その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はアレックス・ライリー(著)、 梅田智世(訳)の『 極限環境生物 人間なら秒で死ぬ! ありえない場所でがんばる生きものたち 』です。
【はじめに】
そのプラスチック製の皿には十字の引っかき傷がいくつもつき、湿度の高い晴れた朝に見かけるクモの巣の糸みたいに、ひとつひとつの傷が光をとらえている。ところどころに浮かぶ鼻汁を思わせる緑色の雲が、漂い去ってはまた戻ってくる。すべての雲が、目に見えない力に結びつけられているかのように連動している。9月のある朝、わたしはプリマス大学内の研究室に座り、顕微鏡ごしにペトリ皿の中身を眺めている。つまみを回してピントを調節し、倍率を調節するほうのつまみで拡大縮小する。この湧き水の薄い層のなかに、小さな動物の健康な個体群がいるはずだ。わたしがここに来たのは、その動物たちを見るためだ。1匹1匹は全長4分の1ミリメートルにも満たない。それに、透明だ。わたしはペトリ皿を回転させ、ごく軽く触れた衝撃にも反応する緑色の藻類の集まりがあちらへこちらへひょいと揺れるようすを観察する。全部の動きが拡大されている。わたしは例の引っかき傷にピントが合うようにする。そこに、目的の動物がクマのような小さなかぎづめでしがみつくからだ。
わたしの目には藻類、つまり鼻汁のような緑色の餌しか見えない。なんとなく映画『ジュラシック・パーク』に出てくる少年のような気分になる。ティラノサウルス・レックスが見えると期待して素敵な双眼鏡を覗きこんだのに、柱につながれたヤギしか見えなかった、あの少年。
何分か回したり上下左右に動かしたりしたあと、わたしは疑問をもちはじめる。そもそもここに動物なんているのだろうか。
ここプリマス大学の博士課程に在籍するエリス・モロニーが親指と人差し指でわたしのペトリ皿をもちあげ、自分の顕微鏡に置く。「ここにたくさんいますよ」と興奮したようすで言ってから、指導する学部生たちも見つけるのに苦労するのだと続け、すかさずわたしの心をなだめる。深海の奇妙な生きものたち、透明なクシクラゲや大きな口のフウセンウナギに夢中になって子ども時代を過ごしたモロニーには、ほかの人なら生命を見つけられない場所や退屈と見なしそうな場所に注目する癖がある。わたしが面会したときには、パール・ジャムのTシャツに薄茶色のコーデュロイパンツといういでたちで現れた。赤みがかったブロンドの口髭を生やしている。ほっそりした体つきだが、思いのほか大きな声のもちぬしだ。それに、しょっちゅう罵り言葉を吐く。研究室にいる動物について話すとき──「やつら、まったくファ××ンなことに、しょっちゅう死ぬんですよ」──にも、自然の偉大さに畏怖の念を抱いているとき──「あの深海の蠕虫(ぜんちゅう)たちは、熱水噴出孔から出るファ××ンな硫黄でもなんでも取りこむんです。しかも、それが大好きなんですよ」──にも。
モロニーはわたしにペトリ皿を返す。モロニーの説明とたしかにそこにいるという事実に導かれたおかげで、今度はわたしにもすぐに見つかる。小さなミミズのような小塊。イモムシを思わせるが、過去に見た土のなかや葉の上を動くどんなものともかけはなれたそれは、1粒の茶色い砂につまずきつつ、のんきによたよた歩いている。左右に揺れ、上下に脈打つそのようすは、ビーチボールでいっぱいのプールで泳ごうとしている人を連想させる。エグゼンプラリスヤマクマムシ(Hypsibius exemplaris)、緩歩(かんぽ)動物の一種である。クマムシとして知られるこの極小の動物グループは、過酷な環境を耐え抜く能力で有名になった。この小さな変わり者が登場するアニメーションや動画はネット上でものすごい視聴回数を稼いでいる。その手の動画の1本で宣言されているように、クマムシは「小宇宙のセレブリティ」になったのだ*。この名声が、人間なら数秒から数分で死ぬであろう想像を絶する極限条件──絶対零度に近い寒さ、水が沸騰する熱さ、生命を粉砕する放射線、真空空間──に耐えられるスーパーヒーローばりの能力の賜物であるのは疑いようがない。だがもうひとつ、それに劣らず重要な理由がある。クマムシはとんでもなくかわいいのだ。
この特徴は、人間が緩歩動物を知ったのとほぼ同じくらい昔から認知されていた。ヘンリー・ジェイムズ・スラックは1861年の著書『驚くべき池の生きものたち(Marvels of Pond Life)』のなかでこんなことを書き、科学界におおいに貢献した。「小さな子犬のような形をした動物が8本の不完全な肢で非常にせわしなく歩きまわっているが、あらんかぎりの努力もむなしく、たいして前進していない……とても滑稽で愉快なちびちゃんである」。顕微鏡のレンズごしだと、この緩歩動物の子犬っぽさをあますところなく堪能するだけの細部は見えないが、その要素はわたしも知っている。丸っこい背中、平たくつぶれた顔、子どもっぽさのあるぎこちない動き。クマムシはヒグマよりもテディベアを思わせる。
そんなふにゃふにゃした極小のかわいい動物が並外れてタフだとくれば、驚くのも当然だろう。緩歩動物の超自然的なパワーも、やはり昔から知られている。緩歩動物の熱狂的愛好家のひとりで、イリノイ州テクニーの宗教コミュニティで暮らしていた聖職者が1938年に書きとめたように、クマムシは「たぐいまれな忍耐力」をもち、沸騰する水に30分入れておいても、零下200度を下まわる液体ヘリウムのなかで7か月にわたって凍らせても、1000気圧の圧力(マリアナ海溝と同じくらい)をかけても、強烈な放射線(紫外線、ラジウム、X線)やさまざまな有毒ガスにさらしても生き延びるのだ。すっかりとりこになったその聖職者は、「最終的になにが彼らの命を破壊するのか、明言することはいまだ不可能である」と結論づけた。このいち早い観察所見はもっと最近の研究でも再現され、クマムシが絶対零度(零下273.15度)よりもほんの少しだけ高い温度にも耐えられることが実証された。絶対零度は理論上ありうる最低の温度で、あらゆる種類の分子運動が停止する状態だ。その対極の151度という高温でもクマムシは殺せない(ただし例外はあり、一部の種は熱の影響をきわめて受けやすい)。人間の致死線量の1000倍を超える放射線も、まるで軽い日焼けみたいにやりすごせる。
クマムシのこの世のものとは思えぬ生存力は、文字どおりこの世界から飛び出したこともある。2007年9月、緩歩動物はフォトンM3と呼ばれる分厚い金属カプセルで宇宙へ送られ、低軌道に入ったところ(地表から250~290キロメートル)でカプセルが開かれた。真空空間──極度の低圧、極寒、遮るもののない紫外線──にさらされながら、クマムシたちは秒速7.8キロメートルで世界をめぐり、地球を192周した。9月26日、カプセルは地球の大気に突入して火の玉と化したが、乗っていた動物たちは全員、分厚い12キログラムの熱シールドに守られていた。最後にパラシュートで地表に降り立ったあと、カプセルはヘリコプターで回収され、欧州宇宙機関が拠点を置くオランダへと運ばれた。シリコングローブをはめた科学者の手によって無菌環境で調べたところ、真空空間の低圧と無酸素という致死的な組みあわせにも、緩歩動物はおおむね影響を受けていないことがわかった。唯一、紫外線全域(真空UV〜UV‐A)に曝露した群だけは、生存率が大幅に低下した。だが、このもっとも過酷な扱いを受けたグループでさえ、何匹かのたくましいオニクマムシ(Milnesium tardigradum)は生き延びた。「本研究の結果は……真空空間と太陽放射線/銀河放射線への同時曝露を生き延びた動物の最初の記録である」。スウェーデンにあるクリスチャンスタード大学で理論・進化生態学を研究するインゲマル・ヨンソン教授らは2008年にそう書いている。さらに、なぜ死なずにいられるのかは「謎のまま」だとも述べた。
緩歩動物の生存力は広く知れわたり、尊敬されるようになっている。2017年には、オックスフォード大学とハーバード大学の物理学者が、この世の終わりを示す究極の指標として緩歩動物を使ったほどだ。「(この惑星を)完全に不毛な状態にするためには」と彼らは書いている。「この種類の生物を残らず死滅させるために必要な事象を突き止めなければならない」。ネイチャー・リサーチ社の『サイエンティフィック・レポーツ』誌に掲載された論文で著者らが計算したところによれば、既知の太陽系小惑星のなかでも最大のふたつ──ベスタとパラス。どちらも地球に衝突して非鳥類型恐竜を絶滅させた小惑星の1000倍の質量がある──と同等のサイズの小惑星でなければ、緩歩動物を死滅させるだけの潜在的な力はないという。しかもこの論文──「天体物理学的事象に対する生物のレジリエンス」と題されている──では、どこかの惑星でひとたび生命が誕生したら、その後は持続する可能性が高いと結論づけられている。緩歩動物は生物のレジリエンス(適応能力/回復力)を示す極端な一例にすぎないのだ。「大気が完全になくなったとしても、海底に生息する種には影響しないだろう」と著者らは言う。「大きな小惑星が衝突すれば衝突の冬が訪れる可能性があり、そうなると惑星表面の受けとる日光が少なくなり、気温が低下する。これは日光に依存する生物にとっては破局となるだろうが、深海の火山噴火口周辺は影響を受けないと思われる」。そうした熱水噴出孔の生態系で暮らす生きものたちには、7章で会いに行こう。
では、わたしたち人間が引き起こしている目下の破局はどうだろう? いまよりも高温で予測不可能になった世界で、緩歩動物はどうなるのか? 2021年、気候変動の各種の予測をシミュレーションしたある実験では、緩歩動物は生息環境の高温化と乾燥が進んでも耐えられることがわかった。5.5度の気温上昇という、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)による2100年の予測モデルのうち「最悪のシナリオ」でさえ、ノースカロライナ州のデューク・フォレストにある屋外施設に生息する緩歩動物の多様性や個体数には影響しないという。気温と乾燥度の急激な変化に耐えられる緩歩動物は、気候変動耐性のある数少ない動物のひとつと見られる。
環境変化をこれっぽっちも意に介さない能力をつうじて、緩歩動物は地球上の生命にかんする忘れられがちな事実を教えてくれる。生物には適応能力があるのだ。地球上の生命は5回の大量絶滅事変──うち1回では海洋生物種の96パーセントが死滅した──を生き延びてきた。凍りついた世界、有毒の海、現代のメキシコに衝突したマンハッタンほどの大きさの小惑星。それくらいでは、地球上の生命の王朝を終わらせることはできない。あらゆるものをひっくるめたひとつの生物学的存在としての生命の息の根を止めるのは、おそろしく難しいのだ。
1日1日を生き延びるためにはレジリエンス、つまり適応能力が求められる。だが、長い年月にわたる存続は、創意工夫がなければ実現しえない。創意工夫とは、不安定な原子の放つ放射線などの新奇な食物源に適応したり、過酷すぎてほかの生物にはほとんど生きられない場所にすみついたりして、新たな生き方を見つけだすことを意味する。
緩歩動物は想像を絶する過酷な環境に耐え、状況がよくなるのをじっと待てる。一方、本書には極端な条件に頼って生きる別の生物たちも登場する。海上を行き交う船の7000メートル下の深海には、人間の肺を押しつぶし、血管を破裂させるほどの圧力のなかで栄える幽霊めいた魚がいる。太陽の照りつける世界各地の灼熱の砂丘では、ほかのどんな動物にとっても死を意味する気温になる時間帯に限って、熱を好むアリが巣から走り出てくる。氷の浮いた南極海では、零下2度近い水温のなかで魚の大集団が繁栄している。チョルノービリ(チェルノブイリ)の立ち入り制限区域内には、1986年に爆発した原子炉で採食する菌類がいる。
人間中心主義に染まった傲慢なわたしたちは、どこかの場所を見ては、おそれ知らずにも「生命のない世界」などと形容する。ところが結局は、このうえなく豊かな生態系をまのあたりにすることになる。生物の生きられる温度の限界を設定しても、いずれはその閾値が粉砕される。すべての動物は酸素呼吸をしていると主張しても、地中海の海底でそうせずに問題なく生きている動物たちを科学者が発見する。そして、どんな生物も(わたしたちと同じように)太陽に依存しているのだと考えるそばから、わたしたちが硫化水素を必要としないのと同じくらい日光を必要としない生態系の存在が明らかになる。
水、酸素、食物、凍結、圧力、熱、暗闇、放射線。それが、極限環境をたどる本書の旅路だ。極限環境とはつまり、生物が生きるための基本的な要件が欠けている、または過剰な場所を意味する。地球上のそうした場所は、彼方の惑星や衛星──かつては生物にとって過酷すぎると思われていたが、いまや地球外生命体を探す宇宙生物学者を夢中にさせている星々への玄関口になる。環境ストレス因子への適応は、人間の疾患の治療、さらには細胞や臓器の保存を考えるヒントにもなる。だが、さまざまな、ときに対極にあるストレス因子を次から次へと見ていくあいだも、本書の主題──適応能力と創意工夫──がわたしたちの道しるべになってくれるだろう。
極限環境をめぐる議論の中心にあるのは、「ニッチ(生態的地位)」──ある動物が生息し、採餌し、繁殖し、競争し、死んでいく場所──という概念だ。どんな動物でもいいが、その動物はいったいなぜ、酸素のない場所、食物のない場所、強烈な放射線を浴びる場所に行きついたのか? その理由は、動物の生存には環境(温度、標高、気候などの「非生物的」要因)だけでなく、捕食の脅威や競争(「生物的」要因)もかかわってくることにある。ニッチという概念が生態学に導入された時点で中心にあったのは、ふたつの種が同じひとつのニッチを占めることはできないという考え方だ。生態学者のジョセフ・グリネルは1917年のオオムジツグミモドキ(乾いた土を掘って昆虫を探し、枝の上をぴょんぴょん跳ねてベリー類を食べる灰色の地味な鳥)の研究論文にこう書いている。「言うまでもなく、ひとつの動物相のなかでふたつの種がまったく同じ生態的地位との結びつきを恒常的に築くことはない」。別の言い方をすれば、あらゆる生物は世界のなかで自分だけの居場所を必要としているということである。生存と存続は、ほかと違う存在であるかどうかにかかっているのだ。
この独自の生き方の追求は、絶えず極端なほうへと向かう進化の動きの原動力になってきた。太古の海の深みで進化した最初の微生物からこちら、生命は新たな辺境へと勢力範囲を広げ、太陽の力を手なずけ、陸に上がり、空へ舞い上がり、もっとも深い海溝に潜ってきた。少なくともしばらくのあいだは捕食者が追いかけてこられない場所、競争相手が競争できない場所がつねにあった。地球の大気の変化や大陸の移動に導かれ、生物はあらゆる空きスペースに、あらゆる裂け目に進出した。そうして、かつては退屈だった世界に驚異が植えつけられた。
極限に引き寄せられる生物のこうした傾向を表す科学用語は存在しない。人類学者でサイエンスライターのローレン・アイズリーは1957年の著書『途方もない旅(The Immense Journey)』のなかで、この傾向をひとつの感情による引力、いわく「現状に対する生命の永遠の不満」としてとらえようと試みている。この「たゆまず新たな環境に進出する習性」のおかげで、生命は「このうえなく突拍子もない環境」に適応しおおせたのだとアイズリーは書いている。進化は必然的に冒険をともなう。あるいは、『ジュラシック・パーク』のなかでイアン・マルコム博士が言っているように、「生命は道を見つける」ものなのだ。
子どものころからずっと、わたしは自然のなかに安らぎを見いだし、遠く離れた大陸や過去の地質時代の動物たちのことを知ろうと、許されるかぎりの時間を昔懐かしいダイヤルアップのインターネット接続に費やしてきた。1990年代に育った少年の例にもれず、恐竜、大型ネコ科動物、デイビッド・アッテンボローの自然ドキュメンタリーに夢中になった。だが、同じような子の大多数とは違って、わたしの関心が衰えることはなかった。むしろ深まる一方だった。いまになって気づいたのだが、その関心は、予測できないうえに混沌としがちな世界からの、自分なりの逃げ道だったのだ。2021年、新型コロナウイルス感染症と極度の異常気象に見舞われていた時期に、わたしはなかば無意識のうちに、過酷きわまりない環境を耐えられる生物たちに目を向け、勝算のほとんどない状況をものともしないその忍耐力と適応能力を調べはじめた。人間界が停止状態に陥り、俗に「アンスロポーズ」[訳註:人類を意味するanthropo-と停止を意味するpauseを組みあわせた造語]と呼ばれる時期が続くあいだ、人間の世界のことなどまったく意に介さぬそうした生物たちの話を読みあさって時を過ごした。地球上屈指の深い海溝にいるゼラチン質の魚。コケの葉状体のなかをよたよたと歩くクマムシ。おそろしく暑い砂丘にいる銀色のアリ。我関せずと言わんばかりのそうした動物たちの姿は心の慰めになった。そうして広がった視野は、わたしたち人間の生活がひどく圧縮されていた時期に状況を理解しやすくしてくれた。
意図した行動というわけではない。いま振り返ってみてはじめて、そこにあるパターンが浮かび上がってくる。想像もつかない環境を果敢に生き延びるそうした生きものの探求は、一見すると生きにくい瞬間からわたしが抜け出すのを導いてくれた。想像を絶する環境を生き抜く生物について考えることで、まだ生のある未来を想像できるようになったのだ。「地球の美しさについて深く思いをめぐらせる人は、生命の終わりの瞬間まで、生き生きとした精神力をたもちつづけることができるでしょう」。人間がこの惑星の広大な領域を農薬で不毛にしている状況を訴えた著書『沈黙の春』で知られるレイチェル・カーソンは、『センス・オブ・ワンダー』(上遠恵子訳、佑学社、1991年)のなかでそう書いている。
この惑星がわたしたち人間の活動のせいで荒廃していることは否定しようがない。氷河の融解、海のデッドゾーン、未曾有の山火事。多くの動物が生息限界の外に追いやられ、絶滅の危機に瀕している。わたしたちはいま、地球史上6度目の大量絶滅のさなかにいて、その規模は6600万年前に中央アメリカに衝突した小惑星がもたらしたものに匹敵すると主張する科学者もいる。本書に登場する事例は、その天秤を釣りあわせるものではないし、絶滅の危機に瀕する種を見捨てる理由として利用するべきでもない。それでも、地球上の生命にはもともと適応能力が備わっていることをあらためて教えてくれる。どんな困難に直面しようとも、耐え抜くであろうことを。「希望とは」とレベッカ・ソルニットは書いている。「未知や不可知のものを受け容れることであって、確信的な楽観主義や悲観主義とは違う」(ソルニット『暗闇のなかの希望 増補改訂版』井上利男・東辻賢治郎訳、筑摩書房、2023年)。本書の執筆中、わたしのなかの悲観主義者──自然界はもう終わる運命にあるのだから、きれいさっぱりあきらめてしまえと告げる声──は、いまのところ沈黙している。「楽観主義者は、私たちが関与しなくても物事はうまくゆくと考える」とソルニットは続ける。「悲観主義者はその逆だ。どちらも自分の行動を免除する」。生命の適応能力に思いをめぐらせる。それは希望をつなぐ糸、そして行動をつなぐ糸を紡ぐことでもあるのだ。
【目次】

