その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は中曽宏さんの 『最後の防衛線 危機と日本銀行』 です。

【プロローグ】

 本書を1990年代からの過去30年の間に日本経済が直面した様々な困難な状況に人知を尽くして立ち向かったすべての同僚と関係者、そして日本の未来を担う次の世代に捧げる。

私たち世代が職業人として生きた時代

 私たちの世代が職業人として生きた昭和末期から平成にかけては、資産バブルで絶頂期を迎えた日本経済が、バブル崩壊を境にたどった苦難の時代だった。その30年の間に私たちは、1990年代の未曽有の金融危機と2008年の米国リーマン・ブラザーズの蹉跌を挟む国際金融危機(Global Financial Crisis:GFC)という、2度の大きな金融危機に遭遇した。
 この時代を私は日本銀行(日銀)という政策当局の現場で働いたが、組織は異なっても、それぞれの企業や職場で時代の大きな荒波に抗いながら懸命に働いたのは、同時代に職業人として生きた人々の共通体験であろう。

 昭和の時代のサラリーマンは「モーレツ」として語られることが多いが、私たちの世代は最初から「モーレツ」であったわけではない。
 「団塊の世代」の後の世代である私たちは、若い頃、世間から「優しい世代」と称された。大学に進む頃には大学紛争は既に過去のものとなり、キャンパスは見違えるようにきれいになっていた。専門課程ではそれなりによく学び、学友と議論し将来を語った。オフタイムには、ユーミンをBGMに夜空に続く滑走路に見立てた中央自動車道を疾走し、キャンディーズに熱狂し、喫茶店で文庫本を読み耽っていた。
 日本経済はオイルショックを乗り越え、未来永劫に続く繁栄に向かっているかのようだった。将来への不安はなかった。
 社会人になったとき、私たちは、「カラオケ世代」と呼ばれていた。伴奏がないと歌えない、というような主体性のなさを揶揄したものだったらしい。そんなものかな、と受け止めていた。主体性がなくたって未来への道は開ける。そんな楽観が日常を支配していた気がする。

 生活が一変したのは1990年代初頭にバブルが崩壊したときだった。金融危機の勃発を契機に、「優しい世代」だったはずの私たちは、企業で、当局で、それぞれの職場の危機対応の現場に否応なく動員され「戦士」として鍛えられ戦うことを求められた。
 激動の時代だったがゆえに、それからたどった人生は様々だった。道半ばで夢が閉ざされた人がいた。運命に翻弄された人もいた。だが、皆、それぞれ懸命に生きた。私が同じ時代を生きた世代に強い共感を覚えるのは、共有する強烈な時代経験があるからだろうと思う。バブル崩壊後の自らの職業人人生の意義を振り返るとき、私自身も含め、未だに昇華しきれぬ思いを抱いている人も多いと思う。本書の執筆を思い立ったのも、あの時代を生きた一人として、当時何を考え、どう行動したのかを書き記しておかなければ、と考えたからだ。
 記述は、危機対応の現場からの視点に力点を置いた。執筆は容易な作業ではなく幾度も挫折しかかったが、自分を最後まで駆り立ててくれたのは、あの時代、様々な企業や組織で現場を担った無数の人々の思いであったと感じている。

最後の防衛線

 本書の執筆中、常に傍らに置いた一枚の黄ばんだ紙がある。「Always be reminded that we are the Last Line of Defense――自分たちが最後の防衛線を担っていることを常に自覚せよ」と記されたその紙は、日銀副総裁として退任する日、オフィスを去る最後の1分まで自らを鼓舞するために自室の机の傍らに掲げられていたものだ。時に「最後の貸し手(Lender of Last Resort:LLR)」と称される中央銀行の危機対応の現場で長い時間を過ごした自分の職業人人生の指針だった言葉でもある。
 本論でこれから述べるように、金融危機を食い止める「最後の防衛線」を担ったのは、もとより中央銀行だけではない。民間金融機関や金融監督当局、預金保険機構、そして資本不足に対応する公的資本注入の財源を握る財政当局も含まれる。
 本書は、私が奉職した中央銀行の果たした役割が中心となっているが、強固な防衛線を築くためには関係者が一致協力して事に当たらなければならない。防衛線に綻びが生じると、危機は瞬く間に拡大してしまう。

 本書で私が残そうと思ったのは、この言葉が自らの行動指針となるまでの過程で悩み、考え、行動した記録である。本書はいわゆる「回顧録」ではない。中央銀行論を真正面から論ずるつもりもない。もとより、自分たちが行ってきた政策の正当性を擁護することを目的としたものでもない。実際、私たちが繰り出した政策の中には所期の効果を発揮したものもあったが、そうでないものもあった。
 2つの金融危機から私たちが学んだ教訓は数知れない。これを雲散霧消させてしまっては、あまりにもったいない。これからも幾度となく訪れるだろう様々な危機局面において、職場の最前線で対処することになる次の世代が、私たちの経験とそこから得られた教訓を少しでも役立ててくれればと願い、本書の執筆を決意した。そうすることが、あの時代の経済政策を検証する作業の一助となるだけではなく、様々な立場で金融危機に立ち向かった人々の思いに沿うことにもなるのではないかと考えている。

 バブル崩壊後の日本の金融危機に対応した日々を振り返ると、必ずリフレインされる情景がある。それは、金融機関の破綻処理のため徹夜で作業した後、職場で迎える夜明け前の一瞬の静寂だ。対外公表文の作成を終え、資料を最終点検し、窓の外の空が白んでくるのをぼんやり眺めている時間は、やがて鳴り始める電話やそれに続く喧騒の序章だった。こうした夜明け前は多くの思考が交錯する時間でもあった。
 実は本書の題材の多くは、こうした夜明けの時間に書き残していたメモや日誌に求めている。それゆえに、たくさんの限界があることを私は十分に承知している。
 私が従事したのは、日本銀行で危機対応を行った前線部署における仕事である。したがって現場の視点はあっても、当時の実際の政策発動における高度な政策判断や政治的背景の詳細については及び知るところではない。その意味で、本書の記述の多くは、一人の現場責任者の視点に立脚したものであり、日本銀行の公式見解を示すものではないことをあらかじめお断りしておかなければならない。

日本経済のたどった道

 本書は、1990年代の日本の金融危機と、2008年のリーマン・ブラザーズの破綻を挟む国際金融危機という2つの大きな金融危機に、たまたま現場部署で対応することとなった自らの経験を素材としている。本論に入る前に、この時代の日本経済の大きな流れと、私の職業人としての履歴に簡単に触れておきたい。

 1990年代以降の30年間の一連の出来事を振り返ってみると、ほぼ10年おきに発生した金融危機を経て進行した日本経済の構造的変化や、日本銀行の政策が遂げた変貌の大きさに改めて驚かされる。その淵源となったのが、バブルの崩壊だった。
 1990年代の日本の金融危機は、日本銀行が使命とする金融システムの安定を確保する手段である「最後の貸し手」機能を拡張する契機となった。金融危機に続く長期にわたる景気と物価の停滞は、金融政策面でも世界に先駆けて様々な非伝統的金融政策手段を開発することを余儀なくした。

 日本の金融危機のクライマックスから10年の歳月を経て、ようやく日本経済が立ち直りかけていたところで遭遇したのが、リーマン・ブラザーズの破綻を挟む国際金融危機だった。日本が1990年代に経験した金融危機と経済の間に作用する「負の相乗効果」が、世界規模で繰り返されることになった。これにより日本経済は再度、大きな調整を迫られた。必然的に日本銀行の金融政策手段も、「最後の貸し手」機能による金融システム安定化手段も、非伝統的領域を奥へ奥へと進むことになった。

 日本経済は立ち直りの兆しが見えるたびに新たなショックに襲われた。2011年3月には東日本大震災が、そして2020年春には、青天霹靂のように新型コロナウイルスの感染拡大が世界経済を揺るがした。
 度重なる危機の影響を制御するために新たな政策手段を開発・実施するというサイクルは、まるで「終わらない物語」のように続いた。金融危機が起点となって金融システム安定化政策だけではなく、金融政策も大きな変貌を遂げた経緯を踏まえ、本書では金融政策についても自らの職歴の中で関与した領域を対象とした。

職業人としてたどった道

 私は1978(昭和53)年4月に日本銀行に入行した。今でも入行式の日に森永貞一郎(もりながていいちろう)総裁から辞令を交付され、社会人としての第一歩を踏み出したときの緊張感を昨日のことのように鮮やかに思い出す。それ以降、通商産業省(現・経済産業省、Ministry of International Trade and Industry:MITI)と国際決済銀行(Bank for International Settlements:BIS)への2度の出向を挟み、2018年3月に副総裁を退任するまでのおよそ40年間を日本銀行で過ごした。

 振り返ると、入行したての頃、私は海外に留学し経済学を勉強して日本銀行で金融政策を支えるエコノミストになりたい、と夢見ていた。しかし、私が職業人人生を過ごした昭和から平成にかけての時代は、バブルの形成と崩壊という、その後日本経済や金融システムに深い傷痕を残すこととなった出来事が続いた時代と重なる。そうした時代のめぐり合わせもあって、私の職業人生活の約3分の2は、1990年代の日本の金融危機やリーマンショックへの対応に費やされることになった。
 思い描いていたのとは随分異なる職歴を歩むことになったが、人生とはそういうものだろう。そして、最後の5年間は、黒田東彦(くろだはるひこ)総裁の下で副総裁として、また唯一の日銀出身のボードメンバーとして、日本銀行の組織の一体感を保ちながら中央銀行業務を遂行していくことに腐心した。

中央銀行を支える現場──日銀福岡支店の思い出

 私は、海外留学の機会がなかったが、それに加えて、通常は新人が経済理論などを学ぶために、研修所に3カ月間泊まり込みで受講する「理論研修」も受けることができなかった。その意味で、私は同期27人中で最も「学」がなかった。しかし、その代わりに学んだこともあった。それは、中央銀行業務を支える「現場」の大切さだ。

 現場業務の大切さは、新人として入行半年後に赴任した日本銀行福岡支店で学んだ。福岡支店では、一通りの中央銀行業務を学ぶため各部署を順に回った。最初に配属されたのは発券課だった。発券課は、お札(銀行券)の発行と還流に関する事務を行う部署だ。
 福岡のような大きな消費都市では、企業の給料日や休日前に、民間金融機関が日銀当座預金から現金を引き出す形で銀行券が大量に発行される。家計が銀行券を使って消費した後は、今度は、小売店などで使われた銀行券が金融機関に戻ってくる。金融機関はこれを日銀の当座預金に預け入れるため、銀行券は日銀に還流する。
 発券課でまず担当したのが鑑査事務だ。鑑査とは、お札の勘定と目視による検査だ。つまり、お札を数えながら傷んだ銀行券などを抽出して流通から取り除く作業だ。今は、自動鑑査機が普及して作業は自動化しているが、当時は人手による、いわゆる「手鑑査」が中心だった。お札を縦にして数える「縦読み」と、扇のように開いて数える「横読み」と呼ばれる方法があったが、生来不器用な私にとっては、いずれも至難の業だった。

 指導に当たってくれた発券課の佐伯宏子(さえきひろこ)教官の数える速さと正確さは、私には神業にしか見えなかった。彼女は、私に紙でできた模擬銀行券を手渡し、夜、独身寮で所定の時間で鑑査を終えられるよう、練習するように指示した。しかし、懸命の練習もむなしく、教官の示した時間をクリアすることは、なかなか難しかった。
 そんなある日、福岡市民のグループが発券課の鑑査事務を見学に訪れることになった。すると発券課長が、「中曽君、悪いのだが、今日は見えないところに引っ込んで仕事をするように」と告げた。私のような下手な人間がお札を数えている姿を見られたら、日銀への信用が失われかねないことを懸念したのだ。信用こそが中央銀行を支えているのだということを実感した最初の出来事だった。

 発券課は毎日莫大な金額の現金を取り扱う。当然のことだが、受け払いの結果と金庫に収納する残高は、1円の単位まで「ぴしゃり」と合わなければならない。
 これを毎日照合する上で欠かせないのが、算盤の技だ。何しろ扱う金額が大きいので、普通の電卓では間に合わない。算盤の端から端まで使って、立ったまま読み手の言う数字を入れていくのだ。有段者の達人になると、頭の中に算盤があるらしく、実物ではなくバーチャルな算盤の上で指を動かすだけで四則演算を自在にこなしていた。
 発券課の時代、現場職員の持つ技量の高さに毎日、驚かされていた。

 発券課の仕事では、現金の紛失事故などの間違いが絶対に許されなかった。緊張感の高い職場であるがゆえに、気分転換に同僚や上司と飲みに出かける機会も多かった。算盤の達人の技は、割り勘の金額を計算するときも存分に発揮されていた。
 しかし、どんなに飲んでも翌朝始業前には、凛とした空気が職場に張りつめていた。その切り替えは見事だった。統制と規律の下で銀行券の発行・還流事務が進められる様子に、私は中央銀行の原点を見た思いがした。中央銀行の現場の業務が人々の経済活動を支えていることを認識した。

 福岡支店で発券課の次に配属になったのが営業課だ。営業課で私は地域の産業調査を担当することになった。営業課の直属の上司だった百瀬浩二(ももせこうじ)係長は厳しい人だった。
 地域の経済統計を参照しながら、最初の産業調査報告書を彼に提出したときのことだ。煙草をふかしながら苦虫を噛みつぶしたような表情で一読すると、彼は「一体、何見てきたんだ!」と怒鳴るや、その場で報告書を破り捨てた。私のプライドは木っ端微塵に打ち砕かれた。
 そのとき、彼に教わったのは、企業の現場を見る「目」の大切さだ。私の報告書が統計だけを頼りにまとめられたものであることを、彼は即座に見抜いていた。その上で私に諭したことは、産業の実態は、数字だけに頼るのではなく、企業の生産の現場や経営者の眼差し、生の言葉から洞察しなければならない、ということだった。
 こうして営業課でも、私は現場のプロフェッショナリズムを学んだ。現場の力を重視する私の原点は、福岡支店にある。
 以来、副総裁時代を含め地方に出張するときには、私は時間の許す限り地域企業の生産の現場を見学するようにした。地方には、小さくても素晴らしい技術に支えられた大きな潜在力を持った企業が数多く存在することを再認識することができたのは、こうした地方出張の機会があったからだ。

通商産業省への出向時代

 1980年7月、日本銀行福岡支店での勤務が1年10カ月を経過したところで、東京の通商産業省(通産省)へ出向の辞令を受け、思い出深い福岡の地を後にした。
 同期の川島孝夫(かわしまたかお)君が同時期の辞令で大蔵省(現・財務省)に出向になった。各地の支店に散っていたそのほかの同期は支店での勤務を終え、東京の本店に一斉に戻った。新人の支店勤務は、いわば初年兵の教育期間であったから、東京の本店復帰後にはいよいよセントラルバンカーとしての仕事が始まるはずだった。その中で私たち2人だけが「未帰還者」になった。前述したように、その夏に予定され、入行前から楽しみにしていた「理論研修」にも参加できなくなった。がっかりしなかった、と言えば偽りになるだろう。ただ、そうした感情も新しい職場での生活が始まると吹き飛んだ。

 通産省での配属先は産業政策局産業資金課だった。仕事の内容は省としての財政投融資予算をとりまとめて査定官庁の大蔵省理財局に要求することだった。私は、石油公団、金属鉱業事業団、地域振興整備公団、電源開発の担当になった。おかげで財政投融資の仕組みにはかなり詳しくなった。
 このほか、日本の将来の産業金融のあり方に関するビジョンを掲げることを目的に、産業構造審議会の下に設置された産業金融問題小委員会の事務局も担った。
 当時、通商産業省は「通常残業省」と揶揄されるほど長時間勤務が定着していた。省内には、自分たちが日本産業の成長と経済の発展をリードしてきたという自負が色濃く残っていた。産業資金課で過ごした2年余の間に私は、児玉幸治(こだまゆきはる)、棚橋祐治(たなはしゆうじ)、山本幸助(やまもとこうすけ)、岡松荘三郎(おかまつそうさぶろう)の4人の課長に仕え多くの刺激を受けた。
 その間に職場で叩き込まれたのは、所管の領域にとらわれず大きな視野からアイデアを出して新しい政策を考えることと、そのために徹底的に議論することだった。課長が「議論しよう」と言って会議が始まると、様々な角度からの論点が尽きるまで議論が延々と続いた。

 議論の結果は、通産省としての予算案に新政策として盛り込まれ、まとめられた。これを大蔵省に提示して査定を受けるのが、年末の予算編成作業だ。大蔵省からの内示を受けるまでの大詰めの作業では泊まりがけの日が続いた。クリスマスの前夜には、「野郎だけで殺風景だね」と言いながら、同僚と職場でケーキを食べて、ほんの少しだけイブの気分に浸ったことを思い出す。
 議論を尽くすことを尊ぶ通産省の組織文化は、職場のいろいろなところに表れていた。当時の建物には各階に2つの局が配置され、それぞれ2本の廊下の先に局長室があった。議論を尽くして先を読む局長の部屋に通じる廊下には、通りに見立てて「読み筋通り」、上の意向ばかりを気にする局長の部屋に至る廊下には「おっしゃる通り」という名前がついていた。

 産業政策局は日本経済の見通しに基づいて産業政策を考える局だったので、日銀の景気見通しや金融政策についても注視していた。
 ある日、景気判断についての局議が行われることになった。時の上司だった棚橋産業資金課長は、私を伴って局議に参加しようとした。ところが、私が日銀からの出向者であることを知る他課から情報が日銀に流れることを懸念して、私が同席することに対してクレームがついた。これに対して、課長は「出向者といっても今は通産省の人間だ。彼を出席させないのであれば自分も出ない」と言い切った。このとき私は、出向中は親元のことは忘れ通産省の職員になりきろうと思った。
 「通常残業」の職場で文字通り寝食を共にした産業資金課の上司や同僚たちとの交流は、その後現在に至るまで続いている。
 20年後に私が局長になった日本銀行金融市場局では、官公庁や民間金融機関などからの出向者を受け入れ働いてもらっていた。通産省時代の自らの経験を踏まえ、出向者にはプロパー職員と区別なく同じ仕事をしてもらうように心がけた。

 通産省出向時代に訓練されたもうひとつのことは、交渉においては、多少分が悪くても諦めずに粘り抜くことだ。この組織文化も省内で幅広く共有されていた。
 日本の産業政策を担う自負と強力な交渉力で通産省は海外当局の相手方からも“Mighty MITI”として畏怖の念を抱かれていた。未来の通産省を担う若い担当者たちは、「消極的権限争い」とも呼ばれていた他部署との仕事の押しつけ合いでも、調整を要する文書の些細な文言修正でも、全力で交渉に臨んでいた。  私もそれを見習った。後に日銀に戻り、金融政策を所掌する総務局企画課の担当者として当時の経済企画庁調整局調整課を相手に、文書の修正交渉を行ったときのことだ。事案は忘れたが、各省合議の中での「てにをは」的な内容だったと思う。当初案での妥結を目指す相手に対して私が譲らなかったため、調整は深夜に及んだ。最後は相手が「本当にしつこいな。あなたみたいな日銀の担当者は初めてだよ」と言って折れた。自分では全く意識していなかったが、通産省で受けた訓練の成果だったのだろう。

 新人時代に日本銀行福岡支店で学んだ「現場力」の大切さと、通産省の産業資金課で鍛錬された「不撓不屈」の気構えは、その後の私の職業人としてのバックボーンを形成した。職業人初期のこれらの経験があったからこそ、その後対峙することとなった金融危機に気概を持って挑んでいくことができたのだろうと思う。

金融危機へ

 通産省から日銀に戻って営業局に配属された後、2年が経過したところで総務局企画課に異動した。このときに遭遇したのが1985年9月22日に行われた先進5カ国(G5)蔵相・中央銀行総裁会議において発表された為替レート安定化に関する合意、いわゆる「プラザ合意」だ。これを契機として進行した急激な円高により日本経済は苦境に直面した。

 それを克服した末に待ち受けていたのが資産バブルだった。日本がバブルに踊った1980年代末期、私は日銀ロンドン事務所で勤務していた。当時住んでいたロンドン北部(N12区)でも、金融街シティに進出する日本金融機関の職員が次々に転入して家賃が瞬く間に上がっていった。日本からやって来る観光客の羽振りのよさからも日本経済の絶好調ぶりが想像できた。

 1989年8月の帰国後、調査統計局外国調査課欧米係長に就任した。通例ではその後、国内経済の動向を分析する内国調査課へ異動して産業貿易係など当時の花形ポストに就くことが多かったが、私の場合はそうならなかった。1990年5月の機構改編で新設された国際局国際金融課に異動することになったからだ。それでも、このあたりまでの日銀での生活は比較的平穏だった。
 しかし、バブルの崩壊を契機に暮らしは一変した。1993年5月、私は日本の金融システム問題に対処するために機構改編の一環として3年前に新設されていた信用機構局信用機構課に配属された。  ここで本書のテーマである、1990年代の日本の金融危機に遭遇することになった。

 この信用機構局信用機構課で、私は1993年から2000年までの7年間を過ごすことになった。その後、1年間のBISへの出向を挟んで2001年から09年までの8年間は金融市場局に在籍した。
 この時代、日銀は、後に「非伝統的金融政策」と呼ばれるようになった領域に踏み込んでいった。「ゼロ金利政策」の後、2001年に開始された「量的緩和政策」は5年後の06年に「出口」を迎えた。その後、2度の政策金利引き上げまで漕ぎ着けたところで遭遇したのがリーマンショックだった。私は、今度は、国際金融危機への対処を金融市場局長として現場で担うこととなった。

 日銀では、職員は通常2〜3年のローテーションで職場を異動する。それなのに、私は信用機構局に7年、金融市場局に8年と同じ部署に長期間在籍した。これは、金融危機という異常事態に対処するための異例の人事運用だったのだろう。

 危機対応部署での勤務を重ねる中で、「生活の本拠地は日本銀行」のような暮らしぶりになった。そんな私を昔から知る記者から、あるとき、記者仲間での私のニックネームが「本籍日本橋本石町」であることを打ち明けられた。国際金融危機のときには「眠らぬ市場の番人」として新聞紙面で紹介されたこともあった。
 光栄なことかどうかはわからないが、確かに自分の職業人人生をよく表しているし、それに、単純に「ワーカホリック」と呼ばれるよりはましかな、と受け止めていた。
 ただ、私だけが特別であったわけでは全くない。金融危機に対峙して多くの人々が同じような職場環境で同じように働いていた。私はその多くの人間の一人だったにすぎない。1990年代の日本の金融危機では、金融システムがメルトダウンの瀬戸際まで追い込まれ、経済が軋んだ。その激動期に監督当局や中央銀行、民間金融機関で危機対応の現場を担った人々の中には未来が閉ざされたばかりではなく命さえも失った人々がいた。彼らの犠牲や献身は時の流れの中で忘却の彼方に去りつつある。本書は、そうした多くの人々とともに金融危機対応の最前線で苦闘した日々の記録である。また、その後特に副総裁として多くの同僚に支えられながら取り組んだデフレとの戦いの記録でもある。

本書の構成

 本書は4部構成となっている。第Ⅰ部では、1990年代の日本の金融危機を扱っている。主な出来事をたどりながら、想定を上回る事態が重なる中で対応が後手に回った状況を振り返る。そして、「今、そこにある危機」が誰の目にも明らかになってから抜本的な対策が講じられていった経緯を回顧する。
 危機対応は、中央銀行と監督当局とが協力して行うものであるが、本書では日銀が果たした役割のうち、緊急流動性支援、いわゆる「最後の貸し手」機能に焦点を当てて、その効果と限界について評価する。その上で、危機収束に長い時間を要した背景を検証する。
 第Ⅱ部では、国際金融危機を取り上げた。その発生メカニズムについて考えた上で、中央銀行の対応を、リーマン破綻までの1年間、破綻直後の緊急ドル流動性供給の仕組みの構築、そして金融政策面からの対応という3つの段階に分けて記述した。
 協調体制の下でのドル供給の新たな仕組みであるスワップラインの構築に向けての過程については、金融システムの安定という同じ使命と共通の組織文化を有する世界のセントラルバンカーたちが、スイスのバーゼル市に所在する「国際決済銀行」を舞台に繰り広げた危機対応時の共闘の様子を描いた。
 第Ⅲ部では、国際金融危機後の日銀と金融政策を扱った。本書のテーマは金融危機対応であるが、金融政策を取り扱ったのは、金融危機による経済の大幅な落ち込みに対応した景気対策としてそれが実施された経緯からすると、金融政策も危機対応の延長線に位置付けられるからだ。個々の金融政策手段も、金融システム安定化政策の側面を併せ持つものが多い。

 本書では、経済の立て直しを図る観点から、白川方明(しらかわまさあき)総裁の差配で開始された各種の臨時的で異例の金融政策が、黒田総裁の下でどのような変化を遂げていったかについて振り返った。
 黒田総裁が就任した2013年から2018年まで、私は副総裁として総裁を補佐する立場にあった。その意味で金融政策の現場から政策決定の場へと移っていたが、本書の趣旨に沿って可能な限り、政策運営上の実務的な視点から記述することを心がけた。また、副総裁時代の仕事の大きな割合を占めることとなった組織運営面での対応についても触れた。
 第Ⅳ部では、金融危機から学ぶ教訓と今後の課題について整理した。まず、2020年の年明け後に発生した新型コロナ感染拡大に対する中央銀行の政策対応について、「最後の貸し手」機能が遂げたさらなる変貌に焦点を当てて解説した。そして、過去の金融危機から学んだ教訓を整理し、それを踏まえた上で、中央銀行などの政策当局や民間金融機関にとって残された課題を列挙した。
 課題のひとつとして、政策当局や民間金融機関などの現場部署において、時代を超えて継承されるべき「危機対応のDNA」とも呼べる資質の重要性を指摘した。最後に米国連邦準備制度理事会(Board of Governors of the Federal Reserve System:FRB)の金融政策の動向を踏まえ、日銀の金融政策への示唆についても簡単に整理した。

【目次】

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