でも議論を続けています。この活動の中間的な成果として、2019年には、『資本主義はどこに向かうのか』を出版することができ、資本主義と人間との関係性の整理のところまでは、なんとかたどり着きました。

 そして、それと並行して個人的に進めているのが、宗教や哲学や思想の研究です。それまで受験秀才できていた私は、答えがなさそうな難しい問題に拘泥(こうでい)して前に進めなくなるのは得策ではないということで、どちらかと言えば、難解な本は避けて通っていたように思います。それが、客体としての資本主義の研究をするだけでなく、それを受け止める主体としての自分自身の問題に正面から取り組まなければならない、そのためには宗教や哲学や思想を真剣に学ばなければならないというように変わっていきました。
 たび重なる金融危機に巻き込まれ、多くの苦しみを味わったことも、少し時間が経って冷静に振り返ってみると、あの時のあの判断は正しかったのか、もっと別の選択肢があったのではないかなど、さまざまなことを反芻(はんすう)してみるようになりました。そして、これまでは自分を取り巻く環境のことばかりに注意が向かっていて、自分の身に降りかかる不運を嘆いてばかりいたのが、それを受け止める自分自身のあり方というのはどうだったのかを考えるようになったのです。
 こうした経験を経て、物に憑(と)りつかれたように読書を始めた私は、自分自身の備忘録のためにFacebookに読後感をアップするようになりました。意外にもそれが好評を得て、書評サイトHONZのレビュアーに誘われ、その他の雑誌にも書評を頼まれ……というように広がっていき、いつの間にか肩書のひとつが「書評家」になっていました。
 そして、これまでの自分の読書体験を語るとともに、読書の大切さを今のビジネスリーダーたちにも、是非、理解してもらいたいと思い、人類の歴史に残る名著についての本を出版することにしたのです。

 私の愛読書の中に、1800年以上も前に書かれた第16代ローマ皇帝マルクス・アウレーリウス・アントニヌスの『自省録』(418頁参照)があります。この中の一節に、私が好きな、「善い人間の在り方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて、善い人間になったらどうだ」という言葉があります。本書では、こうした本質的な問いかけに対して、それぞれの時代を代表する人たちがどう考えて、その人なりにどのように考えたのかという視点から、人類の歴史に残る名著を取り上げて解説していきたいと思います。そうすることで、読者の皆さんが、数千年の人類の歴史を味方につけることができるからです。
 そうした読書体験は、皆さんが重大な経営判断や経営危機に直面し、人生の岐路に立たされたとき、そして自分とはなにか、自分が本当はなにがしたかったのかを改めて考えてみなければならないときに、必ずや、一筋の光明になると信じています。

2 ビジネスリーダーに求められる読書とは

 それではここで、ビジネスリーダーにとって読書がなぜ必要なのかを考えてみましょう。
 “A great leader is a great reader.”(「良き指導者は良き読書家である」)という言葉があります。
 読書家で有名な経営者の代表として、マイクロソフト創業者でビル&メリンダ・ゲイツ財団共同会長でもあるビル・ゲイツが挙げられます。彼は年間50冊以上の本を読んでいて、2012年からは毎年、自身のブログ「ゲイツノーツ」(Gates Notes)を通じて、彼が読んだ本の中から数冊を推薦書として公開しています。
 毎年、この推薦書リストが大変な注目を集めるのですが、2018年には、その中から、「これまで読んできた中で最も重要な本のひとつ」として、『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』の電子版を、その年に卒業したアメリカの大学生全員にプレゼントしたことでも話題になりました。
 ソフトバンクグループ創業者兼会長兼社長の孫正義は、起業後わずか2年で患った肝炎で入院していた3年半の間に、3千冊もの本を読破したといわれています。そのほかにも、世界で最も有名な投資家であるウォーレン・バフェットや、Facebook創業者兼会長兼CEOのマーク・ザッカーバーグなど、著名な経営者で熱心な読書家という人は枚挙にいとまがありません。
 どんな情報でも瞬時に手に入るこのインターネットの時代に、超多忙な実業家がわざわざ貴重な時間を割いて読書をするというのは、単純に「知識を得る」目的だけではありません。ビジネスリーダーとしての、あるいは人間としての「洞察力」を高めるためなのです。

 私がかつて仕えた森ビルの実質創業者・森稔は、世界的建築家で画家でもあったル・コルビュジエの絵画の、世界有数のコレクターでした。彼は大学生の時に、先代の泰吉郎から不動産業を始めるので手伝うように言われ、とても悩んだそうです。地主や大家はまさに資本主義における搾取階級の権化であり、文学青年だった当時の彼には、とても受け入れられることではなかったからです。
 その時に出会ったのが、コルビュジエの『輝く都市』で、その都市開発の思想に頭を殴られるような衝撃を受けたそうです。この本を読んで、自分は不労所得を得るために不動産業をやるのではなく、戦争で灰燼(かいじん)に帰した東京を立て直し、人々が生きる「街づくり」をするためにデベロッパーを始めることを決意したのだと、何度となく熱く語ってくれたのを今でも鮮明に覚えています。
 森稔は、大学の商学部の教授で自分の経営理論の正しさを証明するためにビジネスとして不動産業を始めた泰吉郎と、ことあるごとに衝突し、何度も挫(くじ)けそうになったそうですが、そのたびに心の支えになってくれたのが、コルビュジエの本であり絵画なのだと言っていました。

 アメリカを代表するエンジェル投資家のジェイソン・カラカニスは、『エンジェル投資家』の中で、投資判断の際のポイントとして、「エンジェル投資においては、人が重要だというのではなく、人がすべてなのだ」と明言しています。ここでいう「人」とは、経営者(創業者)のことです。しばしば、会社は経営者の器以上には大きくはならないと言われますが、まさにそういうことです。
 また、シリコンバレーの最強投資家と言われているベン・ホロウィッツは、ベンチャー企業にまつわるあらゆる艱難辛苦(かんなんしんく)(ハード・シングス)にどう対処すべきかの心構えを説いた経営指南書『HARD THINGS』の中で、「(会社経営という)困難なことの中でももっとも困難なことには、一般に適用できるマニュアルなんてない」と明言しています。そして、彼自身が自らのビジネス経験から学んだCEOとして最も困難なスキルは、自分の心理をコントロールすることだといっています。
 彼が起業家に対して「どうやって成功したのか?」を尋ねると、凡庸なCEOは、優れた戦略的着眼やビジネスセンスなど自己満足的な理由を挙げるのに対して、偉大なCEOたちの答えは驚くほど似通っていて、異口同音に「私は投げ出さなかった」と答えるそうです。
 こういうビジネスリーダーにとって、あるいはこういうビジネスリーダーになるために、良書が必要なのだと私は思います。それは、危機的な状況に立たされたときに付け焼き刃で読む、お手軽なノウハウ本ということではなく、常日頃から人間としての練度を高めておく、つまり人間としての基礎体力や体幹を鍛えておくという意味においてです。

 今、戦後に世界が築き上げてきた既成概念が崩壊し、これまでのルールがまったく通用しなくなる中、それに代わる秩序やルールが立ち現れているかと言えば、それもありません。そして、この先も新しい秩序の姿は見えてきそうにないという不透明で垂れ込めた感覚こそが、今の時代を覆う漠然とした不安の正体なのだと思います。また、その裏返しが、AI(人工知能)によるシンギュラリティ(技術的特異点)がもたらすユートピアへの過剰な期待感なのではないでしょうか。
 経営学者のクレイトン・クリステンセンは、『イノベーション・オブ・ライフ:ハーバード・ビジネススクールを巣立つ君たちへ』(194頁参照)の中で、エンロンの元CEOジェフリー・スキリングを含め、彼が教授を務めていたハーバード・ビジネス・スクールの卒業生の何人かが経済事件を起こし、結果的に栄光に満ちた人生を棒に振ったという事実に触れながら、「犯罪者にならないために」という演題で人生論を語っています。そこでの彼のアドバイスは、「人生を評価する自分なりのモノサシを持ちなさい」というものです。
 これまでは、経営におけるサイエンス面を偏重し、過剰に論理と理性を重んじた意思決定だけをしていれば済みましたが、それではやがて差別化の問題に突き当たり、参入した市場は「レッドオーシャン」(血で血を洗う競争の激しい領域)と化し、利益を上げるのが難しくなります。
 そこで生き残ろうとすると、企業のガバナンスや経営手法は、現状の延長線上にストレッチした数値目標を設定し、現場の尻を叩いてひたすら馬車馬のように働かせるというスタイルに向かわざるを得ません。成長市場であればまだしも、成熟した市場でそのようなスタイルで戦っていれば、いずれ限界が来るのは自明の理で、新しいビジョンや戦略も与えないまま、まじめで実直な従業員に高い目標を課して達成し続けることを求めれば、行き着く先は「いかさま」しかありません。
 かつての東芝や日産自動車に見られたように、無茶な数値目標を与えて現場の尻を叩くことしか知らない経営陣に率いられている多くの伝統的な日本企業では、粉飾決算、データ偽装、水増し請求など、法令違反やコンプライアンス違反が後を絶ちません。なんら有効な経営戦略を打ち出せない経営陣が、現場にしわを寄せ続けた結果、そうした隘路(あいろ)にはまってしまったということです。

 これをマネジメント教育という視点で見れば、初めからどこかに答えがあることが分かっていてビジネスのテクニックを学ぶような旧来型の教育は、もはや時代遅れだということです。こうした潮流は、「フィナンシャル・タイムズ」に掲載された『美術大学のMBAが創造的イノベーションを加速する』(“The art school MBA that promotes creative innovation” 2016/11/13)という記事でもいわゆる伝統的なビジネススクールへの出願数が減少傾向にある一方で、アートスクールや美術系大学によるエグゼクティブトレーニングに多くのグローバル企業が幹部を送り込んでいる実態として報じられています。
 経営コンサルタントの山口周さんは、ベストセラーとなった『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』の中で、こうしたトレンドを、「グローバル企業の幹部候補、つまり世界で最も難易度の高い問題の解決を担うことを期待されている人々は、これまでの論理的・理性的スキルに加えて、直感的・感性的スキルの獲得を期待され、またその期待に応えるように、各地の先鋭的教育機関もプログラムの内容を進化させている」と語っています。
 つまり、グローバル企業が著名なアートスクールに幹部候補を送り込むのは、これまでのような「分析」「論理」「理性」に軸足をおいた経営、いわば「サイエンス重視の意思決定」では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできないという認識が、その背景にあるというのです。

 ユダヤ人哲学者のハンナ・アーレントは、ナチスドイツのアイヒマン裁判を傍聴して、『エルサレムのアイヒマン:悪の陳腐さについての報告』(324頁参照)を発表し、悪とはシステムを無批判に受け入れることだと看破しました。そして、無思想性と悪との「奇妙な」関係について「陳腐」という言葉を用いて、システムを無批判に受け入れる「陳腐」という悪は、誰が犯すことになってもおかしくないのだと警鐘を鳴らしています。
 我々はこの不完全な世界というシステムに常に疑いの目を差し向け、より良い世界や社会の実現のために、なにを変えるべきかを考えることが求められています。特に、社会的な影響力を持つビジネスリーダーにこそ、そうした姿勢が求められるのですが、その時に必要なのが、プラトン以来の哲学的主題である「真・善・美」の感覚であり、クリステンセン流に言えば、「人生を評価する自分なりのモノサシ」なのです。
 同時に、ビジネスリーダーというのは、往々にして社会や組織におけるエリートだという現実もあります。エリートというのは、自分が所属しているシステムに最適化することで多くの便益を受けている存在であり、システムを改変するインセンティブを持ち合わせていません。しかし、山口さんの言葉を借りれば、「システムの内部にいて、これに最適化しながらも、システムそのものへの懐疑は失わない。そして、システムの有り様に対して発言力や影響力を発揮できるだけの権力を獲得するためにしたたかに動き回りながら、理想的な社会の実現に向けて、システムの改変を試みる」ことが求められているのです。そして、そのためには、システムを懐疑的に批判する方法論としての哲学や思想が欠かせないということなのです。
 小説家のオスカー・ワイルドは、いわれのない罪で訴えられた裁判の中で、相手方から「ドブさらいめ!」と罵(ののし)られ、「俺たちはみんなドブの中を這っている。しかし、そこから星を見上げている奴だっているんだ」と言い返しています。組織に属するいわゆる「エリート」の人には、是非、この言葉を真剣に考えてもらいたいと思います。組織の流れに乗ってうまく立ち回ることがエリートなのか、それともその中で歯を食いしばって星を見上げ続けることがエリートなのかということを。この問いをどう受け止めるか、それこそがその人の美意識にかかっているのです。

 はるか太古の昔から、人類は生きることの意味を探し求め、どうしたら自分たちは幸せになれるのかを考え続けてきました。
 しかし、人類の歴史を振り返ってみると、「幸せになるための道具として作ったもの(商品・貨幣・制度など)が人間から離れ、逆に人間を支配するような疎遠な力として立ち現れてしまう」ということが、延々と繰り返されてきました。カール・マルクスはこれを「人間疎外」という言葉で表現しましたが、人が生きる意味を追い求めた結果として神話や宗教が立ち現れ、その呪縛から逃れるために哲学が生まれ、そこから自然科学が独立し、さらに、経済学が自立して資本主義がひとり歩きを始め……我々の生に意味を与えてくれるものとして作り上げたものがかえって我々自身を疎外し、そこから自由になるために作り上げたものが、また我々を疎外するという、「主客転倒」の繰り返しだったのです。
 1989年のベルリンの壁崩壊とそれに続く東西ドイツの統一、ソビエト連邦の崩壊という大きな転換点を迎えた時には、自由民主主義と資本主義経済こそが人類に平和と繁栄をもたらす唯一の選択肢であり、希望でもあるように思われました。しかし、2001年のアメリカにおける同時多発テロ、2008年のリーマンショックへとつながっていくことで、こうしたユーフォリア(陶酔的熱病)は消え去り、人類が拠って立つ基盤が大きく揺さぶられることになります。そして今、中国やロシアをも巻き込む形でグローバル資本主義が世界を覆いつくし、それが格差問題や環境問題やパンデミックなどさまざまな問題を引き起こし、人類の生存を脅かし始めています。
 こうした永遠に終わらない主客転倒の繰り返しの歴史にどう終止符を打つのか、あるいはそれにどう対応していくのか、責任あるリーダーたちには、その構想力が問われているのです。

3 我々はどこへいくのか

 DNAの類似性という意味では、人間があらゆる動物の中で特別な存在だとはいえませんが、やはりその中でも際立った特徴というのが、脳が非常に発達しているということです。特に、人間は言語能力を獲得したことで抽象的な思考が可能になり、実際に起きてはいない未来について想像したり、実際にはあり得ないような抽象的な概念を考えるようになりました。それによって、まだ起きてもいない未来を心配したり、死後の世界を恐れたりして、逆に動物としての精神的安定性には欠けるようになってしまいました。
 それが科学的にどういう意味を持つのかは別としても、そうした不安を抱えながら生きるには、自分を支えてくれるなんらかの精神的支柱が必要で、それがなければ生きていけないというのが人間の特性なのだと思います。

 この精神的支柱をどこに置くかは、文化や個人によってさまざまで、たとえば宗教は人生に意味を与えてくれる非常に強力な武器のひとつです。宗教が与えてくれる大きな物語に沿って生きていれば、これほど精神的に安定した生き方はありません。他方、その大きな物語を信じられない人にとっては苦痛以外の何物でもなく、宗教戦争や宗教的迫害で多くの人々が死に追いやられていった歴史的事実は万人の知るところです。

 私と同じく書評サイトHONZレビュアーでもあり、立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんの『哲学と宗教全史』でも引用されている、ポール・ゴーギャンが1897年から1898年にかけてタヒチで描いた大作《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》(“D‛où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?”)という絵画があります。

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 出口さんは、この絵画を引き合いに、宗教と哲学について太古の昔から人間が抱いてきた問いかけはなにかということを説明しています。そしてそれは、「世界はどうしてできたのか、また世界はなにでできているのか?」という、自分を取り巻く環境に対する問いと、「人間はどこから来てどこへ行くのか、なんのために生きているのか?」という自分自身についての問いの二つに集約されるといいます。
 私自身も、まさにこれが、我々人間全てが抱いている根源的な問いであり、経験し学習し読書するベースになっているのだと思っています。

 現在の地球の人口は約78億人、人類の誕生から今日までの累計人口は1100億人程度と推計されるそうですが、宗教も哲学も科学も全ての人類の営みを含めて、千億を超えるあらゆる人たちは、これまでこの答えを追い求めて試行錯誤を繰り返してきたのではないでしょうか。そして、その答えはまだ見つかってはいません。
 宇宙物理学や素粒子物理学の世界では、天体観測機器や素粒子衝突実験装置の開発などが目覚ましい進歩を遂げていて、宇宙の始まりや物質についての解明がかなり進んできていますが、それでもこの宇宙の始まりや成り立ちについては謎が多く、まださまざまな仮説が立てられている段階です。そして、自然界に存在する「電磁気力」「弱い核力」「強い核力」「重力」の四つの力を統一的に記述する「万物の理論」(The theory of Everything)も、いまだ見つかっていません。
 また、脳科学においては、意識のイージー・プロブレム(Easy Problem of Consciousness)と呼ばれる、脳における情報処理の物理的過程については、かなり研究が進んできましたが、意識のハード・プロブレム(Hard Problem of Consciousness)と呼ばれる、物質と電気的・化学的反応の集合体である脳からどのようにして主観的な意識体験(クオリア)が生まれるのか、つまり、心や意識はどこから来るのかという問題については、現在でもほとんど解明が進んでいません。
 そしてなにより、自然科学は我々に「意味」の世界についての手がかりを提供してはくれません。結局、我々は自分が何者なのかを知るために、終わりのない旅を続ける旅人のようなものです。その答えは誰かが与えてくれるものではなく、我々一人ひとりが自らの力で探し求めるしかありません。そして、その旅を続けるための良き道しるべになってくれるのが、良書との出会いなのです。

4 読書の仕方について

 本書の本論に入る前に、読書に当たっての注意点をいくつか挙げておきたいと思います。
 まず、読書の目的は、本をたくさん読むこと、たくさんの知識を身につけることではないということです。良い本をじっくりと読んで、それを自分のものにした上で、さらに自分の頭で考えるということを目的とすべきです。哲学者のアルトゥル・ショーペンハウアーは、読書の方法論を論じた『読書について』の「自分の頭で考える」という章で、以下のように乱読を戒めています。

 どんなにたくさんあっても整理されていない蔵書より、ほどよい冊数で、きちんと整理されている蔵書のほうが、ずっと役に立つ。同じことが知識についてもいえる。いかに大量にかき集めても、自分の頭で考えずに鵜吞(うの)みにした知識より、量はずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識のほうが、はるかに価値がある。(中略)
 自分の頭で考えてたどりついた真理や洞察は、私たちの思想体系全体に組み込まれ、全体を構成するのに不可欠な部分、生き生きした構成要素となり、みごとに緊密に全体と結びつき、そのあらゆる原因・結果とともに理解され、私たちの思考方法全体の色合いや色調、特徴を帯びるからだ。(中略)
 本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。たえず本を読んでいると、他人の考えがどんどん流れ込んでくる。これは、一分のすきもなく完璧な体系とまではいかなくても理路整然たる全体像を展開させようとする、自分の頭で考える人にとって、マイナスにしかならない。


 つまり、本を読むというのは、ただやみくもに頭の中に知識のバベルの塔を構築することではなく、思想・知識・洞察・確信を融合し、ひとつにまとまった良識や正しい判断や行動に結びつけていくためのものです。まず自説を立てて、それを強化し補強するために読書をして、自分の頭で考えるということが肝要で、これが単なる博覧強記の愛書家と、偉大な思想家や人類の進歩に貢献する人との決定的な違いなのです。
 また、「食事を口に運んでも、消化してはじめて栄養になるのと同じように、本を読んでも、自分の血となり肉となることができるのは、反芻し、じっくり考えたことだけだ」ともいっています。ショーペンハウアーが指摘するように、本を読む際には、単なる「教養」としてではなく、自分の生き方や考え方と照らし合わせてどうなのかを常に意識しながら、自身の行動と結びつけて読み進めてください。

 次に、悪書は努めて読まないということです。
 読んだ本というのは、良い意味でも悪い意味でも、その人の血となり肉となります。ですから、私は、読み手と書き手がポジティブな交流を持てる本でなければ、むしろ読まないほうが良いと思っています。この点について、ショーペンハウアーも、「悪書から被(こうむ)るものはどんなに少なくとも、少なすぎることはなく、良書はどんなに頻繁に読んでも、読みすぎることはない。悪書は知性を毒し、精神をそこなう。良書を読むための条件は、悪書を読まないことだ」と書いています。
 卑近な例で言いますと、寝る前にホラー映画や後味の悪い映画を観ると、必ずその嫌な場面が夢に出てきて良い睡眠が妨げられるので、私は夜には明るい前向きなものしか観ないようにしています。マイナスのエネルギーを持った夢が自分の脳内に固着してしまうのが嫌なので。そういうこともあり、最近は筋の悪い映画やテレビ番組は観ませんし、単なる暇つぶしのための本も読まないようにしています。

 最後に、本書は読者のための単なる手引書であり、ここで書かれている内容は、私という人間のフィルターを通して見たものだということにも注意が必要です。
 読書というのは著者と読者との人間同士の個人的な対話ですから、本書を通じてここにある本の内容を「知った」としても、それは自分の「血肉になった」ということにはなりません。人間が人間に影響を受けるというのは、人と人との直接的な関係性から生じることで、「あの人はこんな感じの、とても良い人で、こんな良いことを言っていましたよ」と伝聞で知ったとしても、その感動というのは十分に伝わりません。
 読者が本書を通じてこの200冊の内容を知るということは、むしろ本書の著者である私との会話であって、私が紹介した本の著者との対話ではないのです。
 ですから、本書の中で気になる本があったら、是非、買って(あるいは図書館で借りて)読んでみることをお勧めします。もし可能であれば、原典が英語の本は英語で、フランス語の本はフランス語でというように、原語で読めるのであれば原語で読むのがベストです。
 実は、そもそも翻訳にもそういうところがあって、翻訳書というのは翻訳者のフィルターを通して再構築されたものなので、原文とはニュアンスが微妙に違っています。もちろん、翻訳が素晴らしいことで売れる本というのもありますが、Amazonのカスタマーレビューなどを見ると、「翻訳がひどかった」ので評価も低いというコメントが散見されます。せっかくの名著もこれでは台無しですから、もし本書の中で気になる本が見つかれば、原典に当たってみてください。

【目次】

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