その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は鈴木浩三さんの『 パンデミックvs.江戸幕府 』です。
【プロローグ】
「現在、○○が流行し、低所得の人々の生活が困難になっているので、救済措置を講じることとなった。零細な商売人や日当で暮らす労働者など、その日に稼いだ収入で家族を養っている者のうち、4歳以上を対象とする。世帯内に患者が居るか否かにかかわらず、単身者1人に△△、2人暮らし以上の世帯の者1人に□□をそれぞれ給付する」「少しの遅滞もなく対象者の調査と申請手続きを進め、早急に給付が(対象者に)行き渡るようにすること」
これは現代の話ではない。
今から200年以上前の享和2年(1802)3月、インフルエンザが大流行していた江戸での出来事である。これに対して江戸幕府は、南北の町奉行と勘定奉行の発案をもとに、江戸の生活困窮者たちに緊急かつ臨時の措置として、定額の「御救(おすくい)銭」の給付を決めた。江戸時代版の“特別定額給付金”であった。
冒頭の一文は、この支給を命じる触書(当時の法令ないし通達)からポイントを抜き出して、意訳も含めて現代文にしたものである。
種明かしをすると、「○○」は「風邪」、△△は銭300文、□□は銭250文。インフルエンザは「風邪」と呼ばれていた。当時の通貨である銭とその単位をはじめ、現代の低所得者に相当する「其日稼(そのひかせぎ)」「諸職人」のほか、将軍の「御憐愍之御趣意(ごれんみんのごしゅい)」など、当時特有の用語を省略したり、現代の用語に置き換えてみた。それだけで、現代にタイムスリップしたかのような錯覚を覚える方も多いだろう。
この時、町奉行所は町方の人口50万人の半分の25万人を其日稼の境遇にあると見込み、彼らを対象に、単身者には1人あたり銭300文、2人以上の世帯には1人あたり銭250文を給付したのであった。最終的には予想を上回る28万人以上になっている。
其日稼と呼ばれた行商人や日雇いの職人たちがインフルエンザに罹れば、当然稼ぎに出られない。本人は無事でも家族が罹っていれば看病のために仕事を休まざるを得ない。“自転車操業”よろしく日銭を生活費に充てていた彼らの生活はたちまち行き詰まった。
御救銭の目的は、生活難に陥った其日稼の人々が、打壊しなどの社会的混乱を引き起こすことを防止することにあった。それだけではなく、民を生かすための窮民救済に努めることは、将軍による統治の正当性を、具現化するものだと認識されていた。
詳しくは本文をご覧いただきたいが、この本では、インフルエンザをはじめ、天然痘や麻疹(はしか)、コレラの大流行に対する江戸幕府の対応、とりわけ、人々の生活再建と経済の復興に力が注がれ、現在の福祉施策や経済政策に相当する取り組みが、組織的かつ大規模に展開されていたことに焦点を当てる。時代を経るほどに、それらの「パンデミックvs.江戸幕府」が進化し、定型化するまでになっていく様子も描く。また、ここでは、単に江戸時代の出来事を並べるだけでなく、それらが展開されるに至った理由やプロセスについても掘り下げていきたい。
江戸時代は、今から想像する以上に、次から次へと感染症が流行した時代であった。天然痘と麻疹は、江戸初期からたびたび流行している。感染症の世界的流行=パンデミックも江戸を襲っている。町方人口に武士を加えると“百万都市”となっていた江戸では、人口が集中しているだけに感染も大規模かつ深刻になりがちであった。
というと、真っ先に思い浮かべるのは幕末の安政5年のコレラの大流行であろう。しかし、18世紀の半ば頃からインフルエンザのパンデミックが江戸に到達し始めている。19世紀になると、江戸でのインフルエンザの大流行の多くが、世界のパンデミックと時系列的に重なっている。
当時の感染症で、幕府の組織的対応の中心となっていたものは、天然痘、麻疹、水痘、インフルエンザ、コレラであった。このうち、最も対象者が多く、社会あるいは経済全体を瞰して、多様な政策が組み合わされていたのが、インフルエンザ対策であった。
冒頭で紹介した江戸時代版の“特別定額給付金”のように、今日の新型コロナウイルス対策と見紛うような動きもあった。治療薬や生活必需品の高騰防止といった流通対策なども行われていた。
とはいえ、感染症だけではなく、江戸は地震、火災、風水害、飢饉などの災害に襲われ続けてきた。今回は「パンデミックvs.江戸幕府」に話題を絞るが、実は、幕府の感染症流行への対策の進化は、約260年間にわたって積み重ねられた、ありとあらゆる災害に対する危機対応の延長上にあった。
たとえば、感染症対策と底流ではつながっていた飢饉や物価高への対策では、都市の困窮者の生活を維持する見地から、今日の公共工事にあたる取り組みをはじめとする経済対策、さらには“Go Toキャンペーン”にも似た物見遊山の奨励まであった。
以上を踏まえた上で、この本では、幕府による多くの感染症への対応のうち、最も実績が多く、大々的に行われたインフルエンザの流行対策に力点を置くことにする。
現在、新型コロナウイルスへの対応で、世界中の国や自治体、企業を含むあらゆる人々が知恵と汗を絞っている。2020年初冬の時点で、日本でも感染拡大が急速に進む兆しが現れており、予断を許さない状況が続いている。
感染予防はもちろん、社会の機能や経済を回していく工夫が今後のカギとなっている。早く立ち直らないと、日本が国際競争から落ちこぼれるだけではなく、日本の人々の生活そのものが成り立たなくなる恐れさえある。逆に、立ち直りが早いほど、競争を有利に運ぶことのできるチャンスが訪れる希望もある。
こうしたときに、江戸時代の“パンデミック対策”、特に福祉面や経済面での取り組みを振り返り、そこに、将来への視点を求めていくことは意味があるだろう。しかも、この本で大きなスペースを割いて描くインフルエンザは、幕府が組織的に対応した感染症のなかで、世界中を大混乱に陥らせている新型コロナウイルスと最も似た感染の形態といえる。
江戸時代のことを語りながら、人類が初めて経験している新型コロナウイルスの出現した社会について、“ウィズコロナ”や“ポストコロナ”の時代における人々の生活再建や経済の立て直しを中心に、未来に向けて想いを馳せることも許されるだろう。
【目次】