その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は造事務所 編著/脇村孝平さん監修の『 10の「感染症」からよむ世界史 』です。

【はじめに】

 現在、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)によるパンデミック(世界的流行)に遭遇して、感染症がこれほど“厄介者”であったのかという思いにとらわれている人は少なくないでしょう。20世紀以降の医学の著しい発展によって、感染症の脅威はしだいに後景に退き、私たちの日々の「暮らし」の中でそれほど意識せずに済ますことができてきたからです。確かに、2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)の流行が取りざたされたとき、また2009年に新型インフルエンザの本格的なパンデミック化が懸念されたとき、黒い影が私たちを一瞬覆いましたが、すぐに消え去りました。しかし、今度ばかりは違っています。

 人類もまた地球上の一つの生命(life)に過ぎず、種々の生命との共存なしでは存在を許されない、という事実を私たちは思い知らされました。ウイルスが生命であるのか否かは措くとしても、多くの感染症の病原体が生命であることは疑いありません。したがって、人類と「自然」との関係、この場合、感染症をもたらす生命体との関係を改めて強く意識せざるをえません。言うまでもなく、医学や生物学などの自然科学が、その関係を問う最前線に位置していることは確かでしょう。しかしながら、人文社会科学に何かできることはないのでしょうか。本書は、このような思いからつづられたある種のハンドブックです。とくに、歴史の中に人類にとっての感染症という経験を探っています。

 英語圏では、「生命(life)」という用語は、人々の「暮らし(life)」をも意味する言葉でもあります。人類は、「自然」との関係性を持つ中で、じつは人間相互の関係性、すなわち「社会」を構築しつつ生きています。感染症の流行は、まさに医学的・生物学的現象であるにとどまらず、社会的現象として、人々の「暮らし」の真っただ中で起こる現象にほかならないことは、本書の中で語られる数々のエピソードが明らかにしてくれます。

 本書がハイライトする10の感染症は、いくつかのタイプに分けることができます。第一は、ペスト、インフルエンザ、コレラ、天然痘といった世界史的な意味での攪乱要因、あるいは転換要因になった、文字通りパンデミックとして発現した感染症です。これらのうち、多くは世界史の“転轍機”の役割を担ったといっても良いでしょう。ただし、スペイン風邪(インフルエンザ)のように多大な人的被害(約5000万人の死者)をもたらしたわりには、のちにほぼ忘却されてしまった事例もあります。第二は、一時に爆発的に起こる疫病(epidemic)ではないけれども、結核や梅毒のようにじわりと社会の中に定着しつつ執拗にはびこる、いわば風土病(endemic)と化した感染症です。かかる感染症は、ある時代を特徴づける消し去りがたい刻印を残しています。第三は、かつて温帯でも存在感がありましたが、主に熱帯地域の人々の「暮らし」を左右してきたマラリアや黄熱といった熱帯感染症です。とくに、マラリアは、今日においてもアフリカでは、グローバルヘルス(国際保健)にとっての難題として残っています。そのほかにも、かつての戦争や、今日の難民キャンプやスラム地域のような極限状況で跋扈する赤痢やチフスといった感染症も取りあげています。

 いささか手垢がついた表現ですが、「メメント・モリ(死を忘るなかれ)」というラテン語起源の言葉があります。私たちが現在その渦中にいる感染症の経験は、つまるところ私たちの「死生観」を問うているのだと思います。本書によって、感染症の歴史を知っていただくことは、功利的な意味のみならず、微妙な均衡の中で生きている私たちの実存を顧みる契機にもなるのではないかと思うしだいです。

大阪経済法科大学経済学部教授 脇村孝平

【目次】

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